2018年5月27日日曜日

【豊河の美食倶楽部】Lien(東京都世田谷区池尻3-5-22 グレースマンション 1F)









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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。










恒例の美食倶楽部です。

フレンチ料理は三軒目ですね。
そろそろ、飽きてきたぞフレンチ。
次回以降は、和食か中華に。

今回は、池尻大橋のLienです。

ここは、レベルのさることながら、コスパが非常に高いことで有名です。

ディナーコースは3種類で、皿数が違うだけですが、一番高いコースでも、

アミューズ二品、前菜二分、魚と肉のメイン二種、デザートのフルコースで5000円でした。

で、食べてみて、レベルと値段を鑑みた時に、コスパは確かに高い。




予約はWEBのTableCheckから出来ます。

一人で行きましたが、カウンター席で、目の前にキッチンです。
寿司屋みたいな感じ。

あと、おしぼりが、カップラーメンの麺の如く、お湯を注いで、増えるワカメの如く、できる感じです。
※てきとうな説明。



さて、そんな感じですが、コース料理では、前菜二品とお肉とデザートが選択出来ます。

メニュー表の写真を取り忘れたのであれですが、前菜もお肉も、十数品から選べます。


コスパが良いというのは、この選択性の広さもプラスされます。
短期間に何回来ても、フルコースでありながら、同じ料理でないからです。

で、前菜のさらに前のアミューズ二品の一品目。





なんか、花が入ったガラスの箱に、乗っかってきました。




フォアグラと野菜のサラダみたいな感じのやつです。





アミューズ二品目。
パンに、中央の具入りバターと右のジャムをつけるやつ。



こんな感じのバター。

あ、ちなみに、これ以外の通常のフルコースで出るパンは、プラス300円で、普通についてきます。



右の液体はオリーブオイルですね。


で、次は前菜二品。




イカのリゾットっぽい物。
上のは混ぜる用のチーズです。




無駄にイカがでかくて吹く。





下のリゾットが隠れてるw。


いきなりリゾットという締めのご飯が来て、ご飯を残しましたが、まあ、先程も書いたように前菜は選択できますので、自業自得です。

で、次の前菜は、


キノコとお肉が入ったパイ包みです。



で、中の肉が異様に柔らかいので、何事かと思いましたが、目の前にいるシェフに聞いてみると、牛の肉とのこと。

で、ここまでが前菜です。

普通の店のフルコースのメインまで終わったような印象ですが、ここからメインディッシュです。






魚は真鯛です。
緑っちいのは、ホウレンソウをパリパリにしたやつですね。



これまたパリッとした皮の下には魚の身です。

で、次は肉。




仔羊。

これまた柔らかい肉ですが、さっきの仔牛と同じく、仔羊なのでまあ当然っちゃあ当然ですね。
黒のソースとは別に緑色のは、そら豆のソースです。

仔肉系は、やはり柔らかくておいしいですね。




さて、デザートも選択性です。
ガトーショコラとコーヒーを選択。








で、こんだけ食べて、5000円(パンがプラス300円)。
酒類は別ですが。
コスパが高いというだけのことはあります。


で、相も変わらず、気の利いた感想を言えないのですが、もっと頑張ります(口だけ)。

グルメ漫画みたいな派手なリアクションで。












2018年5月24日木曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑫











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。







因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。 
 




やっちゃった


だらだら、書いてきた、業の不可知性(無明)も、今回がラスト(に出来たら良いな)。

で、結局、業は無明でかつ我々の構成要素で、業こそが、我々の存在そのものです。

で、自由意志なんてものは、全く無い。

これは、逆を言えば、全部、業のせいに出来るのです。

善だろうが悪だろうが、全部業のせいなのです。

自分が考えに考え抜いて、実行した行為も全部、業の誘導なのです。

釈迦の掌の孫悟空のように、全ては業の想定内の事象なのです。

しかし、同時に業は無明なので把握出来ないものです。
結果が出て、始めて業が理解できる。

そして、これは、同時に、逆を考えれば、業というものは、結果から逆算して定義できるということです。

先の記事のプロ倫の如く、結果(禁欲的資本主義)を良くすることで原因(神に救われる対象)を定義しちゃうのと同じです。

何が言いたいのかというと、
世の中、やっちゃったもの勝ちなのです。

だって、行動するという結果が出た時点で、それは業の結果なのです。

それは、自分の自由意志のない業による結果です。

要するに、我々の人生において、我々を縛る物は、何も無いということでもあるのです。

そもそも、今、ダラダラ書いている、この話は、因果応報論は差別思想を生むから、それを正当化しようという話でした。
で、反論パターンが三パターンあって、その1つ目が、業の不可知性(無明)でした。

ダラダラ書いている内に、豊河も忘れていましたが。

で、何度も言うように、別に、業があって、過去や今が不幸でも、あっさり自分や他者が、それを解決してしまっても良いということです。

理由は、業が不可知(無明)だから。

死ぬまでこの不幸が続く業なのか、解決する瞬間までの業なのか、さっぱり見えないから、躊躇する必要は無いのです。

もっと、ハッキリ言うと、業も含めて、世界にしちゃいけないという縛りはありません。

世界は何だってやっていいのです。

やっちゃったもの勝ちなのです。

無論、それが成功するかどうかは別の話です。

成否は、業によって決まっていますが、その業すらも、事前には見えないので、やってみるまで、躊躇する必要は無いのです。

アイドルにプロポースしようが、大富豪に会いに行こうが、大統領を暗殺しようが、別に、全く、貴方の人生には、やってはいけないという縛りはありません。

それどころか、実は、成否すら気にする必要はありません。

だって、業が見えないということは、成功する業も見えないということです。
当然、成功する業(以下、成功業)が、あるかも知れないのです。

世界一の美女を口説こうとする人はめったにいないでしょうが、貴方が世界一の美女をゲットする成功業を持ってないとは、誰にも言い切れないのです。

現世的なあらゆる制約は、問題になりません。
~があるから、出来ないであろう。
このような、条件は、業の前には、一切無意味です。

失敗する業があれば、あらゆる条件が揃っていても、失敗します。
成功する業があれば、あらゆる条件が揃っていなくても、成功します。

そしてその業は、一切、わからないわけです。






善悪の自由


さらには、もっと極端なことを言えば、善悪すら無明なのです。

例えば、極端な例として、仏教から見た外道の思想に、順世外道という思想家がいました。

要するに、釈迦の時代の、釈迦のライバル思想家(六師外道)の一人です。

仏教が大勝利しちゃったので、外道扱いされていますが、哲学しそうとしても、非常に重要な位置づけにあります。
※ちなみに、ちゃっかりとジャイナ教の開祖もフクアmれています。

例えば、人を斬っても、それは原子(地水火風の四大構成)をすり抜けるだけであるから、カルマにはならないとかそんな感じの思想家たちです。




順世外道は、その中でも、業の強制力を強調していました。

例えば、人を殺そうとしたり呪ったとしても、罪にはならない。
なぜならば、業があれば死ぬし、業がなければ死なないであろう。
業に責任があるのであって、個人には責任がない。

こんな感じですね。

これは、仏教という因果応報の善悪をうるさく言う宗派から見れば外道ですが、ある意味、業という因果応報の考えからみれば、こっちの方が正統です。

今まで見てきたように、業を突き詰めれば、運命論となり、人間の自由意志はなくなるからです。

これは、絶対他力の念仏系でも、よく議論になってきた話です。
業があるから悪業に責任は無いとか、念仏を唱えたから悪業のし放題とか言った論理です。
※ちなみに、専門用語で、「本願誇り」というらしいです。


しかし、ここから、道徳無視のフリーダムになるか、逆に道徳的になるかは、指導者次第です。

プロ倫の話のように禁欲的になったり、だから解脱しようという方向に行くまっとうなルートもあるのです。


要するに、人間に制限が無い自由というのは、必ず、倫理の縛りが外れた暴走の危険性があるということです。

自分を不当に縛っていた鎖を外して、自由になるはいいことですが、それで犯罪に走られたら本末転倒です。

ここらへんの問題は、宗教よりも政治思想の方が専門でしょう。

犯罪者を牢に入れるのをやめるわけにはいきませんし、人間の文明で自由というキーワードが市民権を得たのは、つい最近の300年くらいです。

現代の自由平等博愛のスローガンは、秘密結社のフリーメーソンの概念ですが、彼らが、なぜ秘密結社だったのかは、この概念が危険思想だったからというのは、以前にも話題にしました。

※江戸時代に身分制度に反対したら、牢屋に入れられるのは言うまでもありません。

言わば、自由というのは、危険思想であり、秘密の教えであったわけです。

これを密教と言います。

ちなみに、シャレでも何でも無く、仏教の密教が密教たる所以の一つは、この自由思想です。

表の顕教の、道徳的・戒律縛りが無いからこそ、密教なのです。

空海が最澄に欲望肯定の理趣経を貸出禁止したのも、密教の危険性があるからです。

自由には責任と危険性が伴います。

世界宗教が多神教を邪教扱いしたのもこれにからんでいます。
表の顕教の倫理戒律は、自由というものに対して、危険性があると知っていたからです。

業が見えないから自由という、今回のカースト破りのロジックは、このような危険性があることも同時に我々は、知っておかなくては行けません。


ということで、ようやく、

因果応報論の一大ネックである差別肯定思想についてシリーズの、
反論① 業の不可知性
は、終了です。


で、残りの

②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

ですが、ぶっちゃけ、①で話した内容と被ってる部分が多いので、重複する部分は、はしょりますので、さらっとなる可能性が高いです。






2018年5月22日火曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑪











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。




因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。 
 





自他力


なんか、ダラダラと述べていますが、要するに、

我々は業が(結果からしか)見えない。
そして、業そのものが我々であると。
そのため、自由意志が無いということ。

ここまで、論理を展開してきました。

で、だからそれが一体どうしたという話ですが、このろくでもない世界のシステムを、何かまともな方向に止揚出来ないかということです。

災い転じて福となすのは、開運の基本です。

これを、ちょっと考えて見ましょう。

もう、そもそもの、テーマそのものも、なんか豊河自身忘れていますが、元々、業論は、差別思想に繋がるため、これを何とかしようと話でしたし・・・。


何度か言っていますが、人間に自由意志が無いというのは、宗教にとっては重要なテーマです。

実社会でも、自由意志がないと責任能力が無いと見なされてしまいます。

とは言え、実際には、未成年や禁治産者などでない限り、法律の責任は負うことになりますが。

問題は、それが業にも及ぶというところが問題です。

何が言いたいかと言うと、

「自由意志なんて無いのに、自分のやった罪や陰徳が、因果応報で裁かれるのはおかしくないか?」

というところです。

仏教だと、自力と他力の論争になります。

禅などの自力救済と、念仏などの他力救済の論争です。

これは、どちらも一長一短があって、元々、仏教の開祖の釈迦は、自分で修行して瞑想して悟りを開いて解脱しました。

そのため、自力救済の宗教が仏教です。

しかし、仏教は、因果論を採用しており、かつ諸法無我を教義にあげています。

そのため、自力なんてなくね?業が全てで自由意志なんてないよね?

というロジックも成立してしまうのです。

そのため、本来の仏教から見れば、邪道に近い、他力救済も正当化されてしまいます。




深夜の業力


我々、日本人は、禅のような自力救済も、念仏のような他力救済も、同じ鎌倉時代からの仏教として、1000年くらい歴史がありますので、どちらも馴染みの深いものです。

自力と他力のどちらの教義を聞いても、それなりに納得できます。

自力系の、特に禅系の教義は、特に空の教義の一貫として、いずれやりましょう。

今やってる、因果だとか陰徳とかは、空の境地から言えば、ある意味レベルが下の世界です。
善も悪も、スコーンと抜けるという境地が空の境地です。
※厳密に言えば、価値基準の判断が無いので、上も下も無いのですが。

で、他力系の教義ですが、ここで言っている自由意志が無いというのは、他力の教義に近いのです。

まあ、業という強制的な運命の話は、どうしても他力の話になりますし。


例えば、親鸞の歎異抄という有名な著作があります。

現代では、本屋に行けば(行くのがめんどい人はWEB通販でも)現代語訳や、果ては漫画でもあるので、一読されると、話がわかりやすいのですが、

歎異抄には、親鸞が、他力のエピソードとして、弟子に、こういったエピソードがあります。
ちなみに、うろ覚えなので、細かい部分は、てきとうです。

親鸞「俺の言うことマジで信じる?俺の命令百パー聞けるん?」
弟子「Sir! Yes! Sir!」
親鸞「んじゃあ、外行って、百万人ほど殺してきてくれ」
弟子「!?」
親鸞「お前、さきほど何でもやるゆーたやんけ!あぁん?」
弟子「それはちょっと・・・」

親鸞「な?うちら人間は、一見、自由に見えても、業が無ければ、何もできへんのやで!?良いことするにも悪いことするにも、業次第なんやで!?」
弟子「・・・」
親鸞「逆に言えば、業があれば、うちらは人殺しでも善業でも何でもやれるんやで?自力なんか何一つあらへんのや!?」

こんな感じです。

まあ、親鸞は、念仏信者なので、だから、他力本願して阿弥陀拝もうぜ!って話になるのですが。

要するに、みなさんが、今、この駄ブログを見て、陰徳をしたり、パワスポ行ったりして、神仏を拝むようになっても、それは全て、業なのです。

逆に言えば、みなさんが、環境の不具合で犯罪者になって悪業を積んだとしても、やはりすでに決められた業なのです。

輪廻の六道の中で、この業による強制連行を延々と漂っているのが、我々、生物なのです。

だからこそ、このどうしようもない業による流転の中で、運良く、陰徳を認識して、かつ実施出来る環境は運が良いのです。


というわけで、次回に続きます。














2018年5月16日水曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑩











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因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。
 






むりくり捻り出す



前回まで自由意志は無いという宗教のロジックの話でした。

業も突き詰めれば、そういう結論になってしまいます。



この手の論理があまり世間で言われないのは、
簡単なことで、何度も言っているように、個人責任が放棄されてしまうからです。


仏教でもキリスト教でも、世界宗教レベルになると、
ここらへんまで、論理が行き着いてしまい、
結果として、色々と、現実社会と不整合が発生します。



特に、絶対神を奉じる一神教は、突き詰めてしまえば、
上記のような、(絶対的な存在の全知全能の力による)個人責任の放棄に行き着きます。

言わば、顕教に対する密教です。
あまり、信者受けしないので、公には言わない教義なのです。

そのため、色々と理屈が、表と裏で、こじれるのですが、
世の中には、豊河と同じような連中もいます。

無理やり、なんとかこうにか、四苦八苦して、この捻れた教義を、どうにかまとめる連中もいます。


その中でもわりかし有名な話として、プロテスタントなどは、この個人責任の放棄を、上手く利用した例があります。

で、以下、なんか長いので、めんどくさい人は、読み飛ばして下さい。



プロ倫


社会学の泰斗、マックス・ヴェーバーによる、
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神などは、ここらへんの、アクロバットしたロジックを展開しています。



ヴェーバーによると、以下のようになる。

カルヴァンの予定説では、救済される人間は、あらかじめ決定されている。
したがって、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできない。
つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないのである。
また、人間は、神の意思を知ることができない。
したがって、自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることはできない。

予定説における決定論は、仏教における因果論とは正反対の論理である。
因果論においては、「善行を働けば(因)救われる(果)」のであるから、
人間の神や仏に対する働きかけ(たとえば、寺院へのお布施や教会への寄付は、
救済を金で買う行為であると言える)によって、救済が可能である。

しかし、それはある意味では、自分が救済されるために、神や仏を道具として使うことである。
そのため、それは、神に対する冒涜である。
そこで、カルヴァン主義では、神の絶対性を守るために、予定説が採用された。
そして、予定説においては、神は、人間の行為や意思に一切左右されることなく、絶対専制君主として振舞うのである。



ここで説明されている因果論は、我々の知っている基本的な意味での因果論ですね。

しかし、因果論を突き詰めると、一神教と同じように、絶対的なものとなり、結果として、個人の自由意志が無いことは今まで書いてきました。


ここまでは、一緒です。
で、ここから、アクロバット論理します。





予定説によれば、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない。
となると、人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

キリスト教においては、人生は一度きりであり、仏教のように何度も生まれ変わる(輪廻転生)ということはない。
そして、死後(第1の死)に再び肉体を与えられて、最後の審判に臨むときに、救済される人間として選ばれなかった者は、
永遠の地獄に落ちる、あるいは、消滅する(第2の死)。
そして、そうなってしまえば、救済や復活は、もう二度と起こらない。

このように、善行を働いても救われるとは限らない。また、自分が救われているかどうかをあらかじめ知ることもできない。
そして、もし選ばれていなかったら自分は永遠の地獄に落ち、二度と救済されることがない。
このような予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強いる。

そして、人々は、そこから逃れるために、
「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」
という、因と果が逆転した論理を生み出した。

そして、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、それによって生まれたエネルギーのすべてを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中させた。
こうして、人々は、禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)というエートスを生み出したのである。

そうして、人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。
そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。



で、とりあえず、ここで、重要なのは、

そして、人々は、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出した。

ここですね。

業の無明と同じ絶対神の計画を、上手く利用した因果の論理の逆転の例です。

時間軸をひっくり返した因果の例です。

我々は、普段、因果応報を、単純に時間軸で、考えていますが、こういう逆転の発想を重視しなくてはいけません。

硬直化された思考枠から一度外れてみるのです。


結果として、人間の向上心と生産性と倫理を高めていますので、なかなかに、成功した良い話では無いでしょうか?

どうしても、この手の話(キリスト教で言う予定説)は、後で出しますけど、倫理の無効化を伴う論理だからです。

因果論や予定説は、今まで言っていたように、差別論になったり、道徳無効化論になったりと、色々と落とし穴がありますが、こういう論理で人類は、穴を埋めていっています。

もちろん、カースト制度化のインドのように、穴を掘ったままにしておく例も存在していますが。






余談の密教




ちなみに、ここらへんは、宗教で言うと、表の教義や神学論です。顕教と言っていいかも知れません。

大乗仏教の六波羅蜜で言う、布施や持戒の論理化の段階です。

道徳や陰徳をいかに、正当化するかの論理です。

当然、宗教なので、その後のレベルや段階で、修行やら瞑想やら密教やらが入ってきます。

しかし、あえて言いますが、一番大事なのは、そっちよりも、こっちの顕教の方です。

一般には、宗教の密教の方が面白いので、みんなこっちに興味を持ちます(豊河もその一人です)。

今の時代、昔と違って、密教(仏教だけじゃなく)の知識が大体、公開されているので、閲覧しやすいのです。

しかし、これはかなり危険なのです。

元々、この手の密教の知識が、隠された(オカルト)なのは、それだけの理由があります。

ぶっちゃけ言えば、精神的に危険だからです。

わかりやすく言えば、ドラッグみたいなものです。

密教が簡単に手に入る現代社会は、ドラッグが簡単に手に入る社会というのと、イコールです。

元々、密教は、色々と人体(脳)をテクニカルに弄るやり方であり、精神病と紙一重です。

禅だって、あれだけ管理されている生活でも禅病になるのです。
(逆に言えば、あれだけ管理されているので、禅病になる率が少ないとも言えます)。

チベット密教はラマ教と言われますが、密教にはそれだけ管理者の師匠が重要なのです。

ドラッグを医師の診断と管理がないままで、摂取するのと一緒なのです。

西洋の密教であるカバラや西洋魔術だって、悪魔崇拝と紙一重です。

以前に、天狗の修行の話でも言いましたが、ぶっちゃけ、密教なんぞやらなくて、陰徳を積んで、死後に神様にでもなってしまえば、ほとんど一緒です。
神通力だって現世利益だって全て、手に入ります。

つまり、不思議な力を手に入れたかったら、普通に死後にまわせばよいのです。
現世で入手することは魅力的ですが、それだけのリスクがあります。

もちろん、解脱や神との合一や叡智という、宗教的な向上という面も、密教にあります。
しかし、解脱だって、最悪、極楽浄土で修行出来ます。
人間でやるよりは、神になってやる方が効率は良いでしょう。

まあ、神(天人)になると、楽すぎて修行は進まないという説が仏教の教義ですが、それだったら、師匠と管理された環境でやるのが絶対条件です。

禅や上座部仏教や密教にしても、必ず、徹底した管理環境と師匠の細かいチェックのシステムがあります。

要するに、やりたければ、出家という条件が必須です。

管理環境と師匠がいない場合での密教はドラッグと同じですので、絶対にお勧めできません。





自己暗示



で、話がそれましたが、次に重要なのは、
このプロ倫のロジックは、インドのカースト論理と違って、現世利益である金儲けを肯定していることです。
ここが、カースト論理と違って興味深い。



しかし、禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。
禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。

それまで、金儲けは、高く評価されるものではなかった。
そして、プロテスタンティズム、特にカルヴァン主義は、最も禁欲的であり、金儲けを強硬に否定する宗教であった。

金儲けに正当性が与えられない社会では、金儲けは当然抑制され、近代資本主義社会へと発展することはないはずである。

しかし、最初から利潤の追求を目的とするのではなく、
行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、
その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという「隣人愛」の実践の結果であり、
その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証である。

このようにして、皮肉なことに、最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、
金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したのである。

人々は、「結果として」の利潤の追求に励むことになる。
利潤の多寡は、「隣人愛」の実践の証であり、救済を確信させる証である。
そのため、多ければ多いほど望ましいとされた。
そして、より多くの利潤を得るためには、寸暇を惜しんで勤勉に労働しなければならない。

そのため、人々は時計を用い、自己の労働を時間で管理するエートスが成立した。
このことを端的に示す諺が「時は金なり」である。
厳格な時間管理の意識は、『近代』的な価値観の特徴のひとつである。
そして、スイスなどのプロテスタント圏で時計産業が発達したのも、決して偶然ではない。

それまでの人類の労働のあり方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、
日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、日が沈むと仕事を終えるというようなものであった。
つまり、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低いものであったのである。

しかし、プロテスタンティズムは、人類の中に眠っていた莫大な生産力を引き出したのであった。




さりげなく、労働におけるブラック企業化の原因のようなことが書いてありますが、

ここで重要なのは、

禁欲的プロテスタンティズムは、
「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。
つまり、金儲けに正当性を与えたのである。


の部分ですね。

生産性を高めるだけでなく、さらに一歩進んで、金儲けを肯定したというところにあります。

およそ、人間は、社会的に洗脳されていて、善悪の観念を持っています。

その洗脳は社会や家庭なのか、進化心理学的に種の本能としてインストールされているかは別にして、無意識に善悪の裁きを自分自身にかけています。

それは、このブログで言っている陰徳や因果応報の原動力かもしれません。

しかし、良いことをやって開運するのも、これが原因の可能性があるのです。


そして、一般的には、金儲けは悪だという洗脳を我々は受けています。

金持ちや権力者は、悪人で、庶民を搾取している外道だという洗脳です。

まあ、ぶっちゃけ間違っていないのですが、とは言え全部の金持ちがそうだとは言い切れないはずです。

大海の一滴の如く、善良な金持ちがいるかも知れませんが、どちらにしろ、こういう認識を我々はデフォルトで持っています。



さらには、上に立つものは、全体のために少数の犠牲である必要悪をやらなくてはいけないという認識。

のんきな下々と違って、多忙と難題で、ストレスがかかるというブラック労働者だという認識。


要するに金持ちにはなりたくないという認識です。


この善悪の観念は、陰徳の運命改変のように、
容易に、我々の人生の吉凶禍福を左右します。

例えば、人をさくっと殺したとしたら、普通に人だったら、それだけで、ノイローゼになって自殺してしまうほどです。

そのため、金儲けが善か悪かの認識は、個人の成功不成功に激しく関係します。
現代社会(昔もそうですが)は、資本主義社会なので、金は人生の幸福に直結します。


本音(表意識・無意識)で、金儲けや権力は悪と考えていれば、成功するはずはありません。

成功しても、悪行をせざるをえなくなったり、ブラック労働だったりする、ストレスな環境だったりするのではないか?
遺産相続で家族が骨肉の争いをするのではないか?


自分の潜在の認識がそう決めているため、
無意識に、そういう環境に自分を誘導するからです。


以前にも、陰徳は、自分に、洗脳暗示をかけることであるという話を何回かしました。

陰徳や因果応報が、例え存在しなくても、人間の上記のような仕組みを逆利用する自己暗示であるから効果があると。

人間がデフォルト(もしくは狩猟時代からの遺伝的基盤)で持っている善悪の概念を利用して、開運するための方便であると言う話です。



まあ、要するに、金儲けが悪だという洗脳を、上手いこと回避したのが、上記のプロ倫や、陰徳なわけです。
日本の江戸時代の商人道でも、色々とこの手に類似した話が出てきています。

実際には、別に資本主義を作ったのはプロテスタントの倫理でも何でも無く、ユダヤ人のおかげだとか、植民地の膨大な略奪資本だとか、そもそも、マックス・ヴェーバーが嘘ついているとか、色々と、ツッコミはあるのですが、開運のための方便と割り切りましょう。

何と言っても、世界のシステム、業は無明なのです。

無明のブラックボックスだからこそ、「何でも言える」のです。

実際のシステムがどうだろうが、無明なため、間違っていてもそれが間違っているということすらわかりません。

そのため、自分に都合の良いように、いくらでも構築出来るのです。

そして、それが倫理的なロジックだったら、なおさら無意識暗示的な意味でより都合がよいのです。


というわけで、無明の話はまだまだ続きます。






2018年5月13日日曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑨











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。




因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。








前回は、

宗教は時代によって、ますますインフレするので、
拝む対象の戦闘力が、ますますアップしていく。

しかし、そのため、どうしても、

「そんなに強いのに、なんで何もしてくれないの?」
「そもそも、神が全知全能ならば、運命は全部決まっていて、人間には自由意志は無いの?」

という話になってくるという話でした。






で、コレに対して、当然、専門家は信者に対して、色々と言い訳をするのですが、中には、開き直って、

人間には自由はない!



とぶっちゃける、東西の聖職者も結構います。

因果応報の業を突き詰めた結果、諸法無我に至った仏教と同じです。




まあ、そもそも、人間は、勝手なもので、
不自由だと自由を求めて、
自由だと不自由を求める生き物です。

人間の内部で、
自由を求める精神と、
自由を放棄する精神のニパターンが、
絶えず陰陽で相剋しており、

どっちが正しいかどうかは、状況と、人の好みとしかいいようがありません。



しかし、当然、現代というか、
近代以後の自由・平等・博愛のフリーメーソンの三原則に染まった社会は、
前者(自由万歳)を称賛する傾向にあります。

人は、身分や国家権力などのあらゆる束縛から、自由を求めて、離れたがります。


ところが、神の権限が時代によって絶対化してくると、当然、人間の自由や業も、神の意思の配下に入ってきます。

全ては、神の想定内の事象になるのです。




これは、仏教の業も同じです。

基本、業は自己責任の世界です。


今ある、環境も、全部、業のせい。
不幸も幸福も、全部、前世や今生の過去の業の結果です。


しかし、この単純な論理モデルも、
業の存在を絶対化になり、全ての事象は、業が支配する話になります。

結果として、全ての事象は業によって、事前に決められているという、業の絶対化に帰結します。


ここで、人間の自由意志や、自己責任は、消滅してしまうのです。





業というのは、基本、我々が考えるのは、環境や外部的なイベントのことです。

日本に生まれたとか、男に生まれたとか、イケメンが告白してきたとかの自分以外の環境のことが良く言われます。


しかし、人間は社会的動物です。



水が方円の器に従うように、環境によって左右される生物です。


豊河は日本人なので、神道や仏教を論じています。

が、豊河が南米に生まれていれば、ブードゥー教を論じていたかも知れません。


社会的環境によって、個人の人生は大きく違っているのです。



さらに、外部と言えば、実は、肉体も外部です。

人間は、自分の肉体は自分のものと思っています。

しかし、人間(精神・自我)は、水のように方円の器に従います。

それは、社会的環境という器の中に従うと同時に、肉体にも従います。



つまり、我々の存在(自我)は、肉体と言っても、全く過言ではありません。



近代までは、魂と肉体という二元論が普通でした。

しかし、今は科学が進んでいるので、魂や精神と言った形而上学的な代物は脳の産物であると、考えられています。

脳をいじることで、人格が記憶や感情が変わってしまうことを、我々は様々な事例で知っています。


要するに、唯物論的に見れば、
我々の自由意志というものは、社会環境と肉体という、
「外部」の存在によって構成されています。


そして、この外部の物というのは、環境も肉体も、因果応報の業の結果に過ぎないのです。


過去に良いことをしたため、良い環境と良い肉体が与えられ、結果、良い性格や自由意志が生まれてきています。
逆もまた然りです。


ちなみに、余談ですが、良いというのは、現世的に良いというのと、道徳的に良いという二種類があります。

貧乏でも親や教育が良かったら、道徳的に良い人格が生まれるし、また金持ちで裕福に暮らしていれば、慈悲深い正確になることも多いでしょう。

どっちも、業による環境や肉体によるものです。

つまり、我々の存在そのもの、精神や自我というものは、結局、肉体や環境そのものなのです。
そして、それらは、結局、業によって構成されています。



一般に、業は、生まれの環境や突然のイベントくらいしか思われてませんが、
業をもっと突き詰めて、絶対化すれば、

二十四時間、365日全ての環境と肉体が、業によるものと言えます。

原因と結果が全てであり、現在は、過去の原因によって構成されていると。


結果、自由意志(精神や自我)などというものは、存在しなくなります。







要するに、今、このブログを見て、陰徳で運命改善しようと自由意志で思ったとします。

しかし、それも業の結果なのです。

このブログに出会う事自体が、業ですし、

さらに、このめんどくさい記事を読んでいること自体が、業です。


そして、陰徳を信じてやってみようと思うこと自体が、業です。



業によらないものは何一つありません。


生まれた瞬間に、生まれる以前に、全ては決まっています。





運命を変えようとすること自体が、運命で決まっているのです。



という、身も蓋もない嫌な結論のまま、次回に続きます。