2017年10月19日木曜日

【陰隲録】功過格表157 六道という既得権益 十善 いい人を紹介しよう㉞











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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



考える葦


人間は、知性を持った生物ですので、基本的にいらんことを考えます。

哲学だとか宗教だとか、ぶっちゃけ生きていくのに、全く不必要な物を一生懸命考えるのです。

パスカルは人間を考える葦だと述べましたが、とにかく人間は何もしなくてもいつも24時間、脳はフル活動で考えます。

要するに、人間は、森羅万象あらゆることに思考を持たざるを得ません。

結果として、自分自身や人間存在や、世界そのものについても、どうでもいいことをダラダラと昔から考えてきたのです。

その結果、進化上、獣だったころには考えもしなかった、存在論、つまり世界が存在する意味についても考え始めます。

獣だったころは、そんなどうでもいいことは考えません。

世界どころか、この場所は安全か否か?
あの場所は餌があるかどうか?

世界についての思考より、その場その場の状況の意味しか考えません。

場所ではなく、世界という抽象的な意味で考え始めたのが人間の特徴です。

今の唯物科学的な教育を受けている我々は、世界そのものは物質主義的にしか考えないため、特に、世界に意味は持たせません。

なんとなく、この地球、この国に生まれて、資本主義社会、民主主義社会で21世紀に生まれた。
生きる意味は、それぞれ個人が人生経験上、身に付ければいいものであり、教育や宗教で教え込まれるのは、洗脳くらいに考えています。

これは、これで、世界そのものには意味は無いという、ある種の世界観です。
還元主義的な機械論を世界に投影しているのです。

しかし、世の中にはそうは考えない人は結構いて、昔から洋の東西では、色々な意見が出てきました。

その一つが、目的論説です。

世界はある一定の方向へ向かっている。

人間もその範囲内にあり、生まれ変わり死に変りするのは、そのゴールへ向かうためである。

こういう、電波な論です。

現代の、唯物主義の我々の考えからすれば、はぁ?という説なのですが、宗教の大半はこの目的論説です。

そのため、人類の大半は、この説を信じています。




えこひいきする自然


例えば、このブログの眼目である、陰徳思想も、その類です。

要するに、世界のシステムとして、目には見えない法則がある。
その法則は科学的な自然界の法則ではなく、因果応報の善因善果・悪因悪果の法則である。
つまり、道徳的な行動が望ましいと、世界のシステムは定義している。

本来、中性であるはずの唯物論的自然が、なぜか、人間の道徳的価値観を意向した法則になっているのです。

基本、自然界と人間の考えは反比例します。

自然界は基本、全くの唯物論的な中性で善も悪も無いからです。

そこいらに落ちている石や、山や海に、善悪もへったくれもありません。
当たり前です。
自然界の生物に至っては普通に弱肉強食です。
そこに人間の考える善悪はありません。

しかし、この因果思想は、人間の都合で世界のシステムは成り立っていると、定義しているのです。

人間の考える善悪が、世界のシステムであるという思想が、因果応報思想です。

人間本位(悪く言えば人間の都合)の自然界の法則があると考えるのが、この考えなのです。

ある意味、近代以降の自然破壊や、自然を下位に考えるユダヤ・キリスト教の考えよりも、人間中心主義といえるでしょう。


世界の目的



ただ、因果応報思想は、あくまで法則であってゴールではありません。

厳密に言えば、世界のシステムであって、到達ゴールを定義している目的論ではありません。

実際、仏教は、少なくとも上座部仏教だと、因果の流れ(輪廻転生)について別段、目的論的なゴールは定めていません。

他の宗教だと、神になるだの、~を学ぶためだの理由づけして進化論的な方向性をいいますが、仏教だと、輪廻転生というか生存自体が罰ゲームだと考えます。

何処かに向かって進化していくのではなくて、罰ゲームとして生きているだけだから、早く脱出(解脱)したいという考えです。
※まあ、解脱という目的があると言えばありますが。

因果論はただのシステムや法則なのです。
そこに目的性はありません。

しかし、仏教も時代が進み、大乗仏教になってくると、他宗教を導入(堕落とも言える)したのか、目的論的な視点が入るようになってきました。

仏になれる(解脱できる)のに、解脱しないで生命の救済をするという概念が出てきて、生命全てを救うだの、世界を救うだのという一神教っぽい考えが出てきました。

こうなると、今まで、無神論や消滅主義だった仏教も、他宗教に近くなります。

六道輪廻という煉獄の外に、仏の世界を構築して、新しい生物である仏を創ったのです。

我々、日本人が知っている~浄土とかは新しい輪廻転生の世界です。
※実は阿弥陀如来の極楽浄土だけでなく他にもいっぱいあります。

今までは、天人、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の生命のステージしかなく、それを解脱して消滅するはずだったのに、仏の世界という新しい輪廻ステージを創ってしまったのです。

既得権益を叩きながら、新しい利権の権益者になるレントシーカーの新自由主義と、やってることは同じです。

つまり、新自由主義者は仏だった・・・!

こうなると、実質的に他の宗教と対して差は無くなります。
一神教のように、死後は天国か地獄か永遠とかと同じで、永遠の生命を肯定するからです。

本来、同じところをぐるぐる廻るだけの不毛な輪廻転生も、上のステージを目指して、修行して頑張るという、階級制度です。

当然、下のステージよりも、上のステージの方がエライのです。

この問題はカースト制度のように、差別思想を生み、現世の階級とリンクすると、社会的不公平を容認する思想になるのですが、とりあえずそのテーマは置いておいて、この話は、要するに、人間の霊的な修行とレベルアップの話になるわけです。

目的論的な世界観は、結局、目的に近いほど、正しく、エライのです。

RPGや異世界転生と同じく、人間に(霊的な意味での)レベル制度が採用されているのです。

で、これが因果応報、陰徳とどうからむのか?

教育的指導の話とからみます。

次回に続く。











































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