2017年7月12日水曜日

【陰徳社会論】日本人はなぜ寄付しないのか?②





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日本人はなぜ寄付しないのか?

の続きです。






神仏


なぜ日本人は寄付しないのか?前回からの自国批判、自虐認識の話ですが、 宗教的な分野においても、この問題の根っこがあるのかも知れません。

慈善・寄付の教義は、神道や仏教は乏しい感じです。

例えば、神道や仏教が近世以降、慈善活動をやった話はあまり聞きません。
奈良時代や、平安時代に権力者(光明皇后)が仏教的慈善をやった歴史はありますが、
それですら景教(キリスト教ネストリウス派)の影響の疑惑があります。

神道も仏教も、こう言っては何ですが、貴族趣味、自力救済のエリート教義が強いので、あまり慈善に関心が無いのです。
他力本願的な念仏や題目も、現世での弱者救済という面にはあまり意識を向けないのが実情です。


キリスト教は、今まで(今でも)世界中でろくでもないことをやっていますが、
弱者救済という点では、結構熱心にやっています。

まあ、自分で宗教戦争を起こして、自分で被害者や難民を救済するマッチポンプと言えばマッチポンプなのですが。
それでも慈善を何もしないよりはマシです。
要するに、日本の宗教において、慈善を推進するような教義があまり無いのです。
穢れや因果応報思想は弱者に厳しい思想ですので、それもマイナスに働いています。

あっても、それは弱者というより、所属する教団への奉仕に摩り替わってしまうのです。

要するに、信仰している神社仏閣への寄進は日本人は結構しています。
あの弱肉強食の戦国武士ですら、結構寄進しています。
※寺社の諜報ネットワークの利用という面があるにしても、
しかし、神社仏閣以外の民草へは異様に冷たいのです。
日本はいつのまにか(元から?)民度が低い、
中世ジャップランド(左翼用語)の国になってしまったのです。



砂漠の水の価値


要するに我々は不徳の国にいる不幸な人間です。

しかし、この不幸は実は、幸運の種でもあります。
この問題は、我々、陰徳道の行者(また勝手に命名)から見たら、実は、非常に好都合なのです。

変な話ですが、陰徳道の我々にとって、これほどありがいことはありません。


理由は簡単です。
日本国内で寄付、すなわち陰徳している人間がいないということは、
我々の陰徳が、相対的に、価値が倍増するからです。


要するに陰徳の競争相手がいないではありませんか?
ということです。
まさに、入れ食い状態です。
これこそ、ブルーオーシャン(市場において競争相手のいない状態)と言えるでしょう。


陰徳者が少ないということは、不徳薄徳の輩しかいないということです。
いわば、雑魚しかいない狩場(フィールド)です。
高レベルの冒険者が、スライムのフィールドで無双するかの如き、ボーナスステージなのです。


陰徳に、相対的価値もへったくれもあるかというのは、世迷言です。
一切の価値と言うのは相対的なのです。

大乗仏教の奥義の「空」の論理も言っています。
一切の事物は相対的なのです。

親は子がいなければ親ではありません。
子は親がいなければ子ではありません。

AがあることによってBがある。
AがなければBではないのです。

古代ギリシャの哲学者の、プロタゴラスさんも、
「人間は万物の尺度である」
と仰ってます。


ちなみに、プロタゴラスさんは、ソクラテス(プラトン)から、
相対主義のソフィスト野郎という不当なヘイトスピーチを受けていますが、
死刑犯罪者(ソクラテス)の言うことなど、気にしてはいけません。


一杯の水は都市ではただ同然ですが、砂漠では値千金の価値を持ちます。
場所と時間、需要と供給の原理に従って、物の価値は乱高下するのです。


要するに、他国なら普通レベルの慈善は、慈善の習慣が無い中世ジャップランドの日本国では、
聖人君子レベルの人間しか、やらない貴重な陰徳になってしまうということです。



光は闇が深ければ深いほど輝くのです。



先進国では、底辺レベルの文明技術力でも、発展途上国に行けば神として崇められます。

異世界転生では、現代知識チートは基本です。
マヨネーズや黒色火薬で、チート無双なのです。


陰徳と運命を司る、天上の管理人の神仏の注目度も段違いです。

他国の神仏なら、
「また慈善かよ・・・はいはいみんなやってるよね」
と食傷気味の陰徳も、
民度の低いこの日本国の神仏なら、
「時はまさに世紀末。この腐敗と自由と暴力の真っ只中の国の中で、お主こそ、古今無双の陰徳者よ!」
と、神仏の好評価認定間違い無しです。


薄情なジャップが寄付しないため、自業自得で国ごと低運にあえぐ中、
その分、我々の陰徳の徳の高さが、際立つのです。

他国なら、その他大勢に埋もれてしまう程度の陰徳が、
圧倒的な存在感を持って、我々、陰徳者を開運させてしまうのです。


今後も、日本国は寄付文化が無いまま、不徳を突っ走るのですが、
幸い、このブログに来れるような有徳な方々は問題ありません。
しかも、日本の大多数が不幸になることによって、ますます我々の開運力が高まるという方式です。


いつの世も、破滅から救われる人間は少数です。
ノアの箱舟に乗れた人間は8人だけでした。
所詮この世は、ゼロサムゲームです。
権益者の数が、少なければ少ないほど、良いのです。
数が多ければ、我々の陰徳力は希少価値が無くなってしまいます。


イエスが救世主扱いされたのは、ハンドパワーで病人を治したりした奇跡の力です。

ところが、このレアスキルが当たり前にあるような、世界だったらどうでしょう?

ヒーリングスキルが、レアでないメジャースキルだったら、
イエスは相手にされなかったでしょう。
それと同じことなのです。

つまり、この日本国で陰徳を広めるのは、既存利権者の我々にとって不利であるということです。




疑問



さて、上記のように論理的に考えみると、
なぜか、

「陰徳を広めてはいけません」

という結論に達してしまいました。
陰徳者の数が増えれば、陰徳の価値が下がるからです。ダイヤでも美人でも数が少ないほど、価値が上がるのです。

要するに、日本でみんなが陰徳をやり始めたら、効果が薄まるのです。

天に二日無し。
競合他社は少ない方が良いのです。


と、このブログの、レーゾンデートル(存在意義)を根底から揺るがす結論ですが、
一体全体どういうことでしょうか?

しかし、普通に考えて、この考えはどこかおかしいと直感的に感じます。

金持ちが、
「社会の貧困化が解消されたら俺の金の価値はなくなる」
と言っているような感じです。
論理的には間違いではないが、真理の実相からは、間違っているように思えます。
陰徳という秘伝が大衆に広まっても、我々に果たして損は無いのでしょうか?
世間には知らせず、我々だけの自家薬籠中の秘伝のままにしておいた方が良いのでしょうか?


いや、普通に、んなわけねーだろと思いますが、
何となくの感情論ではなくて、
一応、このロジックに反論するのを言語化してみましょう。


次回にこの問題を、考察します。











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