2017年10月31日火曜日

【陰隲録】功過格表161 釈迦という、家なき子 同情するなら布施をくれ もしくは道場をくれ  十善 いい人を紹介しよう㊳











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



出家


一般に、出家というと、それは仏教の出家を意味します。

しかし、別に仏教でなくても、出家という形式はいくらでもあります。

出家が、現世での幸福をガン無視する方向ならば、いくらでも形式はあるからです。

むしろ、現在のように、宗教組織に入る(入社?)という意味ならば、厳密に言えば、出家とはいい難い状態です。

昔の出家は、文字通り、「家」を出ることです。

もっと言えば、ホームレスになることです。

家族という意味での家も同様です。
妻も親も子も、家の構成員です。
拡大解釈すれば、企業や自治体も国も同様です。
それらから抜けるのが出家と言えます。

日本でホームレスなんぞすると、普通に冬に死にますが、インドなどでは、楽勝です。
あとは、ご飯を信者から乞食で貰えば、生きていけます。

と言っても、元々、インド人の出家というのは、修行するためにやっていることです。
修行するのには、色んなしがらみが邪魔だから出家するのです。
逆に言えば、24時間自由に使える衣食住が整っている環境ならば、出家する必要は無いわけです。

早い話が、衣食住が約束されている、現代のニートは出家に最適です。

父親が金を稼いで、母親が衣食住を整備してくれる環境は、出家の理想に近いのです。


反比例

この出家というのは、通常の現世の俗世とは真逆の方向だと思われています。

実際、現世では、女、金、地位の俗世の幸福を放棄します。
美味しい、料理などの五欲の対象にはアクセス出来なくなるのです。

しかし、ある意味、この囚人のような環境が、一般の成功よりも上に見られています。
戒律をしっかり守っている僧侶や、厳しい修行をしている行者などが、尊敬の対象になります。

千日回峰行の達成者などは、生き神様扱いされているのを見てもわかるとおり、通常の因果応報の結果の成功不成功、吉凶禍福とは別の次元の法則に生きているように見えます。

つまり、貧乏などは通常、不徳の証拠ですが、僧侶だと貧乏で無一物がむしろ高徳の対象になるのです。

以前から、言ってるように、通常の因果応報とは反比例する別の法則ではないか?
という話です。

霊性を重視する業界では、通常、逆境の不幸な環境ほど大喜びします。
霊性を鍛える修行だ!
とばかりにです。

宗教組織だと、迫害されればされるほど、大喜びするということもよくあります。
※ブラック企業にも関わる話ですが今はスルーします。

つまり、我々が、陰徳を積んで、開運ハッピー☆という、このブログの主旨と、ずれるわけです。



戦後宗教史


ちょっと話がずれますが、もともと、貧病争の三拍子からの脱出解決は、宗教の基本です。
前々から言っているように、戦後の新興宗教は、主にこの解決がメインでした。

御本尊様の題目パワーで、貧病争から大勝利!
というのが、戦後の新興宗教の基本です。
実際、高度経済成長時代でしたので、別の御本尊様の力でなくても、豊かになってきたので、それらが解決されていきました。

それに応じて、信者数も莫大に増えていきましたが、冷戦が集結するころになると、豊かになってきた国民は、新興宗教に頼る必要性がなくなり、今度は修行やら超能力信仰の新新興宗教にシフトしたのです。

貧病争からの大勝利!
よりも、個人の暇つぶしというか満足感が救済対象となり、超能力やら前世やらの傾向がメインです。

オウムもそうでしたし、スピリチュアル幸とかもそうです。

しかし、今は、経済が悪化し、貧しくなってきました。
戦後のように高度経済成長時代でないので、大勝利も出来なくなり、かつ、超能力やら修行やらやってる暇がなくなってきました。

貧困という意味では、戦後と同じですが、情報化時代になり、大規模な組織が造りにくくなってきています。

例えば、今のネット社会は、人間の過去歴が調べやすいので、世間からのツッコミが教団内部に届いてしまうからです。

例えば、今の時代は、幸福の科学の総裁(エル・カンターレ様)のイタコ芸が、YouTubeで簡単に見られます。

普通の人は、抱腹絶倒のネタ芸人として、楽しめますが、旗から見ると、幸福の科学はイタコ芸宗教にしか見えないわけです。
※実際、イタコ芸宗教なのですが。

しかし、ちょっと前まで、ネットなど無かった時代でしたので、百万単位の大教団を築けたわけです。

創価も統一も、ネット時代でしたならば、これほど勢力を伸ばすことは出来なかったでしょう。

創価はネットがない時代に公明党という政治団体を作れて、与党に食い込めたので、既得権益として今も選挙を通れますが、幸福の科学(オウムも)は選挙に全然勝てません。

公明党だって、ネットがある今に、設立していたら、100%今のように選挙に通れなかったのです。


教義にしても、鎌倉時代の民衆レベルだったら、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を唱えさせて、一大宗教組織を作れたでしょうが、今の高度な教育を受けている国民には通用しないのです。

もっと言えば、新興宗教が百万単位の大組織になれたのは、高度経済成長時代で、神仏の力抜きに、勝手に繁栄していったからです。
それを、ご利益ということにしていたので、今はそれが通用しないということです。

どこの新興宗教も今や、老人ばかりで新規入場者は、二世三世以外、入っていません。

宗教団体は、経済成長しない時代には流行らないのです。



驚きの結果


で、通常の因果応報が霊性アップ法則と、違うのかと言うと、厳密にはややこしいのですが、違うとは言い切れないのです。

なぜなら、霊的な修行の成否として、徳の有無が求められることが多いからです。

わかりやすく言えば、修行をしても、それが達成できるかどうかというのは、やはり徳があるかないかの差ということです。

徳が無いと、修行が達成できないということもよく言われます。

何だかんだ言いながらも、修行や霊性アップということにも、因果応報の法則が適用されているのです。

また、さらに言えば、出家して瞑想している連中もみかけほど不幸では無いというのもあります。

瞑想とか荒行や断食で、神秘体験とかは、宗教の基本で、あらゆる開祖の共通の経験です。

で、現代では、その宗教体験の認識は、脳内麻薬ということでケリが着いています。

要するに、自前の麻薬摂取でハイになっているだけであると。

薬物が精神異常者と紙一重なのと同じように、宗教者も紙一重です。
麻薬を大量摂取していれば、ラリパッパになるのは当然です。

宗教修行者の記録を見ると、現世の快楽よりも遥かに強力な脳内麻薬の快楽の中にいることがわかります。

要するに、インドで大麻吸っているグルと同じです。
阿片窟にいるシナ人と対して変わりはないのです。

仕事をせずに、ニートでヤクにハマっている駄目男と、根は一緒です。

ある意味、因果応報の幸福なカルマの結果と言えます。

社会的な不幸で、地位名誉財産が剥奪されて、出家するというお馴染みの出家パターンも、別に不幸でも何でもなく、リタイアしてヤク漬けの生活で幸福になるのですから、ある意味、幸福なのです。

また、瞑想などをしなくても、宗教者は、基本、神との法悦でいつもラリってますので、これも同様です。

世間の価値観よりも上位だと認識するのも宗教の特質で、ある意味、王様になるよりも、神の預言者になる方が、本人にとって幸福なのです。

幸福という、観点で考えてみると、ある意味、因果応報の法則からは外れていません。

たしかに、善業は幸福へとリンクしています。
その幸福が、外部の物質的に満たされた幸福なのか、脳内の幸福なのかは別として同じことです。

そう考えると、因果応報はやはり、正しいのです。
本人の幸福・不幸という結果について論理的な関係性を定義しているからです。

論理的な関係性は、再現可能性に繋がり、これは、科学法則となります。
因果応報は科学の法則なのです。

つまり、何が言いたいかというと、

因果応報は幸福の科学なのです。










さて、綺麗にオチもついたところで、次回も出家の話を続けます。

2017年10月30日月曜日

今年2017年の三峯神社参拝。










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パワースポットまとめページ

パワースポットの神社仏閣その他のまとめページです。





過去ログの三峯神社の記事はこちら


山からの督促人


今年も、三峯神社の御眷属様の御拝借の更新に行ってきました。

三峯神社の情報に付いては、上にある過去記事のリンクをご参照下さい。

毎年、御眷属様更新のため、三峯神社に参拝しています。

が、本来9月ごろに行く予定が、今年は、一ヶ月もずれて今になってしまったわけです。

はよ行けという催促が、三峯の神仏から無形有形の催促の結果ですが、どうにかこうにか、完了いたしました。

何しろ、本来、一年の更新契約として毎年9月に行っていました。
が、一ヶ月超過です。

しかも、本当は二ヶ月超過する予定でした。
が、

御眷属拝借札へお供物を上げていますが、そのお下がりの御神酒を私が飲む用のワイングラスがあります。

ところが、近くにあった姿見鏡が倒れて、そのワイングラスが粉砕するイベント(催促)があったり、自宅や外出先で、なぜか常に野生の獣の獣臭がしたりと、たぶん、山からの調査用の使者が、督促のため、来訪されていました。

さすが、関東一のパワスポだけはあります。

霊感などゼロの豊河(自称)ですら、ここまでわかりやすい奇跡を実感できるのです。

まあ、稲荷(キツネが眷属)ですら、祠を勝手に移動したり壊したりすると、人を殺せるレベルの力があるのですから、キツネより強い狼なら、当然と言えば、当然ですね。

ちなみに、三峯の御眷属に関する話で、次の心温まるお話があります。
10年単位で毎年、御眷属拝借を更新していた老婆がいました。
で、三峯神社の移動中、御眷属様札をうっかり電車の椅子に落として、上に座っちゃった。
で、次の日に死んだという、美談があります。

あるのか無いのか、良くわからない、神威の他の神社に比較して、本来、神仏はここまでの力がなければ、ご利益は無いのです。
※まあ、過失なのに殺すのはぶっちゃけどうかと思いますが。

とは言え、それでこそ、火防や盗防という、ハードなご利益が基本としてあるわけです。

占いでもそうですが、基本的に、吉よりも凶のが強いのです。
いくら、吉を積み重ねても、凶があれば台無しになります。

これは、どんな成功者でも、同じです。
どんなエリートでも、痴漢冤罪を受けて牢屋に入れば、人生終了する例などがあります。
どんな権力者でも、ナイフで刺されれば死ぬのです。


吉よりも、凶を避ける方が本来重要なのです。




博物館


で、今回、(上記の霊的な)催促もあり、当日は、台風にも関わらず、山奥の三峯神社まで行きました。

が、懸念点だった台風も、全く問題なく、翌朝は、すがすがしい晴れ模様で、拍子抜けでした。

いつものように、一泊して、翌朝、早朝のご祈祷という流れです。

紅葉シーズンのため、三峯は、そうだ京都行こうのJRのCMみたいな感じでした。







で、今回は、時間があったので、三峯神社の博物館にも寄ってきました。

神仏習合時代の仏像とかが、置いてあります。
十一面観音や歓喜天(聖天)、不動明王や、役行者、曼荼羅などです。
元々は、天台宗の寺院でした。
※天台宗のパワスポ記事が続きますね。。。

今でも、博物館の表に出さない、倉庫に入っている魂抜きしていない仏像は、定期的に供養しているようです。

博物館にあるのは、さすがに魂抜きしているとは思いますが、普通に、展示してある仏像で、本来、秘仏である歓喜天の象が厨子を開けて、御開帳しているのには、驚きます。

ちなみに、魂抜きしていない歓喜天は、普通は秘仏として厨子を開けずに専門の僧侶しか開けてはいけない代物です。









というか、普通に見ていいものなのか?
大丈夫なのかこの博物館・・・。

で、さらに博物館では、日本狼という日本では絶滅した存在について、剥製とか色々リアルに再現しています。

で、その剥製とか皮とかあるのですが・・・。

「でかっ!怖っ!」

が見た感想です。

狼は犬の仲間なので、一般的に、豊河含めた、我々日本人は、そこらの犬の大きさを想像しています。

が、想像に反して、シベリアンハスキー並にデカイ剥製とかありますので、普通にビビります。

しかも、人相(狼相)が、また怖っ!

どう見ても、極悪人の人相(狼相)です。

飢えた餓狼の如き(如きも何も普通に狼ですが)、凶悪な目つきをしています。

しかし、餓狼も、こうして猟師に負けて、死してなおも、剥製にされているわけです。

狼が進化的に人間に家畜されたのが、犬と言われています。
いわば家畜になったわけです。

ある意味、三峯の御眷属である狼は、神の家畜になったと言えましょう。

家畜の安寧を得て、虚偽の繁栄を謳歌しても、こうして死せる餓狼の自由を求めて、孤狼は、世界のどこかに存在しているのです。
(ちなみに、狼は群生生物ですので、一匹狼のイメージと異なり、群れて行動します)


 萌えキャラ狼


ちなみに、三峯神社の宿坊(興雲閣)では、あちらこちらに、このように、現代の風潮に媚びた萌え絵の狼をキャラ設定していますが、騙されてはいけません。

博物館で、リアル剥製を見た豊河は騙されないのです。

そもそも、先程、狼は群生生物と書きましたが、神の命令一つで、敵対者を殲滅する、戦闘部隊です。

逆に、そうでなくては、災難(凶)を防ぐことなど出来ないのです。

稲荷や歓喜天(聖天)などのように現世利益が強い神仏はそれなりのリスクがあります。

それはご利益と祟と、紙一重なのです。

聖書でも、ヤハウェやアークは、普通に人を殺しまくっています。
強力な神は、それだけ危険物なのです。

ちなみに、神仏にも役割分担があって、長期的な視野で人生を良くするような神仏は、派手なご利益は起きません。
10年単位で、人生を軌道修正してくれます。

このブログの陰徳とかもその類です。
陰徳とか努力とか勉強とか、短期的な成果は見えなくても、最終的に高い位置まで誘導してくれます。




ニーズ拡大


で、台風はどこへやら、泊りの翌朝、早朝祈願です。

さすが、憑物落としに特化した神社で、お祓いの幣をバッサバッサやる時は、霊感ゼロの豊河(自称)ですら、何か身体から抜けていくのが実感出来ました(というか、何か憑いていたのか?)。


ちなみに、三峯のご祈祷は、なぜか今だに神仏習合っぽい、ご祈祷(祝詞の唱え方がお経っぽい)です。

今回は、ご祈祷中に、面白い発見がありました。

豊河は、神妙に、自分の金運や健康、日本の国土豊穣や世界平和のことを祈念していたのですが、なぜか、勝手に脳が思考回路を動かして、自動的に次の論理を構築していました。


三峯神社は、盗難火難のご利益がメインである。
人によっては、それ以外のご利益は特にはないという意見すらある。

しかし、近年、その神力の働きが拡大した。

厳密に言えば、参拝客が増えて多様化したため、ニーズが拡大した。

火難は、関東大震災や戦争や富士山噴火への保護に拡大。
盗難は、格差社会での正当な賃金を搾取する対策に拡大。

これは、日本の人口増加を担当する、伊弉冉尊(三峯神社の祭神)の担当範囲でもある。


近年、↓過去記事参照。



神国日本復興プロジェクト~少子化対策編~ 1_黄泉の国から愛をこめて


近年、三峯神社がパワスポとして、有名ななったのは、このためもあるでしょう。

要するに、参拝客が増えた理由は、ここらへんが理由なのだと思います。

こういっちゃ何ですが、三峯神社に来る参拝客は関東の居住者が多いわけです。

普通に、関東大震災や富士山噴火が起きたら、真っ先に火に焼かれて死ぬ運命です。

三峯神社の神様から見たら、

「何かこいつら火難の相もしくは火難の運命ばっか来よる・・・なんとかせな・・・」

というような状況なのでしょう。
北や中共から核が飛んできてもやっぱり同じことです。



ちなみに、火難の対処は、慈悲の瞑想の効果にも、同じような功徳(対処)があります。
↓過去記事参照。


【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】立命の学⑧ 今夜はノンストップで朝まで生でダラダラ行かせて



この慈悲の瞑想の、ありがたい功徳は色々とあり、
夜ぐっすり眠れるという快眠効果や、さわやかな目覚めの功徳という微妙な現世利益や、
・火や毒や武器にやられないという、スカラやフバーハのような守備力アップの効果や、
・接触回数やプレゼントや、デートもしないのに、天界の神々の好感度パラメータを勝手に上げて、援助してくれるという、ギャルゲーのチート攻略や召喚魔法のような功徳
・死ぬときに、安楽死出来るという現代人の他人事ではないニーズにあった功徳や、
・顔が綺麗になり高貴(?)になるという安上がりな美容効果や、
・人に好かれるというカリスマ効果や、
・「死後、天界以下には落ちない」という極楽浄土利権の阿弥陀如来の商売敵のような、
ありがたい?功徳が色々と、十一個もあります。
※と、上座部仏教では力説しています。



要するに、慈悲の瞑想のは火難の防護作用があるということです。
要するに、ドラクエで言うフバーハです。



なお、その慈悲の本家に、観音菩薩がいます。
慈悲と言ったら観音菩薩。
観音菩薩と言ったら、慈悲とそのくらいの関係です。

で、観音菩薩には、変化身として、六観音がいます。
六道にそれぞれ対応しているのですが、その中の修羅道担当に、十一面観音がいます。

三峯神社、の神仏習合時代の仏像では、十一面観音を祀っていたことは上述しました。

もっと言えば、イザナギ・イザナミは歓喜天(片方が十一面観音)のオマージュです。

その、十一面観音の功徳にも、同じような内容です。

WIKIの十一面観音の功徳一覧を見てみると、



十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。

十種勝利

・離諸疾病(病気にかからない)
一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
水不能溺(溺死しない)
火不能燒(焼死しない)
不非命中夭(不慮の事故で死なない)

四種功德

臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
不非命終(早死にしない)
從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)



慈悲の瞑想の効果と、ある程度の功徳の共通性があります。

観音菩薩は慈悲を本旨としている仏ですし、十一面観音は特に修羅道を救済するので、慈悲が強調されてます。

三峯神社の仏として、これらの火難対策は、十二分に、担当範囲なのでしょう。
















2017年10月28日土曜日

瀧泉寺(目黒不動)(東京都目黒区下目黒3-20-26) パワースポット(東京)









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今年は酉年のため、不動明王の縁年として、日本中で、不動尊のお祭りが開催されています。

ここの、目黒不動も同様で、28日の縁日を期に、12年に一度の酉年にしか開扉しない秘仏の不動象を公開しています。

ちなみに、前々回、ご紹介した深大寺につづいて秘仏開扉の紹介ですね。
同じ、天台宗ですし。
※このブログは、天台宗のスポンサーでお送りしています。無償で!←ここ重要

で、その貴重な秘仏開扉の期間ですが、
今月10月の22日から29日までです。
つまり、明日までです。明日。(大事なことなので二回いいました)。

ギリギリで紹介するなよという読者様のツッコミもごもっともなのですが、豊河が紹介するのを忘れていました。

東京にお住まいの読者様は明日にでも、ご参拝して下さい。
明日を逃すと、次は12年後です。
まあ、不動尊に縁のある方だったら、問題なく行けるでしょう。
行けなかった人は縁が無いのです。
つまり、豊河は悪くありません。
(縁を言い訳にして責任回避)


で、目黒不動ですが、意外と歴史は古く、関東三大不動に、ランキングしているだけでなく、日本三大不動にすらランキングされています。
※もっとも、このランキングは色々あるので、入ってないこともあるのですが。

高幡不動や成田山新勝寺と同じく、東京にお住まいの方でしたら、不動明王様のご加護を得るために、参拝しておきましょう。

ちなみに、東京のパワスポで紹介した、湯島天満宮、谷中感応寺と共に、元、江戸の三富(宝くじ)です。



あと、今年は、漫画家の永久保貴一氏も協賛しているらしく、原画展などもやっていました。









 


まあ、とりあえず、明日までですので何とか頑張って下さい。
何か、雨降ってそうですが・・・。


















2017年10月26日木曜日

【陰隲録】功過格表160 この輪廻の支配からの逃走 修羅道の闘いからの逃走  十善 いい人を紹介しよう㊲











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十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



逃げ


前回も説いたように、通常の因果応報の吉凶禍福と、霊性の修行の因果応報は、素直に比例しません。

困難であればあるほど、神仏(と信者)は大喜びするというマゾプレイの関係が見られます。

以前から、何回も言っていますが、基本、宗教とは、この辛い現世を緩和するための、SMプレイです。

宗教はアヘンだと喝破したマルクスの言葉は、万古不易の金言です。

信者の私は、私ついていくよ
どんな辛い世界の闇の中でさえ
宗教があれば怖くないのです。

無明の闇の中でも、宗教という精神安定装置があればこそ、人類は今までの無窮の時間を生きてきたのです。

苦痛は、そのままでしたら、苦痛ですが、宗教フィルターをかぶせると、なぜか、信者は苦難だと大喜びします。

聖書は基本、キチガイが大勢出て来るライトノベルですが、旧約よりはまともな新約ですら、読んでいて頭痛の出るような、キチガイが大勢出てきます。

まだ国教になる前の、違法カルトだったキリスト教信者は、ちょくちょくローマの官憲にとっ捕まって鞭打たれたりしますが、みんな大喜びです。

ムチという苦痛すら、殉教フィルターをかけると、大勝利のスパイスになるのです。
ライオンの餌にされても、同様です。

刑死は普通、不徳の極みですが、宗教フィルターをかけると、なぜかご褒美になってしまうのです。

ここでも、通常の因果応報と、霊性修行因果応報は反比例することがわかります。

通常なら、精神が発狂するような状況ですら、ご褒美プレイに変換してしまいます。
(コロシアムで)きっとあなたは輝いて
超える未来の果て
弱さ故に魂こわされぬように殉教精神で大勝利なのです。

宗教道のmy way 重なるよ

神と自分の、いまふたり(同行二人的な意味で)に God bless...

この手の、宗教フィルターは、色々とパターンがあり、基本、この世の苦難を上手く、変換出来るように作られています。

逆を言えば、それだけ、精神安定の需要が、世界にあるということです。

例えば、単に年貢がきついから、一揆起こして、鎮圧されるとただの、反乱ですが、宗教をフィルターかけると、途端に殉教になります。

念仏を唱えながら、不退転の強さを見せた一向一揆や、キリスト教の天草の乱など、単なる反乱が、強靭な宗教反乱にシフトしてしまうのです。

先の大戦でも、日米双方の軍部は、兵士に宗教の祝福をかけています。
考えることは、大体同じなのです。
効率よく、兵士を戦場に参加させるのに、宗教は有効なのです。

死の恐怖も、殺人というタブー破りも、宗教フィルターをかければ成立出来てしまいます。

人間は正義のためならなんでもやるという大前提のパターンの一つとも言えます。

もっと言えば、人間は何からしらのフィルター、理由を与えてやれば、何でもするということでもあります。

当然、これは、人を動かす必要のある職業、つまり為政者にとっては、必要な統治スキルです。

言ってみれば、為政者とは、人の上に立つ人間の条件とは、他人に、「理由」を与えて動かすことの出来る人間ということです。

為政者でなくても、常に資本主義社会での戦場参加を強いられる現代人にとっても有用です。

市場、企業、家庭、恋人・・・。
人間関係の大小に関わらず、他人という人間を御する必要のあるのが、人生です。

開運というテーマのこのブログも、少し横道にずれると、こういう危険な技術の知識が手に入ってしまいます。

開運という枠組みでは、社会上で優位に立てるスキルとしては正しいのでしょうが、問題は、その使い道です。

悲しい話ですが、神仏が大儀のために、大の虫を生かして小の虫を殺すように、現実世界でも同様の法則が成り立ちます。

あらゆる心理誘導テクニックや洗脳やプロパガンダ、ウソや誤魔化しを含めた悪行は、本来はアウトなのですが、これが一度、大義の名分をコスプレすると、神算鬼謀の叡智と讃えられます。

三国志で孔明は、あらゆる卑劣な手を使って、敵国を謀略して陥れ、大量殺人していますが、彼の業績に文句を言う人はいません。

要するに、100万人が助かるのであれば、一万人を殺しても、許される(少なくとも現世的には)のです。

恐らく、このブログを読んでおられる方々は、陰徳という裏技を知ってしまって運命を改善してしまっている人でしょう。

そして、それは、将来に「力」を身につけることと同義です。
権力であったり、地位であったり、智慧であったり、金であったりと色々ですが、何か大きな社会的影響を振る舞える立場にいるということです。

その時の対策としては、せめて、力を振るう時は、大義名分のために使って下さいというのが、豊河のお願いです。

仮に、一億人を殺しても50億人を助けるという大義名分があれば、何とかなります(たぶん)。
私利私欲でやっちゃったら、もうどうしようもないですが、まだ、大義名分があれば、情状酌量の余地はあります。

もちろん、至高の選択肢は、孫子の「戦わずして勝つ(目的を達成する)」ということです。
ぜひ、これを目指して頂きたいのですが、どうしても出来ないというのであれば、最悪、逃げてもいいでしょう。

出家と言う、システムが世の中にはあります。
漢を建国した英雄劉邦や一族は、建国後は、片っ端から、馴染みの部下を粛清しました。

しかし、張良は、さすがに賢人なためか、「仙人修行します」とさっさと、逃げ出しています。

まだ、仏教が来ていない時代ですので、今だったら、出家しますというのと同義語です。

開運を考えると、この逃げるという逃走の選択肢も重要だとわかります。
ドラクエでも「たたかう」の直下に「にげる」という選択肢
があります。
それほど、重要なのです(これがゲーム脳の弊害です)。

家康でも曹操でも、英雄はみんな逃げています。
三十六計逃げるに如かずと兵法も言っています。

逃げることは、人間が猿やもっと下等な哺乳類だったころから、やっています。
逃げるという行動がなかったら、人間は誕生していなかったでしょう。

逃げなかった生物はみんな死んでいます。

もっと言えば、そもそも、釈迦の悟りを開いて解脱というのだって、輪廻転生からの逃走です。

釈迦ですら逃げているのです。
我々が逃げちゃダメだというのは、ありえません。
対使徒用決戦兵器に載っているので無ければ、逃げていいのです。

あの無敵を誇った旧日本軍陸軍ですら、撤退を「転身」という用語で誤魔化して逃げていたのです。

で、次回は、話のついでに、出家の話でもしましょう。



































2017年10月24日火曜日

【陰隲録】功過格表159 苦行僧はつらいよ 十善 いい人を紹介しよう㊱











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ドSプレイ


なんだか、別カテゴリで論じた方がいいのではと思ってきましたが、まあ、乗りかかった船ですので、続けます。

要するに、現世の因果応報は、なぜかすんなり理論通りに行かない。

せっかく、陰徳を積んで聖人君子になっても、必ずろくでもない障害がある。

ここを考えるに、世界全体で何か目的があるのでは?
という目的論の話に繋がります。

つまり、人間は霊的に成長進化していく義務?があり、陰徳を積んで、人生バラ色ハーレムで不労所得生活という怠惰な、人生にはならないということになります。

これは、前回の聖人君子の人生を見れば、わかります。
彼らは、前世で相当な陰徳を積んできたのにも関わらず、壮絶な苦労をしています。

刑死される(イエス)は、就活に失敗しまくる(孔子)わで、失敗の人生です。

これは、一体どういうことでしょうか?

陰徳を積んで、富も名誉もゲットだぜという法則に、外れています。

これは、何かと言うと、神仏が、わざと我々人類を苦難に落としているわけです。

獅子が我が子を千尋の崖に突き落とすかの如くの仕打ちです。

で、その理由が、修行だとかいうわけのわからない理屈です。

別に、霊的進化とか一ミリもしたくないのに、陰徳を積んでいくとなぜか、この話に入っていきます。

もう、霊性とかどうでもいいから、怠惰なハーレム生活でダラダラ不労所得生活を楽しみたいという、人類普遍の夢を叶えさせてくれないのです。

例えば、観音菩薩と言えば、我々日本人の認識では、困った時に助けてくれるありがたい存在として、つまり、観音様として知られています。

しかし、世間の観音信仰の実例を多く見ると、むしろハートマン軍曹並のスパルタコーチなのです。

どうも、観音様から見ると、このハードスパルタは、愛の鞭という認識らしく、一日も早く、苦難を与えることで、衆生を救える器、つまり観音菩薩そのものになって欲しいという親心(仏心?)らしいのです。

この観音菩薩の話もそうですが、どうも、世界そのものに、人間をわざと苦しませて、進化させる、成長させるという、善意(悪意)の意思があるようで、それが、一般に言う幸福・不幸の観点と別次元のカテゴリになります。

以前も、因果応報には二種類あり、一般の世俗(世間法)の因果応報と、霊的な成長(出世間法)の因果応報の二種類あると言う話を何度かしています。

どうも、この理論は正しいようで、現世的に苦しめば苦しむほど霊性には良いという、バラモン教の苦行が大勝利の可能性すら出てきています。

まあ、だからこそ、釈迦は、苦楽の修行の中道を提示しましたし、何より、一切皆苦という、そのままこの世界のシステムそのものをズバリ指摘しています。


ここからさらに敷衍すると、さらにろくでもない説が出てきます。

霊的レベルアップという、名目のもとに、人類に艱難辛苦を与えることが、神仏の仕事なのだというロジックです。

一般のイメージの、困ってる人を助けるという神仏のイメージと逆方向です。

要するに、相当のドSでないと、神仏は務まらないのです。

人間がどんなに苦しんでも、平然と見て見ぬふりをする情け(鉄の意思)が存在しなければいけません。


ここらへんは、聖書を見れば一目瞭然です。

絶対神ヤハウェはとにかく、平然と人を殺します。

近年も、ユダヤ人国家イスラエルを作るという大義名分のために、世界中の同情と支援を集める作戦に出ました。

ナチスのホロコーストです。

何の罪もないユダヤ人がガス室に送られる中、平然と、見捨てています。

もちろん、世界中の金融を支配しているユダヤ人の民族神で、かつ世界宗教の主神なので、ナチス如きは本来、相手にすらならない神力なのですが、あえて、放置したのです。

全体としての利益を得るために、大の虫を生かして小の虫を殺すという為政者に忠実な判断をするのが神仏です。

これは、国連をつくるために大戦争を放置したり、核戦争を防止するために広島長崎を放置したりしたのと同じです。

とにかく、何か大義があれば、全くためらわないのが、神仏の特徴です。

そして、これは個人レベルでも同じです。

そして、それは、神仏から愛されていればいるほど、さらに情け容赦無く実行されます。

地上の栄光から逆行すればするほど、霊性は高まるという理屈です。

本当にろくでもないですね。

しかし、そうは言っても、我々はこの世界に存在しているので、どうにか対応しなければいけません。

次はそのあたりを見ていきましょう。
















2017年10月23日月曜日

【陰隲録】功過格表158 刑務所に入るのがステータスという武勇伝 十善 いい人を紹介しよう㉟











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



三獄死


人生の障害や妨害に対して、どう対応するかの話で、色々なパターンを見てきました。

まあ、パターンとは言っても、基本は陰徳で何とかなります。

しかし、そうは言っても、陰徳は時間軸の後の方で聞くので、今、現実的にある危機には対応出来ません。

そこで様々な対応策を見てきたわけです。

その中でも、見過ごせないのは、教育的指導説、つまり、トラブルや困難や不幸は、霊的成長のためにわざと高次の存在が仕掛けているのでは?という視点です。

この説は、宗教業界ではほぼ基本の説で、洋の東西を問わず、言われています。

逆に、厳しい現実を合理化するには、そういうしか無かったという現実的な観点もあります。

いくら祈っても、現世のろくでもない状況は変わらないからです。

そこで、これは神(仏)の試練であるという話になるわけです。

※権力と結びついた宗教は、為政者の悪政をこのロジックで合理化します。

ちなみに、ここで、試練と言っても教育と言っても同じことです。

人間世界に通過儀礼や試験、訓練期間があるのと同じで、霊的世界でも同様のシステムがあるというのは、人間的には類推しやすい話です。

基本、なぜ世界に悪があるのか?
という、おなじみの神義論も、同様です。

全ては霊的な成長のためと言えば、一応、合理化されます。

そして、以前の記事でも言ったように、ここには、劣ったステージの存在から、優れたステージの存在へと進む、進化論的な観点があります。

これが、実社会に投影されると、インドのカースト制度のような階級社会になるのは、火を見るまでも明らかですが、宗教業界では神を弁護する神義論としては、非常に使い勝手がいいので、未だに使われています。

具体的にどういうものかは、実際に見てみた方が早いので例をいくつかあげると・・・。

例1
神の子(自称)が、絶対神の教えを愚民どもに布教
→なぜか、国家権力の不当な弾圧で極刑に
→全人類の罪を贖うためだった。自分を犠牲にした究極の愛として世界宗教へ。

例2
釈迦に並ぶ聖者(自称)が、最高の経典を愚民どもに布教
→なぜか、国家権力の不当な弾圧で極刑に(なりそうになった)
→経典に予言されていた法難である。

例3
人類屈指の聖人(自称)が、古の礼儀を復興させ、愚民どもに布教
→なぜか、国家権力の不当な弾圧で、結局、失脚。一生不遇。
→弟子たちを育成して後の時代に国教へ。世界宗教レベルに。


ここにあげた例は、非常にレベルが高い(?)、レアな例ですが、大体の教育的指導パターンとしては合っています。

要するに、本来、神仏の預言者(手下)として、非常に徳の高い連中にしては随分と、不徳な目(不幸)にあっているのです。

基本的に因果応報の原則は、善人は報われる、悪人は裁かれるです。
不幸な目に合うのは、ようするに 不徳なのです。

ところが、こうした聖人たちは、大抵、人生ろくな目にあっていません。
それどころか短命で刑死している不徳の極みのような連中も多いのです。

イエスも、韓非子も、マニ(マニ教の開祖)も、吉田松陰も、みんなそうです。
彼らの後の影響力の割には、その一生は、不徳の因果応報の結果としか見えないのです。


せいぜい、最後までリア充だったのは、イスラームの開祖マホメットくらいです。

なぜか、みんな揃って異常に不幸な目にあっています。
彼らは、そんなに不徳な連中だったのでしょうか?

ここに、因果応報のシステムのもう一つの顔があります。

で、次回に続きます。

































2017年10月19日木曜日

【陰隲録】功過格表157 六道という既得権益 十善 いい人を紹介しよう㉞











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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



考える葦


人間は、知性を持った生物ですので、基本的にいらんことを考えます。

哲学だとか宗教だとか、ぶっちゃけ生きていくのに、全く不必要な物を一生懸命考えるのです。

パスカルは人間を考える葦だと述べましたが、とにかく人間は何もしなくてもいつも24時間、脳はフル活動で考えます。

要するに、人間は、森羅万象あらゆることに思考を持たざるを得ません。

結果として、自分自身や人間存在や、世界そのものについても、どうでもいいことをダラダラと昔から考えてきたのです。

その結果、進化上、獣だったころには考えもしなかった、存在論、つまり世界が存在する意味についても考え始めます。

獣だったころは、そんなどうでもいいことは考えません。

世界どころか、この場所は安全か否か?
あの場所は餌があるかどうか?

世界についての思考より、その場その場の状況の意味しか考えません。

場所ではなく、世界という抽象的な意味で考え始めたのが人間の特徴です。

今の唯物科学的な教育を受けている我々は、世界そのものは物質主義的にしか考えないため、特に、世界に意味は持たせません。

なんとなく、この地球、この国に生まれて、資本主義社会、民主主義社会で21世紀に生まれた。
生きる意味は、それぞれ個人が人生経験上、身に付ければいいものであり、教育や宗教で教え込まれるのは、洗脳くらいに考えています。

これは、これで、世界そのものには意味は無いという、ある種の世界観です。
還元主義的な機械論を世界に投影しているのです。

しかし、世の中にはそうは考えない人は結構いて、昔から洋の東西では、色々な意見が出てきました。

その一つが、目的論説です。

世界はある一定の方向へ向かっている。

人間もその範囲内にあり、生まれ変わり死に変りするのは、そのゴールへ向かうためである。

こういう、電波な論です。

現代の、唯物主義の我々の考えからすれば、はぁ?という説なのですが、宗教の大半はこの目的論説です。

そのため、人類の大半は、この説を信じています。




えこひいきする自然


例えば、このブログの眼目である、陰徳思想も、その類です。

要するに、世界のシステムとして、目には見えない法則がある。
その法則は科学的な自然界の法則ではなく、因果応報の善因善果・悪因悪果の法則である。
つまり、道徳的な行動が望ましいと、世界のシステムは定義している。

本来、中性であるはずの唯物論的自然が、なぜか、人間の道徳的価値観を意向した法則になっているのです。

基本、自然界と人間の考えは反比例します。

自然界は基本、全くの唯物論的な中性で善も悪も無いからです。

そこいらに落ちている石や、山や海に、善悪もへったくれもありません。
当たり前です。
自然界の生物に至っては普通に弱肉強食です。
そこに人間の考える善悪はありません。

しかし、この因果思想は、人間の都合で世界のシステムは成り立っていると、定義しているのです。

人間の考える善悪が、世界のシステムであるという思想が、因果応報思想です。

人間本位(悪く言えば人間の都合)の自然界の法則があると考えるのが、この考えなのです。

ある意味、近代以降の自然破壊や、自然を下位に考えるユダヤ・キリスト教の考えよりも、人間中心主義といえるでしょう。


世界の目的



ただ、因果応報思想は、あくまで法則であってゴールではありません。

厳密に言えば、世界のシステムであって、到達ゴールを定義している目的論ではありません。

実際、仏教は、少なくとも上座部仏教だと、因果の流れ(輪廻転生)について別段、目的論的なゴールは定めていません。

他の宗教だと、神になるだの、~を学ぶためだの理由づけして進化論的な方向性をいいますが、仏教だと、輪廻転生というか生存自体が罰ゲームだと考えます。

何処かに向かって進化していくのではなくて、罰ゲームとして生きているだけだから、早く脱出(解脱)したいという考えです。
※まあ、解脱という目的があると言えばありますが。

因果論はただのシステムや法則なのです。
そこに目的性はありません。

しかし、仏教も時代が進み、大乗仏教になってくると、他宗教を導入(堕落とも言える)したのか、目的論的な視点が入るようになってきました。

仏になれる(解脱できる)のに、解脱しないで生命の救済をするという概念が出てきて、生命全てを救うだの、世界を救うだのという一神教っぽい考えが出てきました。

こうなると、今まで、無神論や消滅主義だった仏教も、他宗教に近くなります。

六道輪廻という煉獄の外に、仏の世界を構築して、新しい生物である仏を創ったのです。

我々、日本人が知っている~浄土とかは新しい輪廻転生の世界です。
※実は阿弥陀如来の極楽浄土だけでなく他にもいっぱいあります。

今までは、天人、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の生命のステージしかなく、それを解脱して消滅するはずだったのに、仏の世界という新しい輪廻ステージを創ってしまったのです。

既得権益を叩きながら、新しい利権の権益者になるレントシーカーの新自由主義と、やってることは同じです。

つまり、新自由主義者は仏だった・・・!

こうなると、実質的に他の宗教と対して差は無くなります。
一神教のように、死後は天国か地獄か永遠とかと同じで、永遠の生命を肯定するからです。

本来、同じところをぐるぐる廻るだけの不毛な輪廻転生も、上のステージを目指して、修行して頑張るという、階級制度です。

当然、下のステージよりも、上のステージの方がエライのです。

この問題はカースト制度のように、差別思想を生み、現世の階級とリンクすると、社会的不公平を容認する思想になるのですが、とりあえずそのテーマは置いておいて、この話は、要するに、人間の霊的な修行とレベルアップの話になるわけです。

目的論的な世界観は、結局、目的に近いほど、正しく、エライのです。

RPGや異世界転生と同じく、人間に(霊的な意味での)レベル制度が採用されているのです。

で、これが因果応報、陰徳とどうからむのか?

教育的指導の話とからみます。

次回に続く。











































2017年10月16日月曜日

【陰隲録】功過格表156 言の葉さらさらオーバーキル 十善 いい人を紹介しよう㉝












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因果応報


陰徳というか因果応報を考えていくと、どうしても不可解な事象に遭遇します。

それは、陰徳と応報の関係です。

もっと言えば、陰徳を積んでいるのに、徳の高い存在が、報われていないという問題です。

正義は勝つというスローガンは、プロパガンダですが、実際に、陰徳があるのなら、正義は勝っても良さそうなものです。

しかし、実際には、憎まれっ子世にはばかるのが、世界の実相です。

元々、因果応報や宗教全般は、信賞必罰を正当化、合理化するために生まれた概念です。

人類と言う種が考え出した、この発明品は、現世の不合理を説明するために生まれたのです。

だから、公正なる天や神は、善には福を持って対し、悪には災を持って対するというイデオロギーでもあります。

これによれば、因果応報はキッチリ、やったことと報いがそのまま帰ってくる物理的な代物です。

天に唾すれば自分に返ってきます。

地球は丸いので外部に投げた事や念は、地球を一周して自分に帰ってくるのです。

しかし、実例を見ると、どうもこれがキッチリ行われていません。

例えば、「因果応報」でググると、特に掲示板の家庭や女性同士の地獄のような発言が多くヒットします。

大体、昔、ブイブイ言わせていて、弱者を見下していた人間が10年単位で、没落しているという例です。

例えば、その中で例として、
出っ歯を馬鹿にしていた女性が、自分や子供が因果応報を受けたりとかの例の話があります。

因果応報見下し系の例ですが、まあ、横暴な権力者の失墜を喜ぶのは庶民のサガですので、創作である可能性もありますが、一応、サンプルとして例にとります。

この例は、単純に、
他人の口腔を馬鹿にしていた(因)
→自分と子供が口腔に関する被害や障害にあった(果)
という例です。

他にも、美人や金持ちであることを鼻にかけ、他人を見下していた女性が、大人になって失墜した例などもよく上げられます。

これも、上記の因果のパターンと同じです。

しかし、冷静に考えてみると、因果応報とは言え、これは変な話です。




不都合な真実




人を見下していた悪の因果は、当然、人に見下されることです。

今は繁栄していても、いつか没落した時に、人から見下される因果が発生しているのです。

しかし、上記のような例の時は、因果応報として、他人を見下したから、見下されるような状況になったという、因果応報の印象になりがちです。

しかし、これはやはり変な話なのです。

あくまで、人を見下していた因果は、人に見下されることなのです。

見下されるような地位の没落は、関係の無い話です。
別の因果の話です。

因果応報の等価交換の原則に合いません。

物理学と同じで、ある一定の力の作用を与えたら等分の力の反作用が無ければいけません。

人を見下したから、人に見下される立場に失脚するのは、明らかにオーバーキルです。

没落することと、見下されることは別物です。

当然、因果として、見下したこととは別に、他人を没落させたという別の因果が必要です。

具的的に言えば、人様にハゲと罵った悪業をAとしましょう。
そして、人様を禿げさせた悪業(どうやって?)をBとしましょう。

当たり前ですが、この因果は別物です。


ある人、Xさんが、人様にハゲと罵る悪業Aをやったとします。

ここで重要なのは、Xさんは別に、悪業はAしかやっていないことです。
人様を禿げさせた悪業Bはやっていません。

そうして、10年後に、なぜかXさんがハゲになって、ハゲと罵られるはめになったとします。

上記の因果応報系でよくある話です。




しかし、ここで?となるのは、あくまでXさんは、人を罵る悪業Aしかやっていません。

しかし、ハゲになる悪業Bの因果の結果をも受けています。

これは、一体どういうことでしょうか?




不等価交換論


Xさんは、ハゲを罵る悪業Aしかやっていないに関わらず、なぜ、Aだけでなく、禿になる悪業応報のBを受けたのか?

他にも、貧乏人を馬鹿にした人が今生で貧困になっていたり、庶民を馬鹿にしていた知識人や僧侶が、今生で学歴コンプレックスになったりと、色々と、見下し系の因果応報には、等価交換の原則から外れた例が多いのです。


この変な事象を解析するに、幾つかの推測が成り立ちます。


①ただの偶然

経験主義者ヒュームの弁を待つまでもなく、我々人間は、複数の別個の事象を、勝手にリンクする思考回路があります。

要するに、そもそも因果論などは、人間が勝手に考えた虚妄なのです。

しかし、こうすると、陰徳という開運が効果が無いという悲しい現実が待っています。

とりあえず、因果論は正しいという仮定の上で、論を進めていきます。



②因果応報は、利子性がある


陰徳による果報でも、逆の悪業による禍でも、そのまま作用反作用の等価交換では無いという、考えです。

つまり、貧乏人を見下して、高笑いする悪業は、来世で(今生中でも)、時間軸の進みと共に、利子が加算されるということです。

本来なら、貧乏になった時に高笑いされる程度だったカルマが、時間の関係で利子が溜まり、やがて貧乏になるような強大なカルマになってしまったということです。

今まで陰徳で見てきた限りでは、命運レベルの改善は10年単位でかかります。

表面的な問題の解決は数年以内の陰徳で十分なのですが、それは表面を押さえているだけで、根本的な生まれついての命運改善は、やはりそのくらいかかるのです。

これは、逆を言えば、10年単位の利子は、見下し笑いするくらいのカルマでも、十分、強力なカルマになるということでもあります。

大抵の、見下し因果応報の体験談では、若い頃の学生時代とか20代とかの見下し系が、大人になると、逆の立場になるという話が多いのです。

この因果応報利子説も、結構可能性があります。
例えば、人の命を助けたりすると、その子孫が鼠算的に、増えて行って、膨大な人数を助けたことになります。

以前も、三蔵法師は別に大して凄くなくても(何様だ?)、彼の膨大な漢訳経典を輸入翻訳した功徳は半端ないよね?
という、話をしました。

↓その話

【陰徳社会論】日本人はなぜ寄付しないのか?③



要するに、憎しみの連鎖と一緒で、逆の良いカルマも連鎖して膨れ上がるのでしょう。
人間は、さっきも言ったようにネズミ算的に増えるので、尚更です。

これは、陰徳を志す我々にとっても、重要な示唆です。
軽い陰徳やその逆の悪行でも、放置しておけば膨れ上がるのです。

人間は何も意識しないと、まず下に向かう生き物ですので、気をつけないと業の負債で、下に転がり落ちます。




③教育指導説


まあ、単純に考えて、見下し高笑いするような人は陰徳とかに興味ないでしょうから、マイナスの禍ポイントを積んでく一方なのでしょう。

で、10年位して命運が改悪されて、失脚すると。

要するに、見下し笑いの悪業が、別に利子がつかなくても説明は可能です。
別の因果が無いとはいい切れないからです。

見下し笑い以外の失脚する業も前世にあって、それが今世で出てきたのかもしれないのです。

人間は業のパラメータデータを見ることは出来ません。
どのくらい業があるのか?
陰徳や悪業がどのくらい溜まっているかは、現世の自分の実行した記録(これが功過格です)でしか見れないのです。

もっと言えば、どんな業があるかは、実際に受けてみないとわかりません。
因果応報として、現世にイベントとして起きないとわからないのです。

起きたイベントから逆算するしか無いのです。

例えば、人から盗まれたのなら、過去世で盗んだのだろうという推測です。

※これが、悪や悪政を容認してしまうイデオロギーになりかねない危険性なのは、いつもの通りです。

しかし、この帳尻があうという話もまた微妙なところです。

なぜなら、タイミングが良すぎるからです。

若い頃、ハゲを馬鹿にしていた人が、大人になってハゲになって馬鹿にされる。

これは、今世でハゲを馬鹿にしたというカルマと、過去世で、相手をハゲにしたという悪行のカルマという別々のカルマが、タイミングよく今世でまるで連鎖した因果応報のように、起きているからです。

まるで、何らかの人為的な存在が、因果応報という道徳訓を人間に教えるかのように、タイミングよく発生しています。



そして、前回に繋がる


この手の、因果の等価交換を無視した事象は、かなり多く、何らかの悪行を諫止するために、明らかにオーバーキルでかつ因果的な不幸が起こり、結果として、その悪行や心根が直るという話はよくあります。

一般に、この手の話は、宗教とからむことが多いのです。

あまりにわかりやすいタイミングなために、神仏のありがたいお指図だと、論理的な説明がつけられます。

つまり、ただのやったことが返ってくる、作用・反作用ではなく、人為的な意図的な吉凶禍福の因果応報のシステムがあるということです。

ここで、ようやく前回の話とリンクするのですが、
これが、世界のシステムにおける教育指導説です。

人間社会が、参加メンバーを、社会人になるために矯正するのと同じで、何らかの目的に沿ったシステムがあるのではないか?

個人レベルのみならず、世界観に、目的論の視点を持ち込むと、そのような説になります。

要するに、世界には何らかの目的の方向がある。
神の意思でも宇宙の意思でもいいですが、ある一定のレベル段階の意識があり、人間は進化していると。

まあ、これらの目的の方向は、言っている人は、大抵、宗教系なので、基準は道徳レベルで、愛の強さだとか、自我を捨てろだとか、全てを受け入れろだとか、学びなさいだとか、耳障りのいいことが大半です。

基本、西洋人は一神教なので、一直線の進化する時間軸を持っています。

ユダヤ人のルサンチマンから発生した認識でしょうが、いつか悪(自分たち以外)は滅び、善(自分たち)は大勝利するという発想です。

ヘーゲルの歴史的弁証法だとか、進化論だとか、マルクスの共産主義史観とかも、全部同じです。

時間軸の未来に向かって、どんどん良くなっていくという進歩主義です。

この世界観の違いは洋の東西があり、例えば仏教なら六道輪回は、下の地獄から、上の天界まで一見、進歩主義に見えますが、結局、天界もゴールではなくて、業が尽きたらまた下に戻ってしまいます。

ラットレースの例えを豊河はよく使いますが、ぐるぐる回って進歩なんかしないという世界観が、この仏教的世界観です。

春夏秋冬がぐるぐる巡っているように、別に同じことの繰り返しだと見るのです。

それでも、螺旋状に進化はしているというのが、進歩主義の世界観なのですが、とにかく、何らかの上昇方向へ、世界は進歩しているという世界観が存在します。

あまり我々、日本人は意識することは無いですが、輪廻転生などが、インド経由で欧米から逆輸入してきたスピリチュアリズムの業界では、この手の話は常識レベルです。

個人の運命や輪廻転生も、この世界観に合わせて、何かしらの意味があって、目的論的にシステムがあるという主張なのです。

で、長々とダラダラと、回りくどい話をしてきましたが、要するに、人生の障害について、何でこんな障害が起きているかとか、どうすれば解決出来るのかということについて、この目的論的な世界観を応用してみようということです。

では、次回は、具体的にそこらへんを考えてみましょう。