2017年4月8日土曜日

【陰隲録】功過格表㊺ 働かざる者、食うべからず 五十善 仕事を世話しよう⑥






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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

五十善に相当する

一人の流離を救免す。




【働きたくないでござる】


そもそも、仕事が無いというのは一体、どういう現象なのでしょうか?
我々は、仕事をするのが当たり前だと思っています。

しかし、別に、人生そのものは何をすべきか決まっているわけではありません。
実存哲学で言う自由の呪いです。
別に、仕事をする必要など無いのです。

強制的に仕事をさせられる状態ならまだしも、本来、仕事(労働)などする必要は特にありません。
なぜ、我々、人間はわざわざ労働をしなければいけないのでしょうか?

まあ、なぜも何も、当たり前の話で、答えは簡単で、そうしなければ生きていけないからです。

人間が誕生してから今まで、共通している普遍的な事象として、人間は、外部から食物を摂取しなければ死んでしまうという、生物学的な事実が存在しています。

要するに、お腹が減るから、食べ物を得るために働くのです。
衣食住を揃えるために、働いているのです。

今は多種多様な職業がありますが、狩猟社会時代は、主に狩りしか仕事はありません。
山で獣を狩るか木の実やキノコをとるか野草を取るか、川や海で魚をとるかです。
他は家を作るか保存食を作るか服を作るかくらいですが、力仕事以外は、村の女性陣が行っていました。

つまり食べ物を取ってくるというのが、職業の原点です。
当時も、文化人やシャーマンなどもいましたでしょうが、彼らにしても知識や情報を切り売りすることで、お布施などの食事を得ていました。
要するに食べ物目当てなのです。

換言すれば、職業イコール食べるためということがわかります。
今でも、このスキルで食っていくなどの言い回しがあります。

逆を言えば、食う必要がなければ、働く必要はありません。
食うという身体のシステムがあるからこそ、食物や他人や組織などの他者から、依存する必要があるのです。

このことは、人間(生命)はデフォルトで、他から依存しなければならないシステムになっていることがわかります。

人間(生命)は、生命活動をするために、食物を摂取する必要がある。
そのために、動植物などの他生物を捕食する必要がある。

これが基本です。
そして、この捕食行為は、さらに集団組織で実施したほうがより効率よく摂取できます。

飼育や栽培や農業などの食物の保存や大量生産をすることで、より安全に食事が出来ることになる。
そして、それには組織が必要となり、人間の階層化が進み、分業が生まれ、それが膨らめば文明が産まれる。

そのため、狩猟や農業などの捕食職業以外の職業も生まれることになります。

しかし、どんな職業であっても結局、食べ物を得るために働いています。

今は労働の対価は金という通貨で支払われますが、金が無ければ食べ物と交換できません。
労働というのは、金(食べ物)を手に入れるために働いているということになります。

上記したように、逆に言えば、食べ物がいらなければ働く必要は無いのです。

例えば、光合成が出来るスキルがあれば、食費がかかりません。
毎日、ひなたぼっこで食事していれば働く必要は無いのです。

また、食料が有り余っていれば、働く必要はありません。
食料の生産コストが技術進歩によって下がりまくれば、同じことになります。

要するに、毎日ニートしていて、ダラダラ寝っ転がって過ごすことも可能なのです。

しかし、未来に置いては可能そうですが、現状の地球文明ではまだ何ともなりません。

生物(人間)として生まれてきた。
身体のシステムとして、外部から食物を摂取する必要がある。
その食物を手に入れるには、捕食する他の生命の犠牲がいる。
それをゲットするために狩り(今では労働)をしなければならない。
狩りの結果の食物(金)を手に入れて、食物を摂取して生き伸びなければならない。

結局、これが働く理由です。
やりがいだの自己実現だの社会奉仕だの、色々と理由をまぶしてみても、根幹にあるのはこの理由なのです。


【依存】

結局、ここには、人間(生命)という存在の、限界が明示されています。

つまり、生命活動のためには、エネルギー源である食物を摂取しないといけないという縛りです。

これは、
「存在が単品で世界に存在できない」
縛りプレイです。

外部から他生物を捕食しなければならない。

この縛り項目のおかげで、生存というものは必然的に、他者に依存しなければならない。
ということなのです。

他者が必要な存在など、所詮は、弱者です。
他から供給が無ければ、死んでしまうのですから、生殺与奪の権利が自分にはありません。

他者を必要としているということは自由ではないのです。
何らかのリソースを代償に他者に提供しなければいけないからです。

さらに問題なのは、構造的に、弱肉強食になってしまうのです。

我々の生存システムは、上記したように、狩猟時代と何ら変わりません。
生きるために食べるのです。
その食べ物は他者の生き物です。

食べ物とオブラードに包んだ言い方をしていますが、動物だろうが魚だろうが植物だろうが、生き物です。

ナチスの強制収容所と同じレベルの悪行を我々は食べ物の動植物にしているのです。
(ベジタリアンと言えども植物を殺しているのですから同じです)

要するに生命という存在は、他者に依存しなければ生きていけない惰弱で不完全な生き物で、かつ弱肉強食の世界で生きている地獄の住人なのです。

ここに、自我が単独では生存出来ない「諸法無我」の原則がまた適応されます。
そして、他者を殺さなければ生きていけないという「一切皆苦」の法則も適用されるのです。

ここに生き物の矛盾が存在します。

世界は諸行無常で諸法無我であるがゆえに、一切皆苦の地獄の世界なのです。

このような危険極まりないところは、とっとと脱出する他ありません。
何をどうあがいても、このシステム自体は変わりません。
世界を変えられないのなら逃げ出すしかありません。

生命の輪廻の輪から抜け出す。
これが、本当のゴールです。





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