2017年12月30日土曜日

豊受大神宮(伊勢神宮外宮)②外宮別宮(三重県伊勢市豊川町279番地)










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外宮


伊勢神宮は膨大な摂社を含めて、神宮と言われます。

しかし、内宮や外宮の敷地内にある別宮と呼ばれる摂社は別格扱いです。

基本、同じ敷地内にあるこれらは、正宮の効果を補完する機能がついており、大した数では無いので、全部回ることをオススメします。

外宮においても、敷地内に、風宮 、土宮 、多賀宮があり、ちょっと離れたところに、月夜見宮 があります。

今回は、月夜見宮 は時間の都合でスルーしましたが、外宮に行ったら回るとよいでしょう。

で、敷地内で、本宮から左に橋を渡ると、上記の3つの別宮があります。

風宮 、土宮 がまずあり、さらに小高い位置に階段を登ると、多賀宮です。

冒頭の画像が風宮 で、下の画像が土宮です。



この二つの宮は、どうも外宮の結界というか、クリーンルーム化というか、維持装置というかそんな感じの機能らしく、
特に土宮は、豊受大御神という地母神のエネルギー源らしいです。

私が初めて参拝した時、この二つの宮の往復で、まるで時間が物凄いゆっくりしたような世界になったのを感じました。

何らかのヘンテコなエネルギーが地磁気として出ているのでしょう。

※豊河だけの話だと信用が無いでしょうが、外宮に関しては、結構、同じような意見が多いのです。


で、写真を撮り忘れていたのですが、多賀宮もあります。

ここが外宮の中で一番、地磁気のエネルギーが強いという話です。

まあ、実際に拝んでみて、外宮の中で、自分にあった宮を探して下さい。

以前書いたように、外宮→内宮の順です。
外宮は現世利益の効果もありますが、内宮に行く前の祓いも兼ねています。

で、さらに、内宮に行く前に二見興玉神社によって塩湯でさらに浄化します。


















2017年12月28日木曜日

豊受大神宮(伊勢神宮外宮)①本宮(三重県伊勢市豊川町279番地)










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基本的には二つの正宮は、外宮→内宮が作法です。

あちこちのパワスポ情報を見ると、どうも内宮に入る前に、外宮で浄化する目的があるらしいのです。

歴史的には外宮と内宮でマウンティング争い(俺の神様の方が偉い)があったりと色々とあります。

※ちなみに、日ユ同祖論では、外宮の下にモーゼの十戒の石版があったり祭神がヤハウェだとかだそうです。

外宮の祭神は豊受大御神です。

全国の稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神ですが、名前の響き(ケの神)から習合されています。

元々、豊受大御神の外宮は、内宮の天照大御神が食事料理人用に連れて来るよう依頼して来た存在です。

そのため、稲荷と同じく、食物全般、イコール農作物や産業など現世利益的な祭神となり、ご利益は外宮の方が強いとまで言われて、商工業の業界からはこちらの方が信徒が多いようです。




外宮は、伊勢市駅から歩いて来れます。

駅からまっすぐ商店街を通っていくと、そのまま外宮です。
伊勢市駅や外宮からバスで内宮まで行くことが出来ます。




伊勢神宮の特徴として、山野部の神社仏閣と違って、平野部にあるということです。

平野部は山野部と違って、山水のパワーを使えませんが、それでも広大な森を有しており、そのままパワスポ空間を形成しています。




入り口は、この鳥居に入ると、森の中の通路となり、途端に異世界になります。

ここから、クリーンルームになるようです。
格の高い神社仏閣は参道が長いのですが、それだけ浄化装置が働いているということです。

また、長い参道は身体を慣らしていく機能としても、存在しています。

伊勢神宮はその霊的な聖地のため、今まで溜め込んでいた穢を急激に浄化してしまい、参拝者が、体調や運気を崩す可能性が高いのです。

後記事でも書きますが、外宮と内宮の間に二見興玉神社に参拝して塩湯をすると、浄化後に、バランスを調和出来ます。



そのまま真っすぐだと社務所や祈祷所が横にあります。
さらに行くと、外宮の本宮です。
20年の式年遷宮のため、前回の本宮は上記のように、更地になっています。




現在の本宮に到着します。

御簾がある外側から参拝出来ます。

その中は、寄進者のみ券を貰って、入れます。
が、さらに入れ子構造になっており、その先は、入れません。

二重構造になっているのです。

個人の金運アップのみならず日本の景気がよくなり格差社会が是正されるようお祈りしておきましょう。

このブログの読者様でしたら、自分自身が陰徳として社会を良くしますので加護を下さいということも追加すると尚良いと思います。



















2017年12月26日火曜日

伊勢神宮のパワスポ記事前の簡単?な事前説明 パワースポット(三重)










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田舎


まさか、日本人でいながら、伊勢神宮に参拝してない非国民はいないと思いますが(行ったことがあるため上から目線)、基本、伊勢神宮は、日本国民のために開かれた聖地です。

あの、国民の移動を制限していたウルトラ封建国家の江戸時代ですら、伊勢参りは許可されていました。

イスラームがメッカ巡礼を一生に一度は夢見るように、日本人なら伊勢には行っておきましょう。

昔ならいざしらず、今の時代、別に移動は難しくは無いですし。

で、豊河はさすがに何回か行っていますが、皆さんも、近所や所属都道府県の神社だけでなく、年一程度で行ける遠距離でも格式の高い神社仏閣をキープしておいた方がよいでしょう。

大抵、こういう格式の高い神社仏閣は辺鄙な田舎(暴言)にあることが多いのです。

理由は、都会にあると、政争で腐敗したり、戦争で焼失することが高確率であるからです。

なまじっか、都会(昔なら京都とか)の近くにあると、大仏とか比叡山とかみたいにバーニングされます。


天照大御神


さて伊勢神宮ですが、外宮と内宮の正宮があります。
さらに、別宮や摂社、末社など三桁の神社があり、全てをまとめて神宮です。

ただ、一般的には外宮と内宮の二つの正宮を伊勢神宮と呼びます。
さらに、厳密には内宮一社を伊勢神宮と呼びます。

歴史的的には、色々と紆余曲折があり、実は近代以前はそんなに格式は高くなかっただとか、皇室は来なかったとか色々言われますが、明治以降は、国家神道により、並ぶものなき権威を確立し、戦後の現在でもおよそ、天下無双の権威を誇っています。

理由は、やはり現人神となった天皇の皇祖神の天照大御神を祀る神社であるというのがメインです。

そもそも、天照大御神が最高神であるというのは、政治の産物で、記紀を見ても、親神のイザナギ・イザナミを始め、上位の神々がいっぱいいます。

しかし、人間社会でそうなっているということは、少なくとも、日本においては、天照大御神が最高神であるということに他なりません。

日本の国家レベルの範囲については、天照大御神が担当となります。

この日本で生きている限りにおいては、天照大御神が最高神という格付けで問題ないでしょう。

なお、仏教との習合でも天照大御神は大日如来と集合しています。

太陽神の象徴ですので、権威としても習合としては神道仏教双方とも、異論は無い組み合わらしく、中世以降はこの方向でした。

※外宮と内宮が金胎の大日如来に対応されていました。

実際は、中世の習合時代は、神道側の権威が仏教よりも弱く、天照大御神は、大日如来から日本の管轄をまかされているだけの格下的存在でした。

仏教は世界宗教ですから、ローカル国家神の神道の神は格下だったのです。

このグローバゼーションとローカリゼーションの争いは、昔からある問題で、今でも、経済政策を巡って世界中で衝突しているのはご存知の通りです。

もちろん、ローカル神扱いは、不当なレッテルだとして、明治以後は、神道側も地位逆転して頑張っていましたが、敗戦で、天照大御神をグローバルに!という夢は潰えました。

まあ、勝ってれば、天照大御神も、範アジアの巨大神として、君臨出来ていた可能性もありますが、歴史にIFはありません。

幸い、戦後のGHQ時代も生き残ったので、今も、日本神道の最高神として、天照大御神と伊勢神宮は、君臨し続けています。


戦後

基本的に、仏教の大日如来と習合したように、ローカル神はグローバル神と習合しやすい傾向があります。

明治以後から、グローバル宗教の仏教と別れた神道は、キリスト教と習合しはじめました。

岩戸からの復活の、天照大御神=イエス説は日ユ同祖論の定番です。

明治維新は西洋化の象徴ですが、宗教も当時の世界を支配していた白人宗教のキリスト教を模倣したのです。

元々、江戸時代中期から、国学と神道の日本万歳理論は構築しはじめていましたが、西洋文明を牽引する、西洋一神教というソフトを日本に導入した結果、悪魔合体し、国家神道が誕生しました。

実質的に政府の強制力がなくなっただけで、神道のスタイルは、この国家神道を踏襲しています。

まあ、グローバル宗教の洗礼を受けて綺麗になりすぎた結果、スマートですが物足りない需要が出てきます。

国家神道では、救い取れないニーズの需要は、民間の雨後の筍の如く出た神道系新興宗教が、その需要を満たしました。

神がかりの教祖のいかがわしい新興宗教は、人を万単位で集めました。

※21世紀の現代でもイタコ芸で百万人を集める新興宗教が存在します。

仏教でも、表の念仏や題目だけでは民衆は満足せず、禅や密教などの仏との直接体験の宗派が需要があるのと同じです。

しかし、裏がなければ表が成り立たないように、表がなければ裏は成り立ちません。

表に伊勢神宮を頂点とする霊的インフラがあるからこそ、裏も含めて、日本国は成り立っています。

古代のように神や自然の力と、直接交流していた時代(たぶん)と違って、現代は、神と人間は直接交流できません。

形だけでも神と交流するインフラが、人間社会には必要なのです。

神を極限まで抽象的に純化した一神教ですら、聖地や聖堂のインフラは捨てきれなかったのです。

伊勢神宮は、次回以降、紹介するように、霊的な国家インフラとして、ディズニーランドに匹敵するテーマパークとして、構築されています。

伊勢神宮の存在意義とは、三桁万単位の日本人の霊的な集合場所としての霊的インフラテーマパークなのです。

そして、人が集まれば、それだけ人の念は神を生み、金は施設費を維持し、そして神と施設はさらに人を呼び祝福します。

その好循環スパイラルで、伊勢神宮ブランドは成立します。
そして、一度、ブランドが成立してしまえば、宣伝費はかけなくとも、長期間の持続維持が可能です。

神道の頂点を極める天下無双の伊勢神宮のブランドはここに確立し、今後も、維持し続けるでしょう。

2017年12月22日金曜日

そうだ。伊勢神宮に行こう








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豊河不在のお知らせ


週末に、熱田神宮と伊勢神宮に参拝旅行に行きます。

よって、週末は記事更新は無い予定です・・・。

コメントやメールは管理画面から豊河は見れますので、ご遠慮無くお送り下さい。
帰宅後に、返信いたします。

基本、ほとんどコメントやメールが無いブログですので、返信率は100%です。

寂しいので、スパムコメントにすら返信します(悲痛)

ちなみに、スパムコメントすら全く来ません。

孔子は論語で、
里仁第四ー二十五
「徳は孤ならず、必らず隣あり」
と言っています。

つまり、孔子が嘘をついているのか、豊河に徳が無いのか?
という二択しかありません。

豊河は有徳の人間なのでたぶん、孔子が嘘をついているのでしょう。
ねえ、知ってる?
ウサギって寂しいと死んじゃうんだよ?

さて、豊河の不徳はどうでも良いのですが、今回、突如として熱田神宮が伊勢旅行に参入してきました。

特に予定は無かったのですが、伊勢とは別な時に行こうと思っていたパワスポです。

たぶん、三峯経由でヤマトタケルノミコトに関係しているのだと思いますが・・・。

まあ、行ってみればわかるでしょう。












2017年12月21日木曜日

極楽(浄土)生活というニートの理想郷












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極楽


前回、言い忘れていたのですが、念仏の極楽浄土において、重要な盲点である、極楽に行った後、俺たちどうしてんの?という点を追記します。

というのも、我々は、一般に極楽浄土というと、文字通り、一年中暇なニートの如く、ダラダラと続く夏休みのような、爛れた極楽生活を送っているものとイメージしています。

しかし、よくよく考えてみると、これは情弱にもほどがあります。
自分の労働環境を確認せずに、就労するような物です。

信じた就活先がブラックだったらどうする気なのでしょうか?
信じて極楽浄土に送り出したご先祖様が、アヘ顔ダブルピースになって帰ってきたらどうする気なのでしょうか?



で、具体的な極楽の状況は、阿弥陀経にその極楽生活が記載されていて、行った人は、金銀ギラギラの成金風味の環境で、生活を送ってるようです。

あまり娯楽がなさそうな状況ですが、まあ地獄に行くよりは遥かにマシです。

前回も言ったように、人間何が地獄行きになるトリガーなのかわかりませんので、極楽にゴール出来たら上出来でしょう。

しかし、ここに、盲点があります。

実は、極楽浄土とはゴール地点ではありません。

あまり、一般的には知られて無いのですが、浄土系もやはり仏教なので最終ゴールは解脱です。

しかし、現世ではそういう修行とかは民草は出来ないから、一旦、阿弥陀佛の権力で、極楽浄土に転生して、そこから解脱を目指しますというのが、実は浄土系の教義です。

今で言うと、日本だと最新の学問が出来ないから、アメリカに留学するようなものです。

最新の学問や教授や仲間が揃った最高の環境で勉強するぞということです。

そのため、極楽に行ってものんべんだらりとは出来ません。

上記の阿弥陀経には、次のような学習環境があります。



その時、仏は、長老シャーリプトラに告げて言うには、

「これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

その仏国土には仏がおり、阿弥陀と号する。

いま、現にましまして真理を説く。

シャーリプトラよ。

かの佛国土をなにがゆえに名づけて極楽となすや。

その国の民衆は、もろもろの苦しみを受けず、ただもろもろの楽しみだけを受ける。

故に、その佛国土を極楽と名づける。



要するに、阿弥陀如来の仏法ブートキャンプなのです。
念仏を唱えていた我々のご先祖様は、今も、ハートマン阿弥陀の元で修行をしているのです。




また、シャーリプトラよ。

かの佛国土は、天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。

昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。

その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。

シャーリプトラよ。極楽国土には、このようにすぐれた性質の荘厳を成就する。


「本国に還到」とかどこに帰るのかよくわかりませんが、まあ、上座部仏教の修行僧っぽい生活です。


で、教育機関ですが、結構、近代的に自動化しています。





また次に、シャーリプトラよ。

かの国には、常に、種々のめずらしい雑色の鳥がいる。

白鵠(白い鵝鳥)・孔雀・鸚鵡・舎利(鷺?)・妙音鳥(藪鷥に似ている鳥)・共命の鳥(雉子の類?)がそれである。


このもろもろの鳥、昼夜六時に、合唱する。

その声は、

五根(悟りを得るための機根。信根・精進根・念根・定根・慧根)・

五力(信力・信仰、精進力・努力、念力・憶念、定力・禅定、慧力・智慧)・

七菩提分(悟りに役立つ七つ。択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・捨覚支・定覚支・念覚支)・

八聖道分(=八正道)などのような法を教える。

その土の民衆は、この声を聞き終わって、みな、ことごとく仏を念じて、僧を念じる。


シャーリプトラよ。おまえは、この鳥は、実にこれ、罪報の所生(弱肉強食の世界における畜生)であるということだろうか。

いや、そのように見てはいけない。


それはなぜだろうか。

かの仏国土には、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)がない(死者の霊の行く世界がない、餓鬼の境地が存在しない)。

その、仏国土には、三悪道の名は無い。

言うまでも無く、実体は無い。

このもろもろの鳥は、みな、これ、阿弥陀仏の法を説く声を広めようと欲して、仏の不思議な力で作りだされたものである。


シャーリプトラよ。かの仏国土には、微風が吹動して、もろもろの宝行樹および宝で飾られた網は、微妙の声を出す。

たとえば、百千種の楽を同時にかなでるようなものだ。

この声を聞く者は、みな、自然に念仏・念法・念僧の心が生じる。

シャーリプトラよ。かの仏国土には、このようにすぐれた性質の荘厳を成就する。



要するに、極楽浄土には、説話をスピーカーする鳥がいて、そいつらが勝手に、教説を日夜定時に、説いているようなのです。

何となく、阿弥陀如来が、直接教えてくれるのかと思っていましたが、やっぱり口頭だと、莫大な浄土人口をさばくことが出来ないのでしょう。

地球の大学講義も、今は講義室でなく、ブロードキャストで放送する時代です。

阿弥陀如来の説法も同様なのでしょう。

全浄土中の、億万といる元人間(全人類)たちは、定時になると、スピーカー鳥の説法を聞いているのです。

何となくシュールな光景ですが、実は、キリスト教の天国も実は、こんな感じです。

聖書のヨハネの黙示録には、天国の風景が出てきますが、変な生き物が四六時中スピーカーしています。



4:8

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。

そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。

昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。




洋の東西を問わず、天国は似たような物になるのです。




徹底的にハードな修行するぞ



で、極楽浄土という外部と遮断された閉鎖環境の中で、朝晩、説法鳥の洗脳を受けている元念仏信仰者ですが、基本、定時の説法以外は暇なはずです。

※もしかして24時間説法しているのかも知れませんが。

上記した阿弥陀経にも座禅という単語があるので、説法を聞いているだけでなく、修行をしているのです。

しかし、具体的にどんな修行をしているかは、明記されていません。


修行方法が明記されていない以上、どんな修行をやらされるかわかったものではありません。

そして、修行というのはいつの時代でもハードトレーニングの代名詞です。

安楽気楽な修行は修行と呼びません。
ハードだからこそ修行と呼ばれるのです。

この21世紀の日本では、そもそも修行というのは死語になっています。
修行をしているのは、板前か花嫁かオウムくらいです。


本格的な修行は、せいぜい、少年漫画の主人公がやるくらいです。
凡人には縁が無い世界なのです。
修行、それは禁断にして魅惑の黄金郷。





ああ!
魅惑の少年漫画のレベルアップ修行よ!
・大リーグ養成ギブス
・20キロの亀の甲羅を背負ってランニング
・一秒間に10回の呼吸が出来たら十分間息を吸い続けて十分間吐き続ける
・百八の殺人技習得のためカメハメハにボコられる
・荒波に向かってタイガーシュート


まあ、肉体修行は無いとは思いますが(たぶん)、そもそも、座禅と言っても、様々です。

座禅という用語は、禅用語ですが、禅宗ではないので、ここでいう座禅は、瞑想一般の用語と言った方がよいでしょう。


しかし、元々、南無阿弥陀仏(阿弥陀佛に帰依します)とか言わせて来た環境です。
相当な確率で、救い主である、阿弥陀佛を礼賛する瞑想でしょう。

閉鎖環境で、一日中、説法のBGMを聞いて、特定の人物(仏)を礼賛する修行をやらせられる・・・。

どうみても、洗脳です。
本当にありがとうございました。





なんだか、極楽浄土に本当に行っていいのか、疑問が湧いてきましたが、まあ、それでも地獄よりはマシ(たぶん)なのです。

大丈夫です。
阿弥陀仏を信じるのです。

信じるものは救われるのです・・・。




 南無阿弥陀仏・・・!



閉鎖空間


ちなみに、何かカルトみたいでやだとか言うご意見もあるでしょうが、実は、この閉鎖空間の修行というのは、仏教の伝統的な方法です。

カルトっぽいのではなくて、カルトが仏教の修行法を真似しているのです。

どんな仏教宗派もやってることは大して変わりがありません。

閉鎖空間で一日中、瞑想しているのです。

その瞑想方法はやり方に差異はあれど、トランス状態に入るのは共通しています。

単純なマントラの繰り返しや運動や座禅など、とにかく、日常の意識を崩壊させて、強度の変性意識状態に陥らせるのが目的です。

東南アジアの上座部仏教だろうが、チベット密教だろうが、日本仏教だろうが、それは変わらないのです。

逆を言えば、そうでなくては、悟りや解脱は出来ないのです。

日常的な行動は変性意識の邪魔なので、どうしても出家して、一日中フルの修行をするしか無いのです。

仏教だろうが、仙道だろうが、ヨガだろうが、西洋魔術だろうが同じです。

ある段階に入ると、こうした集中した環境で修行する段階が必ず存在します。

その出家環境から、戻ってくるかは、その宗教のシステムによります。

禅などは、行った後、戻ってくるのを重視しています(十牛図など)。

ここらへんは、その修行システムというよりは、教義体系によりけりです。

大乗仏教は衆生救済のプライオリティが高いので、戻ってくる宗派が多いのですが。




































自力か他力か?来世への優遇パスポート券の使い方












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トップ企業



今日は、功過格の話ではなく、来世の往生の話をしましょう。
とは言え、まあ、別に、いつも脱線しているので、いつもと同じような話ですが。


基本、因果応報の原則により、
人間の吉凶禍福というのは、自業自得です。
自分の過去の行動のカルマによるものです。

まさに、自業自得(徳)と言えます。
徳の有無が、本人の境遇を決めるのです。

しかし、世の中には、ズルをしたがる怠け者は多く、特別な方法でチート裏技を使って、難問をスルーしたがる輩がいるのです。

本来、自業自得の結果の来世の境遇を、信仰心という神仏へのゴマすりで突破しようという、小狡い手を使いたがるのです。

人間はチートが大好きで、努力など絶対したくない生き物です。
厳密に言えば、努力の有無に関わらず、生存競争において、勝ち残りたいのです。

死後の世界が、ろくでもない境遇になるとわかっていれば、回避したいのは誰しもが思う感情です。

それゆえに、来世に関して、権力者への、ゴマすり裏口入学とも言える教義の宗教は、宗教市場の覇者です。

イエスを信じれば来世は天国というキリスト教や、念仏を唱えれば極楽往生間違い無しという念仏浄土信仰は、およそ彼らの所属民族国家での、宗教市場を制覇しています。

※日本の仏教宗派は、念仏と題目がツートップ。

行動の有無によらない、信仰心だけの有無での、来世のランク決定がこれらの教義です。

怠け者の、人類という種の心理によく適合した教義というべきです。

念仏




我が国の、念仏仏教の浄土宗の開祖の法然は、仏教を、聖道門と浄土門に分類しました。

前者は自力で後者は他力です。

人間は、基本、怠け者なので、自力での成仏は難しいというマーケティング分析をしたのです。

まあ、ここまで、念仏信者を、怠け者呼ばわりにヘイトスピーチしてますが、単純に当時の鎌倉時代は、今の時代とは違って、悲惨な時代だったことも原因です。

この21世紀ですら、ナチュラルに戦争や飢えや貧困が横行しています。

※というか、現在進行系で半島と戦争しそうなのですが・・・。

人類の大半の歴史が、飢えと病と戦乱の時代だとすれば、法然のマーケティング分析も、あながち間違ってはいないのです。

生存環境が極端に悪ければ、善悪など言っている暇はありません。

善悪は贅沢品なのです。

基本、衣食住が揃ってこそ、初めて礼節が伴えるのです。

今、こうして安全な日本だって、いつ地獄に変わるかわかったものではありません。

なにせ、近隣諸国は全て敵国とも言える地政学的状態です。

いつ何時、核をぶっ放してくるか?
また、世界有数の地震地帯である日本列島は、周期的に大地震が伴います。

明日にでも、人が人を食う地獄絵図になるか、これまたわかったものではありません。

人間は所詮は社会的環境の生物です。
環境変数の入力条件次第で、いくらでも人格は変わります。

ぶっちゃけ、人間はただの生物機械です。
外部からの情報の入力次第で、思想・行動のプログラミングが決まります。

鎌倉時代に生まれていれば、皆さんも私も、ヒャッハーしてしまうのです。

これを、諸法無我と言います。

要するに、自我というものは、存在しないのです。

こうして、上から目線で善人面している豊河だって、クラッシュ時には、モヒカンに肩パッドでヒャッハーしている可能性があるのです。

 なぜ世紀末のモヒカンは輝く笑顔を見せることが出来るのか?




そのように考えると、およそ来世の境遇を、善悪の行為によらず、内面の信仰のみで決める宗教は間違ってはいません。


仏の前では善人はいない。一人もいないのです。




陰徳


来世への往生へのパスポートは、自力か他力かの二つの選択肢です。

上記したように、環境によっては、他力選択をしなければ難しい場合もあります。

しかし、そうは言っても、今の日本でしたら、他力オンリーは「怠け者の言い訳」にしか過ぎません。

「自分は悪の組織に心臓に爆弾を入れられてる!だから悪事をしないといけない!」

レベルの強制力が無ければ、自力をしないことへの言い訳は出来ないのです。


基本、このブログは、陰徳をメインに、開運を示唆しています。

つまり、自力によるものであり、聖道門か浄土門かと言えば、前者の聖道門です。

要するに、自分を救えるのは自分しかいないのです。

まあ、厳密に言えば、本来、弱小種だった人間は、古来(万年単位の時代)から、神の助けによって、人間はどうにかこうにか生きていました。

開運には、守護霊や神仏の助けが基本的に重要です。

しかし、その神仏の助けも、本人に徳があることが前提なのです。

自力にしろ他力にしろ、徳のストックが無いと、難しいのです。

以前から言っているように、神仏の対価は徳なのです。

もっと言えば、神仏との取引通貨が、徳なのです。
メガテンでは通貨はマッカですが、それと同じようなものです。


分散投資


で、グダグダと書いていますが、何が言いたいかというと、来世への安心が、他力だけだと、保険的な意味で非常に危険ではないか?
という、ファイナンス理論(大げさ)からの素朴な疑問です。

リスク分散はファイナンスの基本です。

何せ、本当に、死後に、念仏やイエスの信仰が通用するか、わかったものではありません。

死後の世界は証明不可能なので、本当かどうかの検証が出来ないのです。

再現性が無いものは科学的確症は持てません。

何の証拠も無いのに、~したら、~になる。という論理を信じてはいけないのです。

親鸞の歎異抄を読むと、親鸞の弟子レベルでも、念仏で極楽往生するって、ほんとかよ?と疑っています。

よくよく考えてみれば、当たり前の話で、世の中に美味い話はそう転がっていません。

浄土信仰は悪人の信仰とよく言われます。

要するに、さんざん悪事を働いてきた悪人や権力者が、死ぬ前に来世の予測にビビって、念仏にすがるからです。

念仏信仰は、悪人だろうが誰であろうが、阿弥陀佛が極楽浄土に強制連行してくれるという教義です。

生活環境から、善事が出来ず悪事をやるしかない弱者や、世間から穢れた者とされた被差別階級者の、救済という面では、この無条件救済の教義は、優れた教義です。

ある意味、平等に関する論議と同じです。
結果の平等か機会の平等かの論議に近いものです。

しかし、平等論議でも、ここらへんのテーマは議論になります。
成果に関わらずの結果の平等に関して、それじゃ頑張った人間が損するだけでは?というツッコミは存在するからです。






共産主義という、壮大な社会実験(数億人単位の犠牲者)が大失敗に終わった今、無条件救済は、再考の余地があります。

資本主義か共産主義か、自己責任や再分配や貧困格差の問題にまで連鎖する問題です。

もちろん、さらに反論として、上記したように所詮、人間は環境の産物であるため、個人の努力などは無意味であるという意見もあるのです。

努力出来た人は、たまたま努力出来る環境にいただけであると。

諸法無我という仏教のドグマからも、それは一理あります。

どうせ、人間は全員悪人であるから、自分で善行などは出来ないというのは、上記したように、一つの真理でもあります。



東のエデン


上記の通り、宗教的な教義の哲学は、人間にとってコアなテーマなので、世界観の違いとして出てきます。

前述のように、経済学の違いにもからんでくるのです。

とは言え、無条件平等救済の共産主義が崩壊したところを見ると、我々は、結果平等を素直に信じることは難しくなっています。

もっと言えば、地上の楽園があるよというプロパガンダに関して、嘘くさいイメージがあるのです。

多少なりとも、歴史を知っている人間ならば、このフレーズに関して、ちょっと待ていというツッコミを入れなくてはいけません。

要するに、何らかのプロパガンダではないか?
という、ツッコミです。

よくよく考えてみて下さい。

かつて、国家権力が、地上の楽園を謳った前科を思い出して下さい。
大抵、ろくな結果になっていません。






どれもこれも、ただの棄民政策だったのが大半です。

白人をアジアから追い出してアジア人の共同体を夢見た大東亜共栄圏だったり。
明治に南米の新天地に行こうとか、昭和に満州に行こうとか、戦後に北の地上の楽園に行こうとか。



嗚呼!
人類の歴史における魅惑の理想郷(エルドラド)たちよ!


・ドラクエ6のしあわせの国→ジャミラス
・不動産は永遠に上がり続けるという神話→バブル崩壊
・ITバブルは永遠に続くそれは全く新しい経済システム→リーマンショック
・神国日本は神風が吹いて大勝利→原爆で敗戦
・この洗剤を売れば、不労所得生活→マルチ
・エジプトから脱出して約束の地へ→脱出世代は、全員約束の地に着くこと無く砂漠で死亡
・国家予算は埋蔵金がある!→短期政権
・アベノミクス。この道しかない→個人別GDP下落



騙されてはいけません。


極楽浄土と地上の楽園は、一体何が違うというのでしょうか?

そもそも、いい大人が、濡れ手で泡の儲かる話があるよ!と言われて、ほいほい信じてはいけません。

楽園はあるよとか、白馬の王子様がいつか迎えに来るとか信じて良いのは、初等教育までです。

人間は、太古の昔、不労所得生活のエデンの園から追放されて、額に汗して働くはめになりました。

いつの世にも上手い話は存在しないのです。





新しい上司は仏人



そもそも、念仏の対象の阿弥陀如来とか、イエスの信仰の天なる父は、信用出来る対象なのでしょうか?

現代の科学文明の開祖であるデカルトはありとあらゆる存在を疑う意識を持つように啓蒙しました。

当然、その疑問対象は神仏にまで及びます。

法然とか親鸞とかイエスは、信仰すれば、極楽浄土(天国)直行間違い無しと太鼓判を打ちます。

彼らの言っていることは、そもそも本当なのでしょうか?

我々は、ひょっとして、騙されているのではないでしょうか?

例えば、念仏の対象の阿弥陀如来です。

南無阿弥陀仏と、口称念仏すれば、極楽浄土間違い無しと、法然達は言います。

※厳密に言えば、阿弥陀如来の本願(18願目)によって、人類はみんな死後、極楽浄土に強制連行されると言うのです。

しかし、そもそも、阿弥陀さんは信用できる存在なのでしょうか?

豊河も、日本人なので、ナチュラルな文化的風土の中で、何となく無条件に信用していましたが、よくよく考えてみると、本当に阿弥陀如来は信用出来るのか否か疑問を呈する必要があります。


鎌倉時代の文盲の愚民は騙せても、宗教的天才の名をほしいままにする豊河(自称)は、騙されません。






そもそも、パンチパーマのメタボの怪しい風体のおっさんを迂闊に信じるのは、無防備すぎやしないでしょうか?

小さい頃、知らない人にほいほいついて行ってはダメだと親に教育されたと思いますが、そもそも、パンチパーマ、メタボ、インド人と、もう不審人物の役満です。

例えば、インド人が、
「イイ マントラ オシエルヨ」
「リスクナシで、ゴクラクジョード イケルヨ」
などと勧誘してきたら、ダッシュで逃げるのが普通です。

ところが、人間だと警戒するのに、仏だと途端に警戒ガードが緩んでしまうのは、我々、日本人のセキュリティシステムの穴を突いたハッキングです。

我々、日本人は、日本国建国当時の奈良時代からの伝統で、仏なら無条件にいいものだろうと、洗脳されています。


騙されてはいけません。



仏だからと無条件に信用してはいけません。

そもそも、人と仏なんて大した差はありません。

漢字をよく見てみましょう。

仏なんて人(ニンベン)にムがついてるだけじゃないですか?

大した違いはありません。

そもそも、仏蘭西(フランス)人なんて、生まれながらに仏人ですよ?

フランス国なんて仏国です。
全員仏人な、極楽浄土です。

この地球上に、すでに、仏国土は存在しているのです。
別に極楽浄土をありがたがる必要はありません。



低学歴の世界




まあ、フランス人はどうでもいいとして、念仏は、鎌倉時代のニーズに合わせた異世界転生のなろう小説です。

修行したくない、善行も積みたくない大衆の欲望に見事、マーケティングしています。

ちなみに、これは、現在のマスメディアと同じです。

例えば、マスコミ、特にテレビの白痴化や愚民教育っぷりは、問題になっています。

何でこんなに、程度の低い番組を作り続けるのかと?

ところが、この番組を作っている当のマスコミや電通は、超高学歴出身です。
※厳密には人質用のボンボンと実務の高学歴エリートが社員。

番組に関しても、綿密な統計データを用いて制作されています。

理由は、大衆は馬鹿が多いから、それに合わせて作っているのです。

近年、増加したスマホのガチャゲーも同じです。

人間の知能指数を下げるようなクリックゲームですが、大衆は馬鹿という統計結果に合わせた結果、そうなっているのです。

人間の低次元の欲望に合わせたマーケティングのビジネスモデルというのは、いつの時代でも当たります。

例えば、日本の高納税ランキングを見てみましょう。

上位には、パチンコやらサラ金やらファーストフードやら、明らかに底辺産業の社長がランクインしています。

この記事のはじめの方で、念仏やイエス教が、世界の宗教マーケティングを占めているという話をしました。

要するに、そういうことなのです。

人類は、IQ(学歴など)のピラミッド制です。
上に行けば行くほど数は少ないのです。
下に行けば行くほど数は多いのです。

つまり、市場を制覇しようと思ったら、圧倒的多数の愚民にマーケティングしなければいけないのです。

換言すれば、大衆に合わせた宗教というのは、底辺の馬鹿に合わせた宗教なのです。

なにせ、鎌倉時代の愚民にもわかるように開発したのが、念仏です。

念仏を非難していた法華経の日蓮ですら、じゃあ自分たちの布教はどうするか?という戦術の考案の結果、南無阿弥陀仏ならぬ南無妙法蓮華経というパクリマーケティングにしたくらいです。

低学歴マーケティングは、そういうものです。

ちなみに、法然も親鸞も日蓮も、凄い高学歴の知的エリートです。

こんなアホな低学歴宗教を作るくらいだから、馬鹿なんだろうなという思い込みは、彼らの履歴を見ると、覆されます。

要するに、先程の電通マーケティングのように、インテリが低学歴用のマーケティングを作っているのです。








日本が滅びますぞ!の日蓮も、あの行動履歴や現代までの信者を見る限り、さぞかし脳筋かと思いきや、著作を読むと、インテリ然とした文章で驚かされます。


余談ですが、欧州などは、低学歴宗教のキリスト教が国教になった結果、ローマ帝国もギリシャ文明のインフラ(哲学だったり風呂だったり)が潰れて暗黒の中世時代を1000年も続けたのです。

馬鹿に合わせた低学歴宗教は、このような弊害があります。




抜苦与楽


ちなみに、愚民だとか低学歴だとか、さきほどから豊河は、不当に念仏をディスってますが、厳密には、現代の低学歴マーケティングと、彼ら宗教開祖たちとは歴然とした差があります。

それは、衆生救済という慈悲心の有無です。

電通などは、資本主義の悪意を持って、低学歴に合わせてコンテンツを制作していますが、元々、開祖たちは、長年、比叡山で国訳一切経を何巡もしてきた仏教を死ぬほど学んできた連中です。

鎌倉時代の当時の悲惨さは、現代人には想像を絶するレベルです。
そもそも、大多数が文盲です。

衆生の抜苦与楽こそが、宗教の眼目です。

自力で修行出来るエリートや、善行を積める貴族階級は、既存の宗教がすでにあります。

生きていくには、修行も寄進も出来ない、悪行をせざるを得ない人々に必要な宗教マーケティングニーズに応えるという需要と供給を背景に、慈悲心を持ったからこそ、神仏が味方したのです。

日蓮などは、観音経(法華経のコンテンツの一つ)の念彼観音力刀尋段段壊をリアルで再現し、処刑シーンで、奇跡で免れています。
イエスですら、出来なかった処刑からのエスケープということをやっているのです。

皆さんも、宗教を立ち上げることがあったら(無いとは思いますが)、この一念だけは忘れてはいけません。

低学歴マーケティングやら奇跡の演出やらは、所詮は、方便です。
衆生への抜苦与楽と霊性の向上は忘れてはいけません。

手段は目的のために存在しているのに、いつのまにか、手段が目的になってビジネスになってしまうと邪道に陥ります。


一億総投資時代


さて、長々ダラダラと話をしてきましたが、結局、我々はどうすればよいのでしょうか?

このブログの目的は、個人レベルの開運です。

しかし、陰徳か念仏かの二択を選択しなければいけないということはありません。

上述したように、投資におけるリスク分散なのです。

宗教を投資に例えるとは何事だ?
と、思われるでしょうが、そもそも、宗教はギャンブルと同じです。
賭け金は我々の人生なのです。

今の時代、政府が国民に投資を薦める時代です。
貧乏な大衆には銀行口座でNISA(投資信託の税優遇措置)を、窓口で推薦されるくらいです。

どの宗教を選ぶかと言うのは、人生における投資信託と同じです。

安全なファンドもあれば、沈没するファンドもあるでしょう。

昔は、選択の自由などはありませんでしたが、近代以降は、宗教選択の自由により、自己責任の時代になったのです。

で、何が言いたいかというと、例えば、死後、選択した宗教投資信託ファンドが、役に立つのかどうかということです。

念仏は、死後、善悪に関わらず、極楽浄土に強制連行してくれるという株主配分を約束している投資信託(もしくは、保険商品)です。

そして、リスクは分散されなくてはいけません。

死後の閻魔大王の前での裁判は、今まで投資信託してきた総決算の場となります。

陰徳をやっていれば、問題ないのでは?

というのがもっともですが、しかし、この陰徳すらもリスク対策をとらなければいけません。

死ぬ前に、何があるかわかりません。
例えば、朝起きたら、ゾンビが徘徊するような世界(バイオハザードか?)になっていたら、生き残るためにゾンビと戦わなければならなくなります。

せっかく今まで陰徳投資で、蓄えた陰徳資本がゾンビ退治で減衰してしまいます。

退治したゾンビの中に、親とか坊主がいたらますます減衰です。
(専門的に五逆罪の構成要件)

そもそも、死ぬ前に積み上げた陰徳が足りない場合も考慮しなければいけません。

何せ、陰徳ポイントは目に見えないので、どのくらい貯まっているかわからないのです。

功過格の計算は、所詮、人間が勝手につけているに過ぎません。

思ったより貯まっていなかったか、気づかない過(マイナスポイント)や、前世のマイナスポイントで、総計額がショボくなっている可能性は十分にあります。

閻魔大王の前で、ドヤ顔して生前の陰徳を主張して、「いや、そんなに貯まってないから」と言われたらどうしようもありません。

分散投資で、念仏やらイエスやらを信じておいた方が、リスク分散になるのです。

これは、逆を言えば、リスク対策として、念仏などの信仰オンリーでも、同じことです。

陰徳も同時並行していないと、リスク対策になりません。

生前で念仏して、閻魔大王の前でドヤ顔でいたら、「いや、念仏に効果は無いから、というかそんな都合のいい話があるわけないでしょ?」とか言われたらどうするのでしょうか?

そもそも、阿弥陀ファンドが、いつのまにか潰れていたらどうするつもりなのでしょうか?



今の時代は、政府の失政で、年金などの老後の生活すらも信用出来ないのに、死後の世界までも対策をとらなければいけないのです。

昔だったら、普通に、右肩上がりの経済、そして地元の檀家寺で信仰を持っていれば、老後も死後も安定していましたが、現在は、自己責任の時代になってしまいました。

豊河は、陰徳ファイナンシャルプランナー(今勝手に考えた職業)として、皆様の不確実な現代社会の対応を、安心プランニングしているのです。

で、何が言いたいかと言うと、リスク分散で自力と他力は両方やっておきましょうという、ただそれだけのことなのですが。




2017年12月18日月曜日

記事文章量とコメントについて











このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)







さて、最近めっきり寒さが厳しくなってきた昨今、皆様におかれましては、お体をご自愛下さりますよう豊河、心からお祈り申し上げます。

で、数回前の記事の、

記事の文章量についての考察



で、この無駄な長文のブログ記事をどうするかで書いたところ、特に誰からもツッコミ来てないから、どうでもいいやと、書いていました。

大変申し訳ありません。

普通に、コメントを複数頂いておりました。

GoogleメールとBLOGGERの設定がミスっていたようで、メール見ただけだと、コメントが無かったと勘違いしておりました。
悪いのはGoogleです。豊河は悪くありません。


※ちなみに、豊河は人気ブロガーで無いので、一日に莫大なメールが来るとかは全然ありませんので、基本、来たメールは100%返信しています。

で、来たコメントを拝見いたしますと、
別に長文でも良いという、ご意見ご感想が多く見受けられます。

正気か?正気なのか? この駄ブログの長文を貴重な時間 暇人なのか?を割いて頂き、まことに恐悦至極です。

しかし、皆様、ちょっと待って下さい。

本当にそれでいいのでしょうか?

もっと、人生にはやるべきことがあるのではないでしょうか?

こんなブログを読んでいる暇があったら、もっと高等な趣味とか教養とか生産的なタスクをやることが出来るのではないでしょうか?

もし、皆様がこの駄ブログを読んでいる時間を、もっと生産的なことに当てていたら、今頃は、もっと光り輝く人生が得られたのでは無いでしょうか?


 光り輝く人生の一般例



例えば、豊河のような雑魚が書いているブログではなくて、もっと多くの人に光を与えている宗教本を読むべきです。

ちなみに、今、てきとうにググったら、日経電子版の、
ベストセラー 年間ランキング (15年11月27日~16年11月25日)

が出てきました。



(1)天才石原慎太郎著(幻冬舎)
(2)おやすみ、ロジャーカール=ヨハン・エリーン著(飛鳥新社)
(3)ハリー・ポッターと呪いの子 第一部・第二部J・K・ローリングほか著(静山社)
(4)君の膵臓をたべたい住野よる著(双葉社)
(5)嫌われる勇気岸見一郎、古賀史健著(ダイヤモンド社)
(6)どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法Eiko著(サンマーク出版)
(7)羊と鋼の森宮下奈都著(文芸春秋)
(8)コンビニ人間村田沙耶香著(文芸春秋)
(9)正義の法大川隆法著(幸福の科学出版)
(10)新・人間革命 第28巻池田大作著(聖教新聞社)
(11)つくおきnozomi著(光文社)
(12)火花又吉直樹著(文芸春秋)
(13)超一流の雑談力安田正著(文響社)
(14)言ってはいけない橘玲著(新潮社)
(15)結局、「すぐやる人」がすべてを手に入れる藤由達藏著(青春出版社)
(16)幸せになる勇気岸見一郎、古賀史健著(ダイヤモンド社)
(17)置かれた場所で咲きなさい渡辺和子著(幻冬舎)
(18)幸福の花束創価学会婦人部編著(聖教新聞社)
(19)また、同じ夢を見ていた住野よる著(双葉社)
(20)コーヒーが冷めないうちに川口俊和著(サンマーク出版)



一位に、法華経信者の石原都知事が来ていたり、ハリー・ポッターに負けてる大勝利とエルカンターレとか、色々ツッコミどころがあるのですが、しかし、それでも大勝利(創価学会)とエルカンターレ(幸福の科学)は、日本の出版業界では、ベストセラーです。

しかも、大勝利とエルカンターレは、一年だけのベストセラーではありません。
10年、20年、もっと長期のベストセラーです。

豊河の駄ブログとは、レベルが違うのです。

そもそも、売れてるということは、それだけ中身が素晴らしい物なのです。

資本主義の原則は市場における優勝劣敗です。
売れてるということは、中身の質の高さとイコールです。

そんな馬鹿なことがあるか!?
と、疑う、反資本主義のアカのおフェラ豚もいらっしゃるかと思いますが、よくよく考えてみればわかることです。

例えば、食べ物で考えてみてください。

完璧に論理的に、立証できてしまいます。
ハンバーガーとコーラは世界一売れている。
だから、世界一美味いのです。



一番売れている宗教本は、当然、一番、宗教的に正しいのです。

皆さんも、豊河の駄ブログなど見ている暇があったら、大勝利とエルカンターレの聖本を読むのです。

豊河のような邪教の不浄な者は、あまりにも霊的レベルが低すぎて、読むどころか、書店でこれらの聖本を、手にとることも出来ないのですが、何せ、日本で一番売れている宗教本です。

さぞかし、霊的レベルが高い本に違いありません。

ちなみに、イエスは、


狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。
マタイ7:13~14

などと言っていますが、死刑囚の言うことなど信じてはいけません。

そもそも、寄らば大樹の陰というのは、世渡りの鉄則です。





この鉄則がわからない世間知らずの人は、はだしのゲンを思い出して下さい

※ちなみに、知らない人は、グロ漫画なので読まない方がいいです。
学生の時に、
「お、学校の図書室に漫画があるやんけ!」
→「ギギギ・・・み、水をくれ・・・」
という、グロトラップの被害者ループを毎年生産する漫画です。
世の中には知らない方がいいことがあるのです。


で、主人公のゲンのパパ(以下、ゲンパパ)を思い出して下さい。




ゲンパパは、基本、M属性を公言するような筋金入りのM奴隷野郎ですが、困ったことに、性癖を隠そうとはしません。

当時の戦中の真っ只中で、空気を読まない反日行動を取って、弾圧されるという誘い受けハードプレイを敢行する、正に筋金入りのM奴隷です。






作中では何となく、戦時の弾圧に立向かった平和主義者みたいな印象操作がされていますが、ぶっちゃけ、ゲンパパの行動は、一ミリたりとも意味がありません。

戦争を止めるなら、本格的に地下に潜って行動した方がいいし、どうせ止められないなら、面従腹背で居たほうがいいのは当たり前です。

当然、非国民としてボコボコにされるのですが、結局、何がしたかったのかよくわかりません。

まあ、「弾圧に屈しない左翼闘士」というキャラなのでしょうが、あまりにも不自然すぎて、性癖のためとしか思えないキャラとなっています。











まあ、ゲンパパがボコられるのは、自業自得でかつご褒美なのでしょうが、巻き添えになる家族はたまったものではありません。






身内に極端なイデオロギーやカルト思想の持ち主がいると、家族が被害にあうという分かりやすい例です。

で、前車の覆るは後車の戒め、賢者は歴史に学ぶということを、我々は先人の失敗を通して、成さねばなりません。

愚かにも、空気を読まなかったゲンパパの失敗を踏襲してはいけません。

ちなみに、このような時代にも、勝ち組だった人間は普通にいます。

同じく、はだしのゲンだと、町内会長こと鮫島伝次郎先生がその例です。



ゲンパパは、鮫島伝次郎先生の爪の垢を煎じて飲むべきです。
空気の読めないコミュ障は、滅びるしかありません。
進化論の基本は、環境に適応した種しか生き残る事ができないのです。

ちなみに、鮫島伝次郎先生の行動を、民族レベルでやっている連中がいます。

華僑です。

華僑は御存知の通り他国に進出した中国人です。

つい最近も、サンフランシスコで中国人住民の支持を受け、中国人市長が反日活動して大阪市から絶縁されたり、口封じに消されたりと色々と騒ぎを起こしている日本の敵ですが、彼らは、大陸のエージェントの顔とは別の顔を持っています。

それは、無国籍のコウモリ野郎してのサバイバル民族です。

基本、海外に難民として出ていく中国人は、他国でサバイバルせざるを得ません。

そのため、徹底して生き残るのに傾注します。

イデオロギーなどどうでも良いのです。
信用できるのは金だけ。
そんな連中です。

例えば、インドネシアの華僑は、こんな感じです。

「左の連中が勢力をもったら、スカルノ万歳、毛沢東万歳とやって、連中の肖像画や五星紅旗(中華人民共和国)を掲げ、爆竹を鳴らして大騒ぎのふりをしておくのさ。そのうち情勢が変わって右の連中が実権をにぎったら、こんどはインドネシア国旗や青天白日旗(台湾)をふって、インドネシア万歳、自由万歳、なんでもいいから万々歳とやるのさ。そのために、どこの華僑の家でも、スカルノ、スハルト、毛沢東、蒋介石の肖像画から、インドネシア国旗、五星紅旗、青天白日旗まで取り揃えてあるよ」
奇跡の華僑金儲け術 P24より


皆さんも、国家などに拘ってはいけません。

寄らば大樹の陰を今日から座右の銘にして下さい。

で、こんな資本主義の市場を一ミリたりとも支配していない駄ブログなどを読んでいてはいけません。

大勝利やエル・カンターレの本を読んで下さい。
豊河は読んだことはありませんが、資本主義の原則に則り、きっと、豊河の駄文よりは、素晴らしい本に違いありません。

ちなみに、豊河は、大勝利やエル・カンターレを越える、世界的ベストセラーの聖書も書評しています。
※途中で飽きて、創世記と出エジプト記しか書評していませんが。


さあ、今すぐ目の前にあるPCとスマフォを捨てて、高貴な霊的書物を読むのです。




まあ、普通に、マジレスすると、普通に、聖書、仏典、諸子百家、哲学思想は、基本なので、豊河のブログを読む暇があったら、そちらを優先して下さい。

そもそも、陰徳などは、陰騭録(AMAZONで普通に買えます)を一冊持っていて毎日功過格表を更新すれば、それで良いのです。


この駄ブログはみなさんの高次の進化への入門書なのです。
入門書は最初は入りますが、やがては捨てるべき代物です。
わかりやすく言えば、同人誌で例える(なぜ同人誌で例えるのか?)と、クリムゾンなのです。
学習書で言えば、学研の少年少女人物日本の歴史なのです。