2019年8月30日金曜日

五行と陰徳⑨ 無明→悪パターン










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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。


功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一民害を除く。


無明→悪


前回は、楽→無明パターンだったので、次の五行は無明→悪パターンです。




右下の黄色から左下の黒字の部分ですね。

前回は、善の結果の因果応報で幸福(楽)になると、平和ボケで無明(無知)が生まれることを指摘しました。

今、平和ボケと比喩したのは、そのままの意味です。
悪が因果応報で苦の結果になって、反省して、善に立ち返り、因果応報の結果で楽になったら、今度はそれを忘れてしまうのです。

で、その結果、傲慢になって悪行をなしてしまうというロジックです。

正直、説明不要かと思いますが、人間は喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物です。

代や転生を重ねればなおさらです。
人間は記憶の継承が出来ない生物です。
文字媒体などの歴史記録は残りますが、実感が伴わないため、大した教育にはなりません。



自己責任理論


元々、金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しいとイエスも言っています。

金持ちになると、傲慢になります。
現在は、だいぶ落ち着いたとは言え、経済の新自由主義がまかり通っている時代ですので、経済的な勝者はますます反省をすることが無くなっています。

単純に運良く弱肉強食に勝てた階層は、己の努力によるものであり、弱者は怠け者程度に考えています。

ここには、自己反省して、弱者や神仏に布施するというモチベーションは働きにくいのです。

そして、実際のところ、成功者は努力しまくっていることが多く、かつ社会的に大きな仕事をしているので、社会貢献や周りの阿諛追従で、自分は偉いと認識する環境に事欠きません。

そのため、ますます無明(真理に無知なこと)の坂を転げ落ちていくことになります。



エスケープ


まあ、無明→悪パターンというのはだいたい上記のような話ですが、厳密に言えば、世界というのは法則通りに行くものではありません。

もっと言えば、こういう自然法則のサイクルから外れるのが、解脱というものです。

生老病死は自然サイクルですが、このまま流れて行ってしまうのは、凡俗に過ぎません。

人類はというより生物は同じようなことを果てしなく天文学的な単位でリピートしまくってる度し難い生物ですが、同じ失敗を繰り返すのを馬鹿というのです。

要するに、楽の果報を受けても無明にならなければ良いのです。
そして、無明から悪にならなければ良いのです。

輪廻の輪を断ち切るのが、覚者という代物なのです。


次回は、ここらへんをもうちょっと考えてみましょう。











2019年8月28日水曜日

五行と陰徳⑧ 楽→無明パターン










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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





楽→無明パターン





前回は善(木)→楽(火)のパターンでした。

今日は、楽(火)→無明(土)のパターンを考えてみましょう。

で、今まで言ってきたように、ここの流れは本来、春夏秋冬の4つの自然の流れを五行にするために無理やり入れたものです。

善楽悪苦の春夏秋冬の流れは、普通に因果応報で納得出来ますが、ここに土が、無理やり入っていますので、すんなりわかりにくいのです。

しかも、土が無明と私が勝手に暫定的に入れていますが、無明よりも、もっとあてはまる概念があれば、そっちでも全然構いません。

というより私が適当に書いているだけですので、そもそも、地球のどこかでもっと良い体系を書いてる人がいるかもしれませんので、知っていた方がいらっしゃいましたら、豊河に教えて下さい(他力本願)。

で、前にも言ったような気がしますが、善楽悪苦の間に挟まる土行ならば、それらの連結を表す業(カルマ)の方がよさげな気がします。

まあ、そっちの方がよいと思ったらしれっと変えますので、先の記事で、やっぱり土は業にしますということになるかも知れません。

まあ、ノリ(天啓)で書いているブログですので、気にしないでください(無責任)。


さて、今回の楽→無明は、火→土の流れの相生です。
火が燃え尽きると、土に還るとかのロジックです。

その前は善→楽、木→火ですので木が燃えて火になる。
それに比べて火が燃え尽きて灰になって土になる。
まあ、火山灰とかありますから、あながちロジックとしてはなんとかなっています。

で、善→楽は、良いことをやると因果応報で楽になる。
ということでした。
で、楽になると今度は無明になる。
という、ロジックです。



楽は真理を見えなくする



楽になると無明って何だ?

と思いますが、ぶっちゃけ言うと、要するに、人間、調子に乗るとバカになるという、ただそれだけの話です。

要するに、恵まれた子供は、性格が悪いボンボンになるとかそういう話です。

人間、苦労しないと人格が練れないとか、艱難辛苦、汝を玉にすとかそういう類の話ですね。

苦労しないと人の苦しみがわからないとか、悪人が、自分がひどい目にあってようやく他人の痛みが理解出来た!とかそういう話です。

とはいえ、そもそも、金持ちとか全員悪人なのかとか、貧乏人の方が環境が悪いから悪人が多いんじゃないのか?
とか、そういう現実的なツッコミもありますが、とりあえず、そういうものだと理解して先の進みましょう。

要するに、善行を行って因果応報で楽果があると。
金や健康や権力や名声が手に入ったと。

みなさんが、陰徳をやって運命開運して、ブルジョア階級になったとしましょう。

ここまで善→楽の段階ですね。
物語的に言えば、めでたしめでたしの段階です。

ところがその後が問題です。
開運して金も入った。美女を娶り、豪邸を建てて、権勢は雲をつかんばかり。

しかも、権力を得るということは決断をしなければならないということです。
組織のために、養う構成員のために非常の決断をしなくてはならない。

要するにいい人ではできない決断をすることになる。
まあ、それが楽→悪の段階なのですが、ここらへんは次でやりましょう。

楽から無明ですが、余裕ができてくると、上から見えてくるものがありますが、同時に、真理(仏教的な)を見えなくなるというものは確実に出てきます。

個人レベルでさえ、功成り名遂げて老後に恥をさらす例は山とあります。
※豊臣秀吉などが有名。

偉くなる、金持ちになるということは、危険性がますのです。




真善美



では、これはどのようなメカニズムなのでしょうか?

なぜ、楽になると無明になるのか?

これは、要するに執着するからです。

人間は苦痛にはある程度、耐えられます。
しかし、快楽には耐えられないのです。

人間は生物なので、生への執着が遺伝子的に激しいのです。
楽な状態をキープしたがるのです。
※安全に、生殖活動が出来るようになるから。

そして、ここで認知のゆがみが生じてしまうのです。

すなわち、
快楽な状態が続く。
→快楽な状態を無くしたくない。
→この状態がずっと続けばいいのに。
→(認知の歪み①)この状態はずっと続くに違いない。
→(認知の歪み②)この状態は正しいに違いない。

こんな感じに、人間の認知は歪んでしまうのです。

これは、例えば、超美人な女の子がいたら、男は、その娘の性格まで綺麗だと正当化してしまう例などです。

自分に都合の良い、快楽な状態や対象を、執着のために正当化してしまうのです。

人間の認識というものはこういうものです。
輪廻の解脱を阻む、煩悩は無明と執着の2つです。

この2つは車輪の如く、2つ一緒でグルグル回るのです。

要するに、楽→無明パターンというのは、楽(執着)→無明パターンなのです。

人間は気持ちいいことを正しいとしてしまうのです。

真善美という言葉があります。

真実は善であり、同時に美であると。

たしかに、そういうものもあります。
例えば、真実と美は良く組み合わさります。

武術や芸の達人の動きは、理に適っており美ですし、数学の公式なども、数学者は本物の数式は美しいと言います。

しかし、善かどうかは別です。

当たり前ですが、真実はともかく、美と善というのは別物です。

昔、ギリシャでは真善美がセットで讃えられていたため、容疑者の美人が法廷で裸になって、聴衆や裁判官が、こんなに美しいのだから無罪であろう(真善美ですね)と、勝訴を勝ち取ったことがあるくらいです。

芸術家のその至極の美の制作物に反して、社会不適合者が圧倒的な例などを見ればわかるでしょう。

巧言令色鮮し仁とも言いますし。

まあ、とは言え、厳密に言えば、真善美は結構、セットのこともあります。
言葉にしろ芸術にしろ、3つセットのことが多いのは認めます。

が、無条件にセットだと信じるのは認知のゆがみです。

ちなみに、真善美がセットだというのは人間の思考の枠組み(歪み)の一つですので、3つ揃えなくても2つくらい揃えちゃうと、残りの一つは勝手に見る人が補完してくれます。

これは、当然、現世の方便に使えるテクニックですので、頭の隅に入れておきましょう。