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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
東京の水天宮は、天之御中主と集合した仏教の水天と関連があります。
神仏習合時代やその後の、神仏分離令で、名前だけが残っています。
水天は今でこそ、仏教では、天部の一人として、水回りの役目くらいの位置付けですが、水の神だけあって相当古い神であり、インドでは主宰神レベルだった時代もあります。
万物の大元は水というイメージは世界各地にありますが、インド神話でもその例に漏れず、水天(ヴァルナ)が、主宰神だったこともあるのです。
その後、時代によってすっかり零落してしまいましたが、それでも神(天部)としての座を持ち続けています。
※余談ですが、上記内容を書いている時まで、豊河が単にすっかり忘れていたので、追記しますが、このヴァルナさん。
零落どころか、引越し先をインドから中東のゾロアスター教にして、最高神のアフラ・マズダーになっています。
未だに主宰神様でした。
しかし、水が無かったら人間や生命は生きて行けず、この地球上の大部分は水で出来ています。
生命の源であり、海である水は人間の根源的な生命のプールです。
大地母神のカテゴリにあるため、人間の深層意識の奥底に今でも存在している存在です。
この水天宮では、主祭神は集合した天之御中主であり、それでも、三貴子よりは古い根源的な神です。
皇祖の天照大神よりも古い神なのです。
記紀で、宇宙で一番初めに生まれでた神とも言えます。
今では、安産の神として祀られてますが、それでも、出産というのは、人間にとって生命誕生であり、人生の誕生であり、意識のはじめでもあります。
水や天之御中主という宇宙の根源のイメージとして、近接領域でもあります。
ゼロから始める様々なことも、ご利益があると思います。
ちなみに、新装開店して間もないので、建物が都会の中にあり、スタイリッシュです。
受付のビルを始め、都会の中のスタイリッシュ神社としても、行ってみる価値があります。
伝統と近代の融合と言うかなんというか・・・。
本殿よりも存在感のある弁財天の摂社。
もしかして中心はこちらかも知れません。
弁財天は、水の神のスターですし。
追記ちなみに、昨日この記事をアップしたところ、今日、なぜか水天宮駅周辺の仕事の話が、何の前触れも無く、豊河に連絡が入ってきました。
マリア様ならぬ水天様が見てる。略してすいみて。
神の実在を感じた瞬間です。
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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
日本の三大聖天の一つです。
聖天(歓喜天)は、現世利益のトップクラスの有名天部で、関西では、財界人がこぞって信仰しています。
歴史上の有名人物も結構な聖天の信仰者が多いのです。
聖天信仰についての詳しい話は↓を参照。
大聖歓喜天様(聖天様)ご利益まとめサイト
近くにある浅草寺の関連寺で、天台宗系(正確には浅草寺は独立)の寺社です。
本尊は聖天ですが、十一面観音も同様です。
十一面観音は、立場上、聖天の上司に当たります。
もし、聖天信仰をするときは、必ず十一面観音もセットで拝みましょう。
これは、現世利益だけ追求すると駄目ですよということでもあります。
このブログでもさんざん言っていますが、陰徳が大事ですので、儲かったら、ちゃんと陰徳として世間に還元しなければいけません。
要するに、観音の慈悲が大事だと言うことです。
もっと言えば、観音は、般若心経でも観自在菩薩として「空」の教理を把握している存在です。
世間的な栄耀栄華や金が、空であり執着を脱することの重要性も示唆しています。
まあ、とりあえずは、聖天様に、現世利益を頼んでみましょう。
ここは、聖天信仰のメッカであり、どこのパワスポマップでも、パワースポットであることはみんな太鼓判を押しています。
あと、浅草七福神の毘沙門天の寺社でもあります。
聖天と毘沙門天はなぜかセットになることが多く、信者も縁がリンクしている話をよく聞きます。
たぶん、毘沙門天の真面目さと聖天の自由さが陰陽のセットになってバランスをとろうとしているのでしょう。
本堂は、中にも上がれる状態です。
そこで拝めるようになっています。
経典の貸出しなどもやっているので、色々と拝むのに便利なシステムです。
浴油祈祷も七日間3500円で、受け付けているので、参拝したら頼んでみましょう。
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なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
記事下のコメント欄や、メッセージやメールで、お気軽にどうぞ。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
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観音経
前回の続きです。
お経を読むという行為に何の意味があるのか?
呪文信仰ではないか?
という、ツッコミの話の続きです。
例えば、観音経というお経があります。
法華経の一部で、これだけ単独で成立していると言っても過言でない経典です。
※もともと、別のお経だったという説もあります。
観音経でググってみると、すぐに全文が出てきますが、
「念彼観音力」とループするので、聞いたことのある人も多いでしょう。
般若心経と並んで、長さ的に丁度いいため、般若心経の上位互換版みたいな形でよく使われます。
中身は、観音菩薩のありがたい功徳の羅列です。
観音力とは要するに、観音の力です(そのまま)。
観音菩薩のマッスルパワーを信ぜよ!
正義とは力なり。
力なき正義は無能なり
を地で行くお経です。
いろんな危機一髪の状況で、観音菩薩に助けを求めると、救われるという内容です。
※どんなもんかは、観音経で、ググッてみると、現代語訳付きでいくらでも出てきます。
で、この観音経を唱えて、呪文効果でどうにかなるのでしょうか?
意味なんてあるのか?
当然、現代人ならそう考えますが、
これは、前回も言ったように、
結局、お経を読むことで、お経の中身をインストールして、最終的に、仏になるということを目的としているのです。
ここに書かれている、観音力というのは、要するに、我々人間が、このように善行を重ねなさいということなのです。
要するにこの陰隲録の功過格表と同じです。
善行一覧リストなのです。
観音経の霊験が効く効かないは、結局、ただ読んでるよりも、その中身を実践しているかどうかが、一番重要です。
どういうことかと言うと、類は仲間を呼ぶという諺通り、観音菩薩も、自分の同類を助けるのです。
※たぶん、霊的に、自分と波長が合わないと助けにくいのでしょう。
観音菩薩のような行動をしている人を観音は同類とみなして助けるのです。
誓願
お経の読み方としては、まず単純に、ただ声に出して読んでるだけでも、普通に効果があります。
音霊的に、そういう効果があるように作られているからです。
さらに、百年単位で、音読されてきた見えない信仰のネットワークがあるため、お経そのものに霊力があります。
これは、賛美歌でも真言でもコーランでも全部同じです。
人類の歴史がつまっているので、霊的な仮想空間にストックされているのです。
この地球上に見えないサーバとして、エネルギーが充満しているのです。
しかし、さらに一歩すすめると、意味的な物も重要になります。
まずファーストステップに、観音経に載っている観音菩薩の功徳(念彼観音力)を認識します。
これで、唱えている人間の心と、観音菩薩が繋がります。
気功的に言うと、この状態で、体の気が、観音菩薩の気で満ちています。
で、観音菩薩は衆生救済の誓願を持って、行動している仏です。
観音経に載っているこれらの功徳は、観音菩薩の願いなのですです。
観音を信仰することで助けてくれますが、特に、自分も観音の願いに準じて人助けをすると、助けてくれるのです。
仏を信仰して救いを求めるのは、初期の段階です。
次の段階では、自分が仏になって他を助けるのです。
これが、本当の即身成仏です。
変☆身
もっと言えば、衆生救済という概念が、観音菩薩だと言えます。
そのために、あらゆる手を尽くします。
手段をおよそ問いません。
観音は変化身を使います。
どんなものにも変身出来るのです。
衆生を救うために、あらゆる姿に変身できます。
十一面観音などがいい例でしょう。
文字通り、フェイスが複数あるのです。
要するに、ルパン三世みたいなものです。
しかも、変身ヒーローならぬ、変身魔法少女でもあります。
歓喜天(聖天)は双神の仏像ですが、片方が十一面観音です。
無頼者の聖天相手に、美女の象頭人体の姿になって、聖天を仏道に勧誘した姿です。
(要するに仏教からヒンドゥー教へのハニートラップです)
軍人にも、国王にも、娼婦にも、教師にも、相手が必要な姿で変身します。
そしてその手法も千手観音のようにあらゆる手を使います。
手段を問いません。
そのため、神仏習合時代には、観音、特に十一面観音菩薩が、神道の神の総本地と呼ばれていました。
要するに日本の神様は、十一面観音菩薩が姿を変えて出てきた権現(仮の姿)であるということです。
衆生救済の誓願のために、手段を問わないのが観音様です。
お前が以下略
何か、観音菩薩のステマ記事みたいになってますが、要するに、お経というのはそういうものなのです。
ただ単に読んでるだけではなくて、こうしなさいよというマニュアル本なのです。
当たり前ですが、仏教は仏になるための自己啓発です。
お経は、釈迦という(六道)ライフハッカーの、自己啓発本なのです。
ちなみに観音に限りません。
他の仏も同じです。
例えば、この陰徳ブログでもよく出て来る毘沙門天という尊格がいます。
毘沙門天は、武神なので、戦国時代の武将に良く信仰されてました。
古くは、聖徳太子が物部氏との戦争で加護を祈念して大勝利してから、楠木正成や上杉謙信なども毘沙門天を信仰していました。
彼らは、信仰している毘沙門天のように武神と言われて実績上げましたが、なぜ彼らが毘沙門天の加護を得ることが出来たかというと、簡単で、毘沙門天のように生きたからです。
仁義なし抗争が普通の戦国時代で、正義を重んじた彼らの生き様をしていたからこそ、毘沙門天の加護を得たのです。
そういうものなのです。
神様仏様助けて!
というのは初歩の段階なのです。
その後は、自分が神様仏様になるのです。
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漢文
皆さんは、お経や真言や祝詞や賛美歌と言ったものをご存知かと思います。
ありがたい功徳があると信じられているため、世界中の善男善女が、この瞬間にも、熱心に唱えています。
しかし、そもそも、このお経(その他も)とは、何でしょうか?
お経は、当然のことながら、釈迦の説法です。
聖書も神の言葉やイエスの言動録なのと一緒です。
釈迦は、別に、お経を唱えるような呪文信仰を勧めていないので、お経の本来の目的は、釈迦の教えの記録媒体を読んで、釈迦の教えを知ることです。
この、キリスト教なら、賛美歌はイエスを讃えたものですが、当然、賛美歌ばかり歌ってるのは論外で、聖書を読んで、イエスの教えに従うように教義が出来ています。
まあ、中世には、活版印刷が普及する前は、カトリックが、ラテン語しか聖書が無いのを良いことに、勝手な教義を作っていましたが、要するに聖書が、現代語訳で普及することによって、初めてイエスの教えを、民衆が読みことが出来たのです。
その意味で言うと、未だにお経が漢文であることは、ラテン語聖書の中世キリスト教と、まだ日本の仏教は同レベルと言えるでしょう。
意味
さて、そうは言っても、この呪文信仰のお経やら真言やら祝詞やら賛美歌は、実は、こうした唯物的な考えとは別に、効果はあります。
インドのマントラから始まる呪文信仰は、音の響きや発声による腹式呼吸などで、人体に好影響を与えるのです。
また、ありがたい呪文として、霊的に浄化されるのかも知れません。
少なくとも、やらないよりは遥かに良いのです。
しかし、やはり、さらに一歩進むと、単純な呪文信仰よりも一歩進んだ世界があります。
呪文信仰の大家の密教でも、三密と言って、口で真言を意味もなく述べるだけではなく、印とイメージを伴います。
何をやるかと言うと、要するにただ漫然と、真言を唱えるだけでなく、イメージで仏と一体化するのです。
ぷち召喚魔法といえましょう。
もちろん、召喚するのは、仏というまともな精神体です。
ここに、お経や真言や祝詞や賛美歌が功徳の有る無しを決定します。
これらを唱えるのは、ただ単に呪文効果だけではありません。
※単なる呪文効果もそれなりにはありますが。
大切なのは意味の方です。
唱えることで、唱えた人間の意識が、変わることが一番重要です。
インストール
人間は、環境の産物であり、社会的に著しく影響されます。
皆様は、大半が、唯物論者か、神道か仏教でしょう。
せいぜい、大穴でキリスト教か、新興宗教です。
当たり前ですが、まずイスラム教徒はいないでしょう。
なぜか?
このブログは日本語で書かれていて、読んでいる人も、日本人だからです。
少なくとも、日本に在住している人たちです。
だから、上記の宗派の信仰をしている人間なのです。
これらは、生まれた時の環境、つまり、莫大な外部からの情報の結果、今の信仰の形態になっています。
要するに、人間は外部からの情報によって、信仰まで決定させられてしまうのです。
お経を唱えるというのは、これを更に後天的にやってしまうというシステムです。
そこに書かれてあることを自分にインストールすることで、自己洗脳するという儀式なのです。
では、具体的にどういうことでしょうか?
次回は、サンプルとして、観音経を例にとってみましょう。
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ONOFF
この時間と空間が無い空の世界は、外部の実在性に疑問がつきます。
本当に、外部にその世界があるのか、もしくは人間の認識内での、もっと言えば、脳の誤作動かは不明なのです。
要するに、世界そのものに、時間と空間があるのか?
あるいは、人間の脳内の認識フィルターにあるだけなのかは、わからないということです。
人間の脳には、時間と空間を認識する領域があり、そこが機能しているからこそ、時間と空間を認識することが出来ます。
そこが機能しなくなれば、時間と空間は認識しなくなります。
瞑想は、ソフト的に脳内の機能にアクセスする行為です。
脳という機器に対して、ハード(物理)的に、時間と空間の機能を担当する箇所をいじる行為に比較して、ソフト的にログインして操作する行為です。
専門的に言うと、telnetのCUIやGUI形式で、操作することです。
瞑想下で、時間と空間の脳の機能をOFFにしたら、内的な認識としては、時間と空間を認識しなくなります。
唯心論
我々は、カントの言っているとおり、世界そのものを、時間と空間のフィルターで見ているわけです。
そのため、時間と空間を通してしか、世界を見ることは出来ません。
そのため、世界そのもの、人間の主観を排した真に世界そのものを見ることは出来ない、という結論です。
もしかしたら、世界は、時間と空間より上の次元で成り立っていて、人間がそれを認識出来ないだけという可能性もありますし、逆に、時間と空間しかない可能性もあります。
そこらへんは、どうしても、人間には不可知論の領域です。
人間のフィルターを外した、真の実在の世界というのは、人間には見えないからです。
可視光線や可聴領域と言った五感の世界ですら、制限された世界なのです。
そうしたことを考えてみると、唯心論のように、世界は人間の認識が構築しているという説もあながち間違いではありません。
陰徳的な因果応報で考えると、少なくとも、本人の業によって今の自分の世界は構築されています。
天国なのか地獄なのかは、業次第なのです。
空の智慧
時間と空間でしか世界を把握出来ない人間としては、それ以外の構成要素で構築されている世界は認識不可能です。
時間と空間以外の、世界と言うのは想像もつかないからです。
※可能な人は豊河に教えてください。
ただし、少なくとも、人間が認識している世界の範囲で、あらゆる苦しみや問題が、時間と空間の中に存在していことは事実です。
瞑想という無意識へのコンソール接続で、時間と空間を無効化にする空の智慧(時空間魔法)が、今のところ、有効な手段です。
この空の智慧は大乗仏教の概念であり、解脱を重んじる小乗仏教(上座部仏教)とは違うのですが、日本人ならば、覚えておいた方がいい概念でしょう。
まあ、そのうち般若心経コンテンツで詳しくやりましょう。
※いつになることやら・・・。
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時空間魔法
脳筋ワールドの、続きです。
この言語が通用しない世界というのは、
もっと具体的に言えば、
「時間と空間が存在しない」世界
です。
時空間魔法の世界なのです。
時間と空間というのは、我々の認識の大元のインフラです。
カントが認識論で、人間の色眼鏡のフィルターは、時間と空間だと喝破しました。
我々は、どうしても認識に時間と空間の機能がデフォルトで搭載されているため、それを通してしか世界は見えないのです。
カントの認識論は、要するに世界をそのまま見ることは出来ないという意味があります。
まあ、ここをもっと深く突っ込むと、世界の実相、「物自体」がどうなっているかは、また別のテーマとしてやりましょう。
しかし、ここで言っているのは、我々は、通常の世界、言語の世界では、時間と空間の認識の中でのみ語っているのです。
逆に言えば、時間と空間がなければ、我々の言語は通用しないのです。
空間が無いということは、あらゆる存在の区別が無いということです。
猫も杓子も釈迦も達磨も全部、一緒です。
宗教の一大テーマの、「自我」も、もはや問題にすらなりません。
何せ、自分の体すら、一緒のごちゃまぜなんですから。
今目の前にあるPCもスマフォも、自分の肉体と別ではないのです。
宗教の問題の自我すらありません。
私も貴方も全部一緒です。
以前、肉体がなければ、すべての問題は解決するという話をしましたが、自分の体も世界も一緒なら、もはやどうでもいいことです。
あらゆる問題や苦しみが、無い世界です。
敵も味方も、愛する人も、憎むべき悪人も全部一緒です。
軍事も経済も政治も全て存在しません。
お化けにゃ学校も試験も何にもない世界ですが、瞑想を極めた仏も同様なのです。
というより、神も仏も無いのです。
(瞑想下の)世界には、神も仏も学校も試験も何にもないのです。
般若心経は、日本人の我々は、誰でも知っています。
その観点で見ると、意味がよくわかります。
観自在菩薩が、般若の波羅蜜多の智慧を深く行じている時、五蘊は、皆、空であると照見しました。
その結果、一切の苦厄は度されました。
要するに、空は瞑想下の特殊な世界なのです。
空が時間も空間も無い世界ならば、一切の問題は解決します。
そういう話なのです。
初めから、論理や言語で解釈しようとしても意味のない話なのです。
時間
空間だけですら、この有様です。
瞑想下の世界(面倒なので空の世界と以下呼称します)は時間と空間が無いのです。
時間も無ければ、さらにわけがわからない世界になります。
このブログで言っている陰徳やら因果律やらは、全て時間と空間に依存しています。
自分以外の存在(空間的)に陰徳を施し、それが、後に帰ってくる(時間的)というロジックです。
時間がなければ、陰徳も因果応報もへったくれもありません。
道徳的行為も悪行も、差異はなくなります。
結果も原因も同じになってしまうことに、何の意味があるのでしょうか?
時間の流れが無ければ、生死も関係ありません。
生まれたことも、死んだことも同じになってしまいます。
もちろん、生まれ変わりも輪廻も、地獄も浄土も同じです。
六道輪廻も、そこから離れる解脱も、無意味になってしまいます。
神も仏も、釈迦もイエスも、絶対神も悪魔も、全部一緒で、全部存在しません。
時間と空間という、我々が認識しているインフラが無い世界というのは、これほどヤバイ世界です。
だからこそ、この空の世界は、言語では説明不可能なのです。
瞑想下のこの時間と空間が無い世界は、言語下不可能。
だからこそ、論理は必要ない脳筋の世界なのです。
ある意味、この時間と空間が無ければ、それが宗教的なゴールで、究極です。
あらゆる悩みや苦しみが解決されるのですから。
さらに言えば、時間の存在を逆手に取れば、因果応報を操作して、開運にも繋げられます。
最悪、歴史を変えるということすら可能です。
まあ、マクロ的な歴史を変えるレベルまでは難しいでしょうが、個人レベルの歴史を操作するこては可能でしょう。
時間と空間が無い世界というのは、逆に言えば、時間と空間を無視して行動出来るということです。
自分や相手の、体や記憶や歴史を操作出来るということです。
オカルト的な能力、呪術や奇跡、加持祈祷の力の正体の一つがこれです。
瞑想下で時間と空間の壁を突破出来た者は、こういうことが出来るということです。
ここに、戒(戒律)、定(瞑想)、慧(智慧)の三段階のいち段階名の戒律、つまり道徳的観点や顕教の重要性が存在します。
要するに、危険な力を保有しているがため、制約が必要ということです。
40歳を超えると魔法使いになる
一般に、こういう能力は、人間が持つ能力の延長乗線にある能力です。
恐らく、そのうち科学が解明して当たり前に使えるようになる能力でしょう。
しかし、現時点、今までの長い間の人類の歴史では、当然、普通ではなかった能力です。
何しろ、こういうサイキックな能力は、完全犯罪が可能な能力です。
時間停止や幽体離脱が出来たら、まず考えるのは、犯罪です。
もっと言えば、無制限に金が引き出せるATMに使用権があったら、どれだけの人が使わずにいられるでしょうか?
瞑想で得られる力で、条件として戒律があるのは、当然なのです。
戒・定・慧の順に並んでいるのは、それなりに理由があります。
とにかく、戒律の枠が無いと、非常に危険なのです。
西洋魔術のカバラは、40歳を超えないと伝授されないという縛りがありますが、要するに信用がおける人間でないと伝授してはいけないのです。
前々からテーマにしていますが、戒律が無いのに、こういう世界に入るのは危険なのです。
逆に、戒律をクリアしていれば、陰徳を積んでいればOKなのです。
縁があれば、こういう世界に入れるし、仮に、こういう無意識下の世界に入らなくても、陰徳で開運して死後も、幸福な境涯になれば、それだけでも人生大成功なのですから、やらない道理はありません。
急がば回れということわざがありますが、あらゆる神秘行や修行を目指したい人は、まず、しっかりと、戒律段階をクリアしてから、おすすめします。
まあ、実は、本当は、こういう瞑想なり気功なり霊能なりは、実は、若いうちにやったほうが進歩は高いというぶっちゃけた話もあります。
芸事と同じで、10代からやったほうが体や脳が柔らかいので上達しやすいのです。
中共の管理下で、そういう人間を育てるために、子供を集めて修行させたケースもあります。
完全な管理下が出来るのならば、それでもいいのですが、先進国でやるのは、リスクが高いでしょう。
もうちょっと話すことがあるので、次回も、このテーマです。
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今日も、脳筋宗教論です。
顕教と密教
言葉じゃいえない論理です
神仏を愛しているからNO!NO!NO!
このブログは、陰徳により開運しようというロジックを使っているので、基本、理屈で書いています。
しかし、戒(戒律)・定(瞑想)・慧(智慧)と言う、宗教的な段階だと、一番初歩の戒のレベルです。
※智慧は、定(瞑想)で悟るレベルなので、理屈とは別です。
どちらかといえば、このブログは密教ではなく、顕教に当たります。
本格的な修行を始める前の、当然の教養と言っていいレベルの話です。
一流の宗教人になるには、政治的な能力やカリスマも必要ですが、修行と学業の、行学を同時に納めなければなりません。
密教の前には顕教がいるのです。
まあ、小難しい理屈は本来不必要でも、瞑想の前に必要なものとしては、戒律などの倫理的抑制はどうしても必要です。
どうしても、潜在意識の奥に入るには、道徳的な防具が必要だからです。
無意識の欲望が、瞑想でダダ漏れになると、最悪、サリンを撒く羽目になります。
また、仏教ならば、三法印や空の思想などで、欲望を相対化させる論理が必要です。
キリスト教ならば、神への信仰心でしょう。
顕教や戒律という縛りはどうしても必要なのです。
これをやらずに、いきなり瞑想に行ってしまうと、自殺行為です。
このブログは、開運という目的なので、宗教的な顕教の知識と、陰徳(戒律や布施)やパワスポ(神仏との縁結び)を勧めています。
これは、宗教では、初歩の段階であり、同時に絶対に必要なものです。
まあ、宗教の奥深いレベルに行かなくても、開運して死後はハッピーな場所に行ければ、それだけでも大成功です。
開運でハッピーな段階でも、普通はそれで大成功でしょう。
脳筋業界
これが、脳筋の話と何の関係があるのか?
実は、顕教とは違って、定(瞑想、密教)は脳筋の世界だからです。
そこには、理屈はあまりありません。
顕教だと、まだ教義の論争などが行われていますが、その先の世界になると、もう論争とかはなくなります。
言葉で言えない世界ですし、個人レベルの体験談になりますので、科学的な客観性や再現性がないからです。
もっと言えば、論争どころか、言葉の世界ですらありません。
言葉と言うのは、人間が使うツールです。
要するに有限の存在の道具なのです。
要するに、人間が想定する宗教存在は、全知全能やら解脱やらと言った超越的存在です。
人間の言語では語られない存在が対象なのですから、本来の原義だと、言葉で語ることが出来ないというのが、実際正しいのかもしれません。
考えるな!感じるんだ・・・
とか、いうブルース・リーの言葉は、脳筋の有名な言葉ですが、宗教も実は、こうした世界なのです。
宗教の世界は、基本、体育会系です。
まあ、大抵の職業は体育会系なので、別に宗教に限ったわけではありませんが、議論を許さない分野というのでは、これは必然的なわけです。
師匠に絶対服従というのは、一見、非合理的ですが、瞑想段階まで行くと、これは必要なことなのです。
個人の無意識に潜っていく瞑想は、ナビ役の師匠の存在が不可欠です。
禅宗でも、こうした無意識の領域に潜ることを目的としています。
警策でバシバシ叩かれるイメージはここらへんに理由があります。
まあ、禅宗は、瞑想で出てきた物を全部魔境として、切って捨ててますので、まだ危険性は少ないのですが、それでも、たまに発狂者が出てきます。
瞑想はそれだけ危険なのです。
禅宗よりもイメージや無意識の欲望や解放などを積極的に使う密教などは、もっと危険です。
インド系の宗教は、基本、グル(師匠)がいないと出来ないようになっていますが、その中でもタントラ系は特にマズイのです。
チベット密教がこの系譜ですが、チベット密教がラマ(師匠)教というのは、このためです。
禅宗よりも遥かにヤバイ手法を使うので、危険性が段違いなのです。
チベット密教などの後期タントラ密教を入れたオウムが、サリンを撒いたのも、実はここに関係があります。
世界中でカルトが、集団自殺などを行ったりするのは、ここらへんが原因です。
行ってしまえば、瞑想は薬物と同じです。
脳内麻薬物質を外部から取り入れるか、内部で発生させるかの違いがありますが、実質同じものです。
キチガイのジャンキーと、聖者は同じものなのです。
困ったことに、後者は信者がつきやすく、権力を把握しやすいのです。
まあ、そうは言っても、所詮は、宗教なので、軍事力を伴う権力よりはマシです。
大抵は、国家権力に壊滅させられます。
しかし、たまたま、政治業界で、聖者が出現すると災厄の規模が広がります。
全盛期のドイツでも、電波なキチガイが国を掌握して、凄まじい被害を引き起こしました。
その意味で政教分離というのは、人類が作ったリスク回避なのです。
人類が本能的に、宗教と政治をからめるとヤバイということを本能的に悟った結果だと言えます。
脳筋言語
では、その脳内の脳筋ワールドとはどういう世界なのでしょうか?
答えは簡単です。
言葉が通用しない世界です。
脳筋とは言葉が通じない輩のことですが、まさに、瞑想による世界は、脳筋ワールドなのです。
冷暖自知という言葉の通り、体験は言葉ではそのまま百%の情報を記述できません。
五感と言語は、イコールでは無いのです。
さらに、五感以上の体験や概念はさらに、言語化が難しいのです。
例えば、一神教の全知全能の神は、我々の言語では、論理矛盾をきたす存在です。
「では神よ。貴方が飛び越えられない高さの壁を作ってください」
という、試み(神を試してはならない)には、絶対神は論理的に回答できません。
どうしても、論理矛盾をきたしてしまうからです。
仏教でも同じです。
解脱の境地は、現実世界のこの世界を完全に、離れた世界です。
つまり、この世界の言語体系や概念は存在しません。
それを、瞑想で体験しても、それをこの世の言語で、記述出来ないのです。
大乗仏教の眼目である「空」の概念も同じです。
般若心経でお馴染みの空の概念ですが、現代人の論理構造から見ると、さっぱり理解出来ません。
論理的になっていないのです。
これは、単にお経を書いたやつが馬鹿というわけではなくて、はじめから「そういうもの」なのです。
要するに、瞑想下で、言語を絶した体験を無理やり、言語記述するとこういう矛盾した書き方になるというだけのことです。
禅が「馬鹿になれ」「大愚になれ」と言うのは、これです。
初めから、現世の論理や言葉が、通用しない世界なのです。
ここが、宗教が脳筋であることの理由です。
ちなみに、脳筋の武士と禅宗がくっついたのは、偶然ではありません。
旧日本軍の様式は禅宗からシステムが移譲されてきますが、あの旧日本軍や武士道の非合理なシステムは、禅宗から来ていたりします。
こうした裏の歴史では、宗教が意外な影響力を及ぼしていますが、宗教は思想や哲学の元なので、意外どころではなく、世の中の大半の問題にからんでいます。
まあ、ここらへんは、また別途やりましょう。
では、具体的に、瞑想下では、どのように脳筋なのか、次回に詳しく見てみましょう。
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馬鹿になれと説く愚民化政策。
しかし、本当は馬鹿になることこそ、正解なのである。
Let it be.
全てはあるがままに
はもう古い。
Let it be fool.
全ては馬鹿のままに。
脳筋
基本的に、宗教は、知性主義と反知性主義が同居しています。
宗教セグメントには、必ずこの2つの矛盾したテーマが内包しているのです。
厳密に言えば、宗教に限らず、どこの業界もそうなのですが、
創業期は、脳筋(脳味噌が筋肉という反知性主義)が多いのですが、
泰平期は、育ちの良い頭の良さが重要視されます。
具体的に言うと、学歴の高い秀才が入ってきます。
宗教も同様です。
基本、創業者は、反知性主義の脳筋です。
これはイエスや釈迦も同様です。
当たり前の話ですが、仏教でもキリスト教でも今の膨大な経典や神学は、後世に作られたものです。
イエスは大工のこせがれですし、釈迦に至っては酒池肉林生活を送っていたボンボンです。
彼らの言動は普通に、後世の複雑怪奇な神学と違って、脳筋な権威への反逆的行動と、素朴な説法です。
当時の支配宗教への反逆的な脳筋的批判が、メインです。
大抵の宗教は、神がかりの基地外のおばさんがシャーマンとして神の言葉を語ることから、登場します。
もちろん、大概は、このまま終わるのですが、そこに、頭のいいブレーンがつくと巨大化します。
さらに、教団がでかくなると、高学歴の信者が集まって、象牙の塔に篭って、複雑怪奇な神学を構築するのです。
ただ、時代の流れはどんどん変わるので、やがて権威科して、かつて自分たちの開祖が批判したような時代遅れの硬直した教義となります。
そうすると、開祖のような脳筋が現れて、批判し始め、それが大きくなると、新しい宗教を立ち上げてしまうのです。
(宗派の内部からの独立も多い)
基本、宗教の歴史はこのようなものです。
脳筋とインテリの寄せては返す波のように繰り返さ得れるのが、宗教史です。
脳筋マーケット
大抵、その復古主義の、脳筋の開祖の、言っている内容は、驚くほど、同じです。
神に戻れだの、
今の教団は腐敗している!だの、
ガチガチの戒律よりも信仰心の方が重要だろ!だの、
権威化して権力者と結びついた!だの、
教団は救われない弱者を放置している!だの、
とか、古今東西、テンプレ化しています。
要するに、教団が権力化して保守化すると、救済対象に漏れる階層が出てきます。
需要があれば供給が現れるのが資本主義の鉄則です。
既存の権威の救済対象から外れた、救済に預かりたい需要に応えて、新しい宗教はニーズに供給するために現れるのです。
イエスの時代だったら、娼婦や徴税人でしょうし、
ローマ帝国のニーズは、帝国が求める包含的な、脱民族的なグローバル宗教でした。
釈迦の時代だったら、当時、勃興してきたインドのブルジョア階級です。
鎌倉時代だったら、東国武士や庶民などです。
何しろ、その時々の当時の、救済対象ではない被差別階級への供給なので、対象に合わせた、反知性主義の脳筋教義です。
念仏などは、戒律も修行も教義も一切放棄した、南無阿弥陀仏だけでOKという、脳筋の究極です。
禅も同様で、東国武士(野盗と大して違いが無い脳筋集団)向けの宗教なので、内容は推して知るべしです。
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」
禅の教義の通り、反知性主義の極まりです。
※と言いつつ、一番、教義を文章化しているのが、禅宗なのですが。
こうした、宗教の脳筋反知性主義ですが、基本は上記したように、愚民向けの脳筋教義です。
愚民は難しい神学などいらないのです。
宗教が救うべき対象は、その当時の、救済に預かれない層です。
たいてい、世間的に迫害されている低階層なので、脳筋なのです。
当然、脳筋を救うには脳筋な宗教なのです。
大衆にはひたすらワンフレーズを繰り返せと、プロパガンダの大家のゲッペルス先生(ナチスの宣伝大臣)も言っています。
衆生の救済には理屈はいらないのです。
勢いとノリの脳筋がいつの世も大衆を支配出来るのです。
真髄
とは言え、インテリは小難しい話が好きなので、
彼らは、こうした脳筋教義に文句をつけます。
愚民向けのためとは言え、宗教は脳筋でいいのか?と。
しかし、当たり前ですが、インテリなどは、世間の少数派です。
世間の大部分が愚民であり、脳筋であることを考えると、別に脳筋教義でいいのです。
世界で一番売れている、ハンバーガーとコーラは、豚の餌のジャンクフードです。
しかし、世間で一番売れているのは、それなのです。
さらに言えば、脳筋脳筋と、一概にそうは言えない面があるのが宗教です。
宗教の創始は元々、反知性主義の脳筋だと言う事は前述しましたが、基本と言うのは往々によって、奥義の場合が多いのです。
職人や武術の達人の動きが、シンプルなのはそのためです。
実は、反知性主義の脳筋こそ、宗教の真髄である可能性があるのです。
この可能性を次回は、もっと考察してみましょう。
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集積データ
毎日、長々と無駄に文章量が多いこのブログ(単に豊河が文章をまとめる能力が低いだけなのですが)を読んでおられるような知能の高い皆さんは、
実社会でも高学歴の教養のあるインテリなので(勝手に認定)、本屋には良く行っておられると思います。
豊河などは、皆さんと違って、非才無学な凡人なので、いつも、部屋に積んでる未読の本含めて、本屋や図書館に行くと、その汗牛充棟の山の前で、
「糞ッ! 現代日本という情報・学習環境には事欠かない、宝の宝庫にいるのに、インプットのステータスの低さのおかげで、まさに宝の持ち腐れだ!」
と、自分の「無知の知」に、憤然やるかたない気持ちになります。
もう最近は、
「俺、この人生がトラックに轢かれて死んだら、異世界転生に際して、神様から貰ったチートスキルで、学習能力の高いステータスやスキルを貰うんだ・・・」
と、死亡フラグを立てるような妄言を吐くようになっていますが、幸い、死亡フラグは回収されていません。
まあ、豊河の魂の慟哭はどうでも良いのです。
本やネット上の電子データは、人類が悠久の昔から、蓄積してきた膨大な知的遺産です。
文字という情報は、人類が他生物に比較して、圧倒的な有利さを生み出すチートスキルです。
人類がこの地球上で覇者になれたのは、ひとえにこの文字というチートスキルのおかげなのです。
地頭(ハゲの隠語)
だが、この文字による学習というスキル。
大体、人生の初期で、その個人レベルでの格差に、みな薄々気がつきます。
学習能力レベルに差異があるのです。
もともと、江戸時代の身分制から解放された我々日本人は、明治以降、四民平等として、大日本帝国の科挙システムに組み込まれました。
当時の帝国主義の時代に、臣民が求められたものは、優秀な兵士と工員と、それを統率する官僚です。
どのルートになっても、情報処理能力が求められます。
そのレベル判別方法が、学校教育において学習結果を判断する科挙(試験)です。
我々日本人は、すでに十代の内からこの科挙のレベル判定の結果、振り分けられます。
優秀な者は上に行けると言う近代以前から見れば、理想的なシステムですが、何せ、人の能力ステータスは平等ではありません。
無論、学校教育のレベル判定は、穴があり、低学歴でも、世に名を成す者は大勢存在しています。
しかし、その低学歴成功者は、よくよく経歴を見ると、大抵は、単に、家庭や素行(若い頃のヤンチャ)の問題で低学歴だっただけであり、
専門分野の仕事や教養について、膨大な読書量や、学習量を保持しているのが基本です。
やはり、情報処理能力の地頭の有無が問題になってきます。
情報イコール金
当たり前の話ですが、情報が生死を決めるのは、人類がマンモスを狩っていた頃からの、基本です。
山に行って、食べられるキノコを判別する知識は、生死を左右します。
専門知識だろうが、経営知識だろうが法律知識だろうが、情報量が収入を決定します。
戦争ですら、情報スキルが無い国は、滅びるだけです。
実質的に、知識・学習能力と、金・収入は同じだと考えてよいでしょう。
それに対して、よく、「馬鹿になれ」系の自己啓発本や教訓が昔からありますが、
これは行動力が足りないインテリへ向けの話であって、本気にしてはいけません。
そもそも、本物の馬鹿は、こういう本すら読みません。
もっと巨視的な観点で言えば、馬鹿になれと進めるのは愚民化政策の一種です。
すでに、新自由主義を推進する政府は、
司法試験を改悪して、貧乏人を合格させまいとしたり、
ゆとり教育やG型/L型大学などという分かりやすい愚民化教育を推進しています。
ちなみに、エリートが通う私立は真逆の詰め込み教育を推進しているのですから、この愚民化教育がわざとなのは明白です。
別種
まあ、厳密に言えば、これは一般論であって、必ずしも学習能力と金運は同一ではありません。
低学歴だけでなく、本気で馬鹿であっても、金運の高い人間は普通に存在しています。
とは言え、現代社会では、まず同一と考えてよいでしょう。
しかし、先ほども述べたように、学習スキルは人によって個人差があります。
人類の大多数の、ステータスが低い人は、どうすれば良いのでしょうか?
学習ステータスが低い人間が、毎日、愚民化の象徴であるテレビやゲームを見て、時間を無駄に浪費したりする間に、学習ステータスが高い人間は、専門書から通俗書まで幅広く深い知識(情報)を蓄えてしまいます。
見かけは同じ人間ですが、その性能は天と地ほど差があります。
インターネットに繋がってなく、かつ性能の悪いPCと、
インターネットに繋がっている、かつ性能の良いPCの比較は言うまでもありません。
この学習能力の差は、下手をすれば同じ人間という種では無いレベルです。
猿と人間の差くらいはあるのです。
見た目が同じ人間なだけで、中身はまるで別物です。
この如何ともしがたい格差をどのようにして埋めれば良いのでしょうか?
種
解決策は、陰徳の実践です。
先ほども述べたように、学習能力と、金運は完全イコールではありません。
もっと言えば、学習能力が無くても、最悪生きていけるのです。
(あった方が断然有利なのですが)
陰徳を積んでいけば、学習能力が無くても幸福・裕福にはなれます。
※実際には陰徳の結果、知恵が開けてくるし、健康になるので脳が正常化(脳の力は腎臓と関係があります)し、学習能力は上がります。
もっと言えば、もし今の自分が、学習能力の低い馬鹿だと自認していたとしたら、それで、苦しむ必要は不要です。
学習能力は基本、遺伝であり、過去の陰徳の結果なのです。
要するに、いまさら変えられないものなのです。
※実は変えられますが一応話の流れとして。
悩むだけ無駄なのです。
「何で今の性別に生まれてしまったんだ!」
と嘆くのと同じレベルの話なのです。
悩み苦しむ時間だけ無駄です。
これが本当の、「馬鹿の考え休むに似たり」なのです。
そもそも、馬鹿なのですから、いくら考えてもいい案なんて出ません。
馬鹿は、考えてはいけません。
何事も、適材適所があります。
難しいことを考えるのは、頭のいい人間にまかせるのです。
なあに、大丈夫です。
世界には、人間種だけで60億人くらいいます。
地球とか人類の未来とかは、この星の何処かの国の天才が、頼まれもしないのに、その高IQで一生懸命考えてくれます。
自分が馬鹿だと自認したら、学習で身を立てるより陰徳にコストを割くのです。
そもそも、この大して根拠の無い陰徳という、いかがわしい物に身をゆだねるのです。
これは、頭の良い者には出来ません。
秀才は、インテリなだけに、こうした非論理的な存在を信じるという知的蛮行が、出来ないのです。
陰徳というのは馬鹿にしか出来ない行為なのです。
貴方が高IQのインテリに勝てる要素はそれしかありません。
その意味で、先ほど、否定した馬鹿になれという話を、舌の根が乾かぬ内に、覆す必要があります。
馬鹿になるのです。
このブログは「学問のすゝめ」の反対なのです。
「馬鹿のすゝめ」なのです。
目指すべき対象は、福沢諭吉ではなく、アントニオ猪木なのです。
この馬鹿になれというテーマは、宗教上、重要なので次回もこれに対して考察しましょう。
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精神的勝利法
前回に続き、宗教は、アヘンというテーマです。
基本的に、宗教には、人間がどうしようも無い強大な敵である、運というものについて、精神的勝利するための、太古からの智恵が満載です。
昔から人間が、いかに、現実に勝てないことを言い訳するかを、考えてきたかがわかります。
まあ、そうは言っても、
陰徳という運を操作出来る方法を知っている皆さんには、
関係の無い話なのですが。
さて、そうした人間の、精神的勝利法の神学の叡智を見てみましょう。
○運は経験値論
ゲームも人生も、経験値を積まないとレベルアップできません。
ゲームだと、裏ワザや課金を使ってチート出来ます。
が、通常は、モンスターを地道に倒して経験値を貯め、
段々とレベルアップしないと、ゴールドは溜まらないし、装備もいいのを買えません。
結果、経験を積まないと、強くはなれないのです。
モンスターとの戦闘は危険が伴うし、痛みや苦痛が伴います。
時には、力及ばず力尽きて、王様から
「おお死んでしまうとは情けない」と、
説教を食らう羽目になることもあります。
訓練や修行はつらいものです。
しかし、それを経ることによって人は成長出来るのです。
寝たきりだと筋肉が萎えて、動かなくなります。
筋肉を増強させるには、超回復の原理が必要です。
一度、激しい負荷をかけて筋肉を壊さなければ、なりません。
破壊なくして創造はありません。
ヒンドゥー教の至高の三神は、破壊神シヴァが一柱混じっています。
古い建物があるところに、新しいビルを建てるには、当然、古い建物は壊す必要が生じます。
死と生は表裏一体です。
陰陽の法則は、苦と楽が同じものであることを示しています。
苦しみなくして、不幸なくして、物事は存在しないのです。
人生は苦行なのです。
その意味で、苦行を推奨するバラモン教は正しかったのです。
少なくとも、この世の原理は、楽と苦が表裏一体なのです。
苦という経験値があってこそ、人は偉大に成長出来るのです。
水戸黄門のテーマ曲も、こう言っています。
人生楽ありゃ苦もあるさと。
○運は安定しない論
「禍福は糾える縄の如し」「史記」
「万事塞翁が馬」「淮南子」
諸行無常の原則は、
いつの時代でも誰に対してでも有効です。
この流れは誰にも止められません。
吉凶の禍福は陰陽の関係です。
二本の紐がねじりよられる縄の如く、常に陰陽として表裏一体です。
陰の裏には陽があり、陽の裏には陰があります。
太極図には、陰陽にそれぞれ対抗の兆しの小さい丸がありますが、
陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となるのが自然です。
太陽が頂点に位置する真昼は、すでに夜になるスタートです。
陰徳の話でも、今まで言ってきましたが、
権勢期には、今までの陰徳貯金を猛烈に使い果たしているのです。
さらに、調子に乗って悪事をしたら、その影響力から来るマイナス陰徳は、目も当てられません。
山高ければ谷は深いのです。
要するに、運はコロコロ変わるのです。
これは、自然現象ですのでどうすることも出来ません。
○運は認識論
私は失敗したことがない。
ただ、1万通りの、
うまく行かない方法を
見つけただけだ。
by エジソン
人間は、同じ現象に対して、本人の認識のフィルターを通して評価します。
認識上で感じる幸福・不幸が、同じ現象でも人によって変わるのです。
特に、幸福な時は、過去の思い出を美化する傾向があり、
「今までの苦労は価値があった」
と記憶の書き換えを実施してしまう傾向があります。
これが極まると、マゾ奴隷となり、どんな現象でも苦痛に感じなくなります。
本人の認識フィルターさえかかっていれば、世界は安泰です。
雨が降ろうが槍が降ろうが問題ありません。
わかりやすく言えば、一生、24時間、薬物を摂取(脳内麻薬でも)していれば、
この世はそのまま極楽浄土です。
その意味で、六道の天道の天人は、もしかしたら、環境が極楽なのではなくて、
脳が24時間、麻薬分泌物を量産している生物種なのかも知れません。
最悪の場合、六道の天人というのは、未来の人類で、脳だけ培養液の中にぷかぷか浮いていて、脳に電極が刺さっている、
一生、脳内で、幸福な夢を見ている存在なのかも知れません。
世界の実相というのは、それがどうであろうと、天国か地獄かは本人のフィルターに過ぎないのです。
過去の聖人や修行者やヒッピーの、薬物体験者の記録を見ると、
彼らの目には、世界が輝いて見えています。
当然、世界そのものは別に普通です。
でも、本人の目からは、深い愛と祝福で、かけがいの無い価値として、光り輝いているのです。
反対にうつ病患者の目には世界は地獄の風景を見せます。
外的な世界そのものは変わらないのに、こちらの認識のフィルターによって違う世界になっているのです。
要するに極論すれば、運と言うのは、本人の認識なのです。
事故にあおうが、病気になろうが、戦争があろうが、家族が死のうが、関係ありません。
全ては本人の脳内麻薬の分泌量なのです。
宗教はアヘンどころではありません。
人生はアヘンなのです。
これが法である
以上の精神的勝利法は、全部、外界の事象に対して、自分側の解釈を変える話です。
もちろん、唯物論じゃからすれば、
病気に対する医療、
闘争に対する法、
貧困に対する社会システム、
等々の、抜本的でラディカルな社会的解決策から、
目を逸らすものです。
だからこそ、マルクスの「宗教はアヘン」だというセリフが出てくるのです。
が、実際、外界を変えられない以上、本人の認識を変えるしか、不幸を回避する方法はありません。
世界を変えるよりは、自分を変えるほうが簡単なのです。
皆さんのように、陰徳で運命は改善出来るという裏ワザチートを知らない、世間の愚民は、
世界に無謀な戦いを挑むか、諦めて自分をアヘンで慰めるかしか、人生の選択肢はありません。
豊河は、この衆生の境遇を憐れみたまい、
無知な愚民へと、運命転換の秘術である陰徳の普及をすることを願い、
今後も、一段と、衆生救済の決意を固めるのです。
(この上から目線)