2018年5月8日火曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑦










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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。




因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。


自由意志


業の、ストック値が全然わからん無明状態ということは、
もう一つの重要な、別の真理に関係します。


以前から何度か話題にしていますが、
「人間の自由意志の有無」の問題です。


前回まで、我々は、現世の結果から逆算によってしか、因果はわからないという話をしてきました。


しかし、因果そのものを、もう少しツッコんで考えると、どうしても、「人間の自由意志の有無」の問題になります。

世界の全ての現象が、因果応報であるとするならば、
逆を考えて、全ての現象は因果応報の結果であるはずです。

※論理的には、結果への因果応報だけの十分条件は成り立たないのですが省略。


要するに、人類の(生物の)全ての現象の一切合切。

例えば、今のみなさんが、日本で生まれたことも、昨日、カレーを食べたことも、全て因果応報の結果です。

因果応報の論理的には、そうなります。

特に、幸福や不幸な特殊イベントに関して、我々は、因果応報の原則を意識します。

金持ちに生まれたとか、宝くじに当たったとか、
逆に、貧困に生まれたとか、泥棒にあったとか、
印象に残る、特殊なイベントにです。

しかし、これらは、あくまで外部からの特殊イベントです。

それに対して、自発的な思想や行為について、あまり因果応報としては語られないのが通常です。

意味もなく路上で刃物に刺されたことは、因果応報だと言われますが、
今日お昼にカレーライスを食べたことは、因果応報だとは言われません。


しかし、世界の全てが、因果応報の枠の中に入っているとすれば、
当然、論理帰結として、我々の全ての行動は、因果応報になります。

全てのイベントや行動や思考、感情に、過去の原因がある。
全てのイベントや行動や思考、感情は、過去の原因の結果である。

外部の世界も内部の世界も、全てです。


すなわち、自由意志というものは存在しません。

今、自由に考えている(と思ってる)貴方の自由意志も、
当然、因果の連鎖の中に入っているということになります。

陰徳を積んで、運命を変えようという意思も、因果の内ですし、解脱して六道輪廻を脱出しようという意思も、因果の内です。

この考えを徹底させると、因果によって自由意志というのは事前に決められているということになります。



連鎖反応



そして、因果は連鎖します。
一つの結果が、また次の原因となって新たな結果を生むからです。

善悪の因果関係(善因楽果・悪因苦果)に限定しても、
善悪の結果は、次の因果を生むのは容易に想像できます。

前世、強盗殺人で一家を惨殺したら、今生で、家族を強盗殺人で皆殺しにされた。
その復讐で、今世、犯人の一家を惨殺。
その因果で来世は、家族を以下ループ。
などは因果の連鎖です。

現世に限った世代ですら、貧困は教育やチャンスの問題で、次世代は貧困のままであり、その次世代も貧困です。

戦乱期などで無い限り、基本、人類はずーっと身分制です。
親が貧乏だったら子供は貧乏。

業は、貧困の連鎖と同じです。
それが、先祖子孫軸でなくて、前世来世軸になっただけです。

我々は、因果応報は、結果が出たら、終了のようなイメージを持っていますが、普通に因果は連鎖していきます。

特に、善悪(善因楽果・悪因苦果)だったら、楽と苦を生むので、人間の感情にインパクトを与えやすく、余計に連鎖しやすいのです。




一般に言う、運命が決まっているというのも同じです。

運命とは、突発的な派手なイベントだけではなくて、我々の一挙一動が、全て決められているということです。

そして、それはまずい、自由意志を持たなきゃ!
と、思うことも、それは運命であり業です。



吾輩は業である


ちなみに、もっとツッコんだ言い方をしましょう。

我々、人間を始めとした生き物全部、六道輪廻の全部の生き物に共通した話ですが、

我々は、業に支配されているのではありません。
我々自身が、業なのです。
業とか因果応報とか言っている原則・法則・概念そのものが我々の正体なのです。

理由は簡単です。
我々には自由意志どころか、肉体や環境や社会全ては、結果に過ぎず、操り人形にしか過ぎないからです。

足の指先から頭の天辺まで、全部、業なのです。
思考も感情も人格も、魂も精神も記憶も全てに至るまで一片のズレもなく、全ては業で出来ています。

要するに、業そのものなのです。

全ては、過去の原因の結果であり、
かつ現在進行系で、過去の原因が結果となって現存し、
かつそれが連鎖して新しい原因となり、
その業の結果を未来に出しているのです。


我々は、今、御大層に、人間という種であり、個別の名前を持っています。
が、何のことはありません。
世界に無数に存在する業の一部であり、原因と結果のループに過ぎないのです。

何一つ、我々が作り出したものはありませんし、自分の意思で考えたことはありません。

そもそも、物理的に見ても、
貴方の体は、原子や分子が止まることなく回転し、
ガンガン細胞分裂し、
ガンガン血液や呼吸が流れ、
一時たりとも内臓は止まらず動いています。

生きている限りずーっとです。

死んでも、今度は腐敗のプロセスが始まり、ガンガンと動いています。

脳ももちろんそうです。
その中身は、これまた止まること無く延々と電気信号で動いて、思考や感情を生み出して、かつ新しい業となり、そして消えていっています。

全部、業なのです。
貴方の存在に、業でないものは一ミリたりとも存在しないし、
全部、業です。
そして、業が無くなれば、貴方は消滅します。


釈迦が発見した、諸行無常、諸法無我というのは、このことです。
世界は、業の連鎖の中の一つのノード(結節点)でしか無いのです。


しかも、世界は、個人単体のバラバラではなく、
個々の存在は、世界全体とも密接に、連鎖した業のネットワークの一部です。

業というのは、特に善悪関連は、自分だけでは出来ないので、他者が必要です。

陰徳や悪業は他者が必要です。
まあ、当たり前の話で、自分にお布施しても徳にはなりません。
(とは言え、自殺は悪業だというのはよく言われますが・・・)

自分→他者でも、他者→自分でも、善悪どっちでも、善悪どちらでもなくとも、その瞬間に業が発生してしまいます。

そして、その業が返ってくると、受け攻めが、逆の立場になり、さらにそれが原因として、新しい業になります。

このように、自分が業によって出来ています。
しかし、どうすることも出来ません。

今、陰徳で業を変えよう!
と思ってる今の思考状態すら、業の結果です。
何一つ、自分の思い通りにはならないのです。
(それ以前に自分の思いなどはありませんが)


そして、無明も合わされば、さらに絶望的です。

自分の業が全くわからない無明状態で、現在進行系で我々は存在しているのですから。
自分自身の意思で介入することは、全く出来ないのです。


無明ということは、
単に業がわからないということだけではなく、
自分が業であることすら、
自分自身が存在しないということすら、
自分の自由意志が無いことが、わからないという意味も含んでいます。

大半の人類(と生命)は、無明ということがわかってる無知の知の状態であるならまだしも、無明であることすら無明なのです。

業の時間的、空間的ネットワークの中で構成された、自立意思の無いロボットなのです。

人間に作られた、AIはまだ自分の意思を持っていますが、我々はそれ以下の存在なのです。



で、さらに次回に続きます。



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