2018年5月16日水曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑩











このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)

陰隲録(陰徳による開運法)のまとめはこちら
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】全文現代語訳 記事まとめ一覧

パワスポのまとめはこちら
パワースポットまとめページ

健康コンテンツのまとめはこちら
【貧・病・争対策シリーズ健康編】まとめ





なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
記事下のコメント欄や、メッセージやメールで、お気軽にどうぞ。

その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。











因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。
 






むりくり捻り出す



前回まで自由意志は無いという宗教のロジックの話でした。

業も突き詰めれば、そういう結論になってしまいます。



この手の論理があまり世間で言われないのは、
簡単なことで、何度も言っているように、個人責任が放棄されてしまうからです。


仏教でもキリスト教でも、世界宗教レベルになると、
ここらへんまで、論理が行き着いてしまい、
結果として、色々と、現実社会と不整合が発生します。



特に、絶対神を奉じる一神教は、突き詰めてしまえば、
上記のような、(絶対的な存在の全知全能の力による)個人責任の放棄に行き着きます。

言わば、顕教に対する密教です。
あまり、信者受けしないので、公には言わない教義なのです。

そのため、色々と理屈が、表と裏で、こじれるのですが、
世の中には、豊河と同じような連中もいます。

無理やり、なんとかこうにか、四苦八苦して、この捻れた教義を、どうにかまとめる連中もいます。


その中でもわりかし有名な話として、プロテスタントなどは、この個人責任の放棄を、上手く利用した例があります。

で、以下、なんか長いので、めんどくさい人は、読み飛ばして下さい。



プロ倫


社会学の泰斗、マックス・ヴェーバーによる、
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神などは、ここらへんの、アクロバットしたロジックを展開しています。



ヴェーバーによると、以下のようになる。

カルヴァンの予定説では、救済される人間は、あらかじめ決定されている。
したがって、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできない。
つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないのである。
また、人間は、神の意思を知ることができない。
したがって、自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることはできない。

予定説における決定論は、仏教における因果論とは正反対の論理である。
因果論においては、「善行を働けば(因)救われる(果)」のであるから、
人間の神や仏に対する働きかけ(たとえば、寺院へのお布施や教会への寄付は、
救済を金で買う行為であると言える)によって、救済が可能である。

しかし、それはある意味では、自分が救済されるために、神や仏を道具として使うことである。
そのため、それは、神に対する冒涜である。
そこで、カルヴァン主義では、神の絶対性を守るために、予定説が採用された。
そして、予定説においては、神は、人間の行為や意思に一切左右されることなく、絶対専制君主として振舞うのである。



ここで説明されている因果論は、我々の知っている基本的な意味での因果論ですね。

しかし、因果論を突き詰めると、一神教と同じように、絶対的なものとなり、結果として、個人の自由意志が無いことは今まで書いてきました。


ここまでは、一緒です。
で、ここから、アクロバット論理します。





予定説によれば、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない。
となると、人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

キリスト教においては、人生は一度きりであり、仏教のように何度も生まれ変わる(輪廻転生)ということはない。
そして、死後(第1の死)に再び肉体を与えられて、最後の審判に臨むときに、救済される人間として選ばれなかった者は、
永遠の地獄に落ちる、あるいは、消滅する(第2の死)。
そして、そうなってしまえば、救済や復活は、もう二度と起こらない。

このように、善行を働いても救われるとは限らない。また、自分が救われているかどうかをあらかじめ知ることもできない。
そして、もし選ばれていなかったら自分は永遠の地獄に落ち、二度と救済されることがない。
このような予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強いる。

そして、人々は、そこから逃れるために、
「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」
という、因と果が逆転した論理を生み出した。

そして、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、それによって生まれたエネルギーのすべてを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中させた。
こうして、人々は、禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)というエートスを生み出したのである。

そうして、人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。
そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。



で、とりあえず、ここで、重要なのは、

そして、人々は、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出した。

ここですね。

業の無明と同じ絶対神の計画を、上手く利用した因果の論理の逆転の例です。

時間軸をひっくり返した因果の例です。

我々は、普段、因果応報を、単純に時間軸で、考えていますが、こういう逆転の発想を重視しなくてはいけません。

硬直化された思考枠から一度外れてみるのです。


結果として、人間の向上心と生産性と倫理を高めていますので、なかなかに、成功した良い話では無いでしょうか?

どうしても、この手の話(キリスト教で言う予定説)は、後で出しますけど、倫理の無効化を伴う論理だからです。

因果論や予定説は、今まで言っていたように、差別論になったり、道徳無効化論になったりと、色々と落とし穴がありますが、こういう論理で人類は、穴を埋めていっています。

もちろん、カースト制度化のインドのように、穴を掘ったままにしておく例も存在していますが。






余談の密教




ちなみに、ここらへんは、宗教で言うと、表の教義や神学論です。顕教と言っていいかも知れません。

大乗仏教の六波羅蜜で言う、布施や持戒の論理化の段階です。

道徳や陰徳をいかに、正当化するかの論理です。

当然、宗教なので、その後のレベルや段階で、修行やら瞑想やら密教やらが入ってきます。

しかし、あえて言いますが、一番大事なのは、そっちよりも、こっちの顕教の方です。

一般には、宗教の密教の方が面白いので、みんなこっちに興味を持ちます(豊河もその一人です)。

今の時代、昔と違って、密教(仏教だけじゃなく)の知識が大体、公開されているので、閲覧しやすいのです。

しかし、これはかなり危険なのです。

元々、この手の密教の知識が、隠された(オカルト)なのは、それだけの理由があります。

ぶっちゃけ言えば、精神的に危険だからです。

わかりやすく言えば、ドラッグみたいなものです。

密教が簡単に手に入る現代社会は、ドラッグが簡単に手に入る社会というのと、イコールです。

元々、密教は、色々と人体(脳)をテクニカルに弄るやり方であり、精神病と紙一重です。

禅だって、あれだけ管理されている生活でも禅病になるのです。
(逆に言えば、あれだけ管理されているので、禅病になる率が少ないとも言えます)。

チベット密教はラマ教と言われますが、密教にはそれだけ管理者の師匠が重要なのです。

ドラッグを医師の診断と管理がないままで、摂取するのと一緒なのです。

西洋の密教であるカバラや西洋魔術だって、悪魔崇拝と紙一重です。

以前に、天狗の修行の話でも言いましたが、ぶっちゃけ、密教なんぞやらなくて、陰徳を積んで、死後に神様にでもなってしまえば、ほとんど一緒です。
神通力だって現世利益だって全て、手に入ります。

つまり、不思議な力を手に入れたかったら、普通に死後にまわせばよいのです。
現世で入手することは魅力的ですが、それだけのリスクがあります。

もちろん、解脱や神との合一や叡智という、宗教的な向上という面も、密教にあります。
しかし、解脱だって、最悪、極楽浄土で修行出来ます。
人間でやるよりは、神になってやる方が効率は良いでしょう。

まあ、神(天人)になると、楽すぎて修行は進まないという説が仏教の教義ですが、それだったら、師匠と管理された環境でやるのが絶対条件です。

禅や上座部仏教や密教にしても、必ず、徹底した管理環境と師匠の細かいチェックのシステムがあります。

要するに、やりたければ、出家という条件が必須です。

管理環境と師匠がいない場合での密教はドラッグと同じですので、絶対にお勧めできません。





自己暗示



で、話がそれましたが、次に重要なのは、
このプロ倫のロジックは、インドのカースト論理と違って、現世利益である金儲けを肯定していることです。
ここが、カースト論理と違って興味深い。



しかし、禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。
禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。

それまで、金儲けは、高く評価されるものではなかった。
そして、プロテスタンティズム、特にカルヴァン主義は、最も禁欲的であり、金儲けを強硬に否定する宗教であった。

金儲けに正当性が与えられない社会では、金儲けは当然抑制され、近代資本主義社会へと発展することはないはずである。

しかし、最初から利潤の追求を目的とするのではなく、
行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、
その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという「隣人愛」の実践の結果であり、
その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証である。

このようにして、皮肉なことに、最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、
金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したのである。

人々は、「結果として」の利潤の追求に励むことになる。
利潤の多寡は、「隣人愛」の実践の証であり、救済を確信させる証である。
そのため、多ければ多いほど望ましいとされた。
そして、より多くの利潤を得るためには、寸暇を惜しんで勤勉に労働しなければならない。

そのため、人々は時計を用い、自己の労働を時間で管理するエートスが成立した。
このことを端的に示す諺が「時は金なり」である。
厳格な時間管理の意識は、『近代』的な価値観の特徴のひとつである。
そして、スイスなどのプロテスタント圏で時計産業が発達したのも、決して偶然ではない。

それまでの人類の労働のあり方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、
日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、日が沈むと仕事を終えるというようなものであった。
つまり、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低いものであったのである。

しかし、プロテスタンティズムは、人類の中に眠っていた莫大な生産力を引き出したのであった。




さりげなく、労働におけるブラック企業化の原因のようなことが書いてありますが、

ここで重要なのは、

禁欲的プロテスタンティズムは、
「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。
つまり、金儲けに正当性を与えたのである。


の部分ですね。

生産性を高めるだけでなく、さらに一歩進んで、金儲けを肯定したというところにあります。

およそ、人間は、社会的に洗脳されていて、善悪の観念を持っています。

その洗脳は社会や家庭なのか、進化心理学的に種の本能としてインストールされているかは別にして、無意識に善悪の裁きを自分自身にかけています。

それは、このブログで言っている陰徳や因果応報の原動力かもしれません。

しかし、良いことをやって開運するのも、これが原因の可能性があるのです。


そして、一般的には、金儲けは悪だという洗脳を我々は受けています。

金持ちや権力者は、悪人で、庶民を搾取している外道だという洗脳です。

まあ、ぶっちゃけ間違っていないのですが、とは言え全部の金持ちがそうだとは言い切れないはずです。

大海の一滴の如く、善良な金持ちがいるかも知れませんが、どちらにしろ、こういう認識を我々はデフォルトで持っています。



さらには、上に立つものは、全体のために少数の犠牲である必要悪をやらなくてはいけないという認識。

のんきな下々と違って、多忙と難題で、ストレスがかかるというブラック労働者だという認識。


要するに金持ちにはなりたくないという認識です。


この善悪の観念は、陰徳の運命改変のように、
容易に、我々の人生の吉凶禍福を左右します。

例えば、人をさくっと殺したとしたら、普通に人だったら、それだけで、ノイローゼになって自殺してしまうほどです。

そのため、金儲けが善か悪かの認識は、個人の成功不成功に激しく関係します。
現代社会(昔もそうですが)は、資本主義社会なので、金は人生の幸福に直結します。


本音(表意識・無意識)で、金儲けや権力は悪と考えていれば、成功するはずはありません。

成功しても、悪行をせざるをえなくなったり、ブラック労働だったりする、ストレスな環境だったりするのではないか?
遺産相続で家族が骨肉の争いをするのではないか?


自分の潜在の認識がそう決めているため、
無意識に、そういう環境に自分を誘導するからです。


以前にも、陰徳は、自分に、洗脳暗示をかけることであるという話を何回かしました。

陰徳や因果応報が、例え存在しなくても、人間の上記のような仕組みを逆利用する自己暗示であるから効果があると。

人間がデフォルト(もしくは狩猟時代からの遺伝的基盤)で持っている善悪の概念を利用して、開運するための方便であると言う話です。



まあ、要するに、金儲けが悪だという洗脳を、上手いこと回避したのが、上記のプロ倫や、陰徳なわけです。
日本の江戸時代の商人道でも、色々とこの手に類似した話が出てきています。

実際には、別に資本主義を作ったのはプロテスタントの倫理でも何でも無く、ユダヤ人のおかげだとか、植民地の膨大な略奪資本だとか、そもそも、マックス・ヴェーバーが嘘ついているとか、色々と、ツッコミはあるのですが、開運のための方便と割り切りましょう。

何と言っても、世界のシステム、業は無明なのです。

無明のブラックボックスだからこそ、「何でも言える」のです。

実際のシステムがどうだろうが、無明なため、間違っていてもそれが間違っているということすらわかりません。

そのため、自分に都合の良いように、いくらでも構築出来るのです。

そして、それが倫理的なロジックだったら、なおさら無意識暗示的な意味でより都合がよいのです。


というわけで、無明の話はまだまだ続きます。






0 件のコメント:

コメントを投稿