2018年3月25日日曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について













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弁仏論



因果応報論にはいくつか欠点があります。

まあ、そもそも論として、

因果応報自体が、全く一ミリたりとも科学的に実証されていないという、欠点以前の欠点がありますが、

百歩譲ってそれを是認したとしても、看過出来ない問題がたくさんあります。




その一つが差別を肯定する思想です。

およそ、近代以降は払拭されたはずの差別思想ですが、

近代化されていない地域では、今だに根強い差別思想が残っています。



しかも、その差別思想の大国は、仏教や因果応報論を生んだインドです。

ちなみに、インドは中国に負けず劣らずの人口大国で10億人近い人口があります。

要するにこの21世紀になっても、10億単位の人間が今だに差別思想を持ったどうしようもない国家なのです。



まあ、これだけでしたら、まったく、未開の土人国家はしょうがないなあで、済む話です。

そもそも、仏教を生んだインドとは言え、インドは仏教を追放しています。

イエスを生んだイスラエルと同じように、救世主は故郷では報われないのです。


しかし、別にインドなどどうでも良いのです。

一番の問題は、その差別思想を生んでいる原因が、
我々が陰徳道を行じているそもそもの理論の根幹である、因果応報理論に依拠していることとなると、話は別です。




この問題に対応するために、色々と因果応報論という仏教のドグマを弁護しなくてはいけません。
(別に豊河如きが、しなくてもいいとは思いますが、というより金と暇を持て余している連中がやれば良いとは思いますが)


キリスト教の神学には弁神論というジャンルがあります。

神は全知全能の絶対善の絶対神なのに、なぜ、世界には悪があるのか?

という、素朴な疑問に、必死になって弁護するジャンルです。
(そして、あまり成功していません)

今回は、仏教の因果応報論という、ろくでもない理屈を弁護でしてみましょう。

言うなれば、弁神論ならぬ弁仏論です。

まず、
一番問題なのは、やはり、次の差別思想ロジックです。





検察側の告発




因果応報論は、差別を生む土壌になる。
極めて有害な危険思想である。


「善因が幸福を生み、悪因が不幸を生む」
ゆえに、
「人間は善因を積み、悪因をやめるべきである」

ここまでは良い。
人間社会の倫理向上と治安良化に関して、有用である。

しかし、論理構造を逆にすると、途端に危険思想に転ずる。

幸福の原因は善因であり、不幸の原因は悪因である、とする論理が必然的に生まれるからである。




論理学的には、正確に言うと、善因→幸福、悪因→不幸だからと言って、幸福・不幸の原因が100%善因・悪因であるということは成り立たない。

かき氷を食べすぎると頭が痛くなるが、頭痛の原因はかき氷だけではない。
頭痛の原因は、脳腫瘍や寝不足の原因も色々あるのと同じである。

だが、ひとまず、それは置いておく。

少なくとも、幸福・不幸の原因が、特定の割合で、善因・悪因が原因であるという理屈を因果応報論は提供する。

これは、因果応報論の、善因→幸福、悪因→不幸の論理からは必然的に導き出せてしまう。




これは、差別思想では無いか?




そもそも、近代社会は、生まれによる差別を徹底排除した文明社会である。

日本国憲法には、

第十三条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を受けない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

とあるように、生まれによる根拠の無い、差別は問題外である。




因果応報思想は、前世という証明不可能な仮定の論理を構築し、結果として、今、現在における、身体的、精神的、社会的な不幸な人たちを、自業自得による悪業の結果だと差別している。

アフリカの貧しい難民や、餓死する子供に何の罪があると言うのか?

彼らは、アフリカという政治的なシステムの犠牲者であり、それは、救助されるべき存在である。

因果応報理論は、その貧しい者、虐げられる者の人格を、踏みにじる悪魔の思想である!





そして、このロジックは、容易に、権力者の社会統治に利用されるのは言うまでもない。

インドのカースト制度を見よ!

カースト制度の身分制度は、前世の業によって、身分が決定させられていると説く。

その結果、どんな身分であっても、平然とインド人は受け入れ、助けようとする外部の人間に、

「自分たちは、前世のカルマでここにいる。その罪を償っているのだから、余計なことはするな!」

と、反論する始末である。

権力による身分制度や差別制度を、より洗脳レベルで強化しているのである。

無論、カーストが高い者は、前世で善業を積んだ、善人であり、浄められた者である。





ここには、近代の民主主義や科学、人権思想の萌芽が見受けることは出来ない。

権力者を無条件に賛美し、善とする王権神授説であり、被支配層を、無条件に貶める究極の差別思想である。

これは、仏教を通じて、因果応報思想を受け入れた、チベットや日本にも、過去の時代に採用された、差別統治思想であり、奴隷制度を合理化する支配者側の、洗脳思想である。




およそ21世紀の文明社会において、このような悪しき差別思想は、到底、許容出来るものではない。

およそ、世界宗教の一神教において、輪廻転生論を否定し、前世の観念を設定しないのは、このような差別思想に陥らないようにするためである。

因果応報論という、邪教を奉じる仏教を始めとするインド宗教は、その教義を猛省すべきである。

さらに、この因果応報思想の亜種である、「ぷち陰徳で愛されスイーツ開運ハッピー♪」などという、邪説を説いて人心を惑わす豊河の罪は許しがたい。






弁護側(豊河)の反論





いや全くもってそのとおりである。やっぱり因果応報は差別思想ですよね。


さて、大体、上記が因果応報の差別理論への批判であるが、全くもって笑止千万です。

無知蒙昧な意見であり、因果の理法を知らぬ邪道の見解であり、まさに三界を火宅の中で迷い惑う衆生と、言えましょう。


因果を解さない行為は、結局、人間社会の中だけの処世的な倫理でしかありません。

唯物論的な世界観は、暗部での悪事を容認させます。

悪業をやっても果報が無いという、世界観は倫理は成り立ちません。


とは言え、因果応報思想が、差別思想を生むという主張には、一理あります。

しかし、この因果応報思想と、差別思想をリンクさせるのは人間です。

この二つの概念を結びつけるリンクを断線すれば良いのです。

このネットワーク作業が、反論であると同時に、因果応報を是認しながら、差別思想を封じる論理の構築となるでしょう。

で、ぱっと、思いつく反論は、下記のとおりです。


①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



これらの論理で、順次反論(弁仏)していきましょう。






























2018年3月21日水曜日

陰徳無駄使い論への反論の反論その②











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苦行者はつらいよ





あまり言いたくないのですが、もう一つ、節約論には重要な利点があります。

それは苦行の有効さです。

元々、節約論は、「本来得るべき果報の楽(幸運)を節約してその分、福分を貯める」という発想です。

選択肢で良い選択肢を蹴って、グレードが下がる選択肢を選び、下げた分の福分を貯蓄するという、発想の陰徳の節約術です。

しかし、さらに高度な術者になると、グレードを下がるどころか、艱難辛苦の選択肢をあえて選択する剛の者が存在するのです。

一般には、このドM野郎は、苦行者とか修行者とか言われており、特に、他者の犠牲になっている場合は、聖者だとか殉教者扱いまでされる存在にまで出世します。

果報を消費しないで、節約するどころか、艱難辛苦の道を選び、その苦(悪因苦果)をあえて受け、悪業ポイントを消費する。

善業果報の節約と、悪業果報の消費を同時並行で行うという贅沢コースです。

そもそも、釈迦が苦行は止めろボケと言っているにも関わらず、相も変わらず徹底的にハードな修行をするぞとばかりに、苦行を行うのが人間という種の救いがたいところです。

が、前にも言ったとおり、釈迦は他人に苦行すんなと言ってるくせに自分は普通に苦行していました。

イエスもハードな断食苦行をしているところから見て、少なくとも一定の条件の人間には苦行は有効だとわかります。




というのも、大抵の神秘行のシステムを見ていると、必ず、毒出し(デトックス)の段階があるからです。

毒出しとは、方位でよく使われる用語で、吉方位に行くと、今まで貯めんでいた毒を吐き出すということです。

この場合の毒とは、体の毒以外にも精神の毒や運勢の毒など色々な意味があります。

肉体上の病として出たり、金の問題として出たり、人間関係や事故などという形で出たりします。

溜め込んだカルマを浄化させる段階で、一般には、不幸という形で出るのです。

これが毒出しです。

方位や、パワスポ巡りという、修行ですら無い旅行レベルですらも、普通にデトックスなどは日常茶飯事です。

豊河などは、伊勢神宮に行くたびに、いつもろくでもない毒出し現象が起きます。

去年の年末などは、財布を落として、三重の山奥の路線の駅まで取りに行ってきました。
まあ、見つかることからも、ただの不幸でなくて、デトックス(毒出し)なのですが、理由はさっぱりわかりません。




で、この苦行による悪業ポイントの浄化は、たぶん我々、人間個人に、相当深く貯まっていて、実質的に根絶不可の可能性が高いと思っています。

理由は、果てしない過去の輪廻で、清算されていないカルマが、もう天文学的な単位で、こってり貯まっているからです。

例えば、毎日のご飯ですら、普通に他生物を殺して食っているのです。
これは、人間だけでなく、全ての生物に生まれた段階で避けられない業です。

要するに、毎日、生きているだけで業を背負っている生き物が我々です。

これを根絶するのは不可能だと思います。

また、これは可能性レベルの話で確証は無いのですが、恐らく、業が根絶出来ないのは、神仏が、我々、個人や集団レベルを対象にした、「調教教育用に保存してある業」が、消費されないで隔離して保存してある可能性が、あります。

何を言っているのかよくわからんでしょうが(豊河も何を言っているのかよくわかりませんが)、
要するに、神仏が、我々を不幸のどん底に落としたり、逆に尊貴栄光を与えたり、自由に操作するために、使える業を消費させずに、我々の個人の業の保管場所に、貯めておくということです。

と言っても、別に、神仏は、悪意があってやってるわけでなく、教育目的でやっているっぽいのですが。

例えば、感謝の心が足りない人間に、貧乏に叩き落として感謝の心を思い出させるとか、そんな感じにです。




昔話にも似たような話があり、神仏という本来、善玉であるはずの存在が、わざと艱難辛苦を与えている話があります。


昔こんな話があります。比叡山で修行するある僧侶が「山王権現」を深く信仰していました。
山王権現は比叡の守護神です。
彼は大変貧しかったので日夜に財福を願いましたが、いくら熱心に拝んでも一向に暮らしは良くなりません。
決して信仰が薄いとは思わない。なのに…なぜ?
あまり良くならないので、業を煮やし知人に相談したら「財福と言えばお稲荷さんこそ頼むべきだろう。」と言われ、早速伏見にお参りしたそうです。
そうしたらその晩、夢の中に稲荷の壮麗な赤い社殿があらわれました。
それは伏見の稲荷社だったといいます。
そして社殿の扉が開き、そこには稲荷明神が現れていうには「汝は今日は良く参ったのう。誓願によって望むところの財福をとらすぞよ・・・」
僧は「実にありがたいことだ。願ったり叶ったりだ」と一心に伏し拝むと・・・
「…あいや、しばらく。」という声。
その方を見ればいつのまにか、衣冠束帯の山王権現がいます。「稲荷殿、その者に福を与えるのはやめてください!」
「何故でございましょう。」
「この者に今福を与えれば必ず欲に染まり好い僧侶にはなれないのです。私はこの者を育てるため、あえて財福を与えませんでした。」
「相分かり申した。では御免。」お稲荷様は去っていきました。

さあ、この夢を見た僧侶はその後、貧しさは相変わらずでしたが、それに負けずに修行や勉学に打ち込んで、ついに名僧知識と呼ばれる立派な僧侶になったとのことです。


ここらへんの、人間のカルマを自由に操作出来るスキルを、神仏は持っている可能性が極めて高い。
神仏の反対の悪魔とかも同様です。

やつらは、人間が間接的にしか手出し出来ない、個人の業というパラメーターをいじれる可能性が高いのです。

まあ、人間より上位の存在ですので、そのくらいの芸当は出来るのでしょうが・・・。

で、そのために、いつでも自由に使える、善悪のカルマを常に、我々の認識しないところで溜め込んでいるのでしょう。
我々の業の貯蔵庫に、「触るな!神仏専用」フォルダを作っていて、用途用途で、使っているのでしょう。

で、話がそれましたが、苦行者が、わざわざ苦行の選択肢をとる理由は、文字通り修行するためです。

基本は、一段上のレベルにアップするために行われることが多いのですが(少年誌の修行シーンを参照のこと)、その他に、贖罪(前世でやらかしてると今世で自発的に不幸な選択肢を選ぶ)のためだとか、単純に人生の運命に抵抗力をつけるという目的で選択することもあります。

(選択の認識でなくて運命で勝手に苦行させられることも多いです。というより大半がそれ)

で、抵抗力云々の話は、人生というか世界に対して、ネガティブ思考に考えている世界観が根底にあります。

要するに、自分から選択して苦行に慣れておくと、いざ運命の荒波に巻き込まれても、楽々クリア出来るというサバイバル的な発想です。

何というか、わかりやすく例えると、ダイエットの贅肉落としのような物です。

平時では別に太っていても全く問題ないのです。
しかし、いざ、走らされるような状況(例えば、ライオンが動物園から逃げてこっちにダッシュで向かってくるなど)になると、日頃の積み重ねが物を言います。

贅肉が付いた状況では走ってもすぐ追いつかれてジ・エンドになります。
しかし、普段からダイエットという苦行で、贅肉を落としていれば、いざという時も、問題ありません。

受験で志望校にギリギリ受かるレベルだと、受験日の当日、風邪を引いてしまったら、アウトです。
しかし、毎日の努力で志望校を寝てても受かるレベルまで学習を上げていれば、当日、風邪を引いても受かります。

占術的にも、人生は星の巡りで、必ず浮き沈みがあるので(沈みしか無い不幸な方もいらっしゃいます)、日頃から乳母日傘で暮らしていると、いざという時に耐えられないのです。

要するに、不運時にマイナス100の環境に陥った時に、普段から努力でプラス200の努力や苦行をしていれば、不運時でも、プラス100の成果を維持できます。

そういう、脳筋的発想が、苦行思想です。

※ぶっちゃけ、怠け者の豊河は、こんな脳筋的世界観に、一ミリたりとも、関わりたくないのですが、どうも、陰徳レベルが高まるとそうは言っていられない段階になりそうです。

ちなみに、ノブとサルの手柄を横取りした徳川家康の遺訓にも、
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
という有名な遺訓があります。


まあ、要するに日頃から、いざという時に備えて、訓練しておこうぜという、ただそれだけのことです。

まあ、大抵、泰平の世が続くと、精神不安定な人が、今の平和は虚構じゃ!滅びますぞ!日本が滅びますぞー!と力強い主張をしてくれるので、緊張には事欠きません。

戦後の日本のような泰平の世でも、前世紀末に人類は滅ぶとフィーバーしていたのですし、メメント・モリ(死を忘れるな)というのは、いつの世も需要がありますので、誰かが絶えず、油断しないように警告してくれるでしょう。





2018年3月19日月曜日

陰徳無駄使い論への反論の反論その①










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異議あり!






前回と前々回は、前々々回の、
「陰徳の無駄遣いをせずにランクを落として節約しろ」というロジックに反論していました。

今回は、それに再反論します。
※もう、何が何だかわからない。


要するに、選択肢のランクを落とすのは、正しいのか正しくないのかということです。


結論から言うと、正しい場合もあります。
ぶっちゃけ、ケースバイケースです。


基本、人生の選択肢で、ゼロか全てかの二者択一の場合は、選択肢に関して、遠慮することはありません。

生か死かの二者択一で死を選んではいけません。

グレードを落とすのはあくまで、どっちでも問題ない場合のみです。

アイスを食べようとして、500円のハーゲンダッツか100円のラクトアイスを買おうとする場合は、正直、どっちでも良いのです。
この場合は、ランクを下げて、ラクトアイスを選択して、400円を寄進・寄付用に貯金すればよいのです。



幸い、現在の日本社会は豊かで、ある程度のどうでも良い選択肢の機会はいくらでもあります。

節制、質素という選択肢で、持ち分の徳分を無駄に消費しなければ、それが開運につながることは、前々々回の記事で書きました。

陰徳で貯めた徳ゲージは何もしないと、現代日本の豊かさの前に無駄に消費してしまいます。

それを少しでも消費値を減少することで、開運に回すという理屈です。

その理屈を食に特化した開運は以前紹介しました。

実践!陰徳情報 水野南北の開運法(食事制限)と応用。


ただし、あまり大きな人生の選択肢で、妥協すると、逆に不徳になってしまいます。

金や権力は、あればあるほどリスクは高いですが、有効活用出来るからです。

それを使って、陰徳を積めば良いからです。

大名よりも天下人の方が、天下万民のための政治を行えます。



選択時の選択要素は、色々とファクター(要因)があり、一元的には決められないのですが、困った時には、どちらが陰徳を積めるだろうか?という視点を持つのも良いと思います。
無論、それのみで生きるのはどうかと思いますが、選択肢の選択要因として入れておくのは有効な手です。


で、次回は反論の反論その②です。



2018年3月18日日曜日

陰徳無駄使い論への反論その②











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職業選択の不自由




選択肢のグレードを落とすということは、悪であるという話ですが、
選択肢を落とすことは、そのまま人生の選択肢の範囲を狭めることになります。



よく言われるように、上から下には行けるが、下から上には行けないからです。

例えば、金を持っている人間は、金持ち生活でも貧乏生活でもどっちでも出来ます。
しかし、金を持っていない人間は、金持ち生活は出来ません。


親に養われている年齢でも、社会人として就職した後も、下の階層だと、人生経験が薄くなります。

変な話ですが、一般のイメージだと、上の階層の方が不自由で、下の階層の方が自由で人生経験豊富なイメージがあります。
しかし、実際には逆のことが多いのです。

理由は、時代が変わって、あまり身分による義務が無くなったため、金持ちが自由に行動出来るようになったからです。
金と地位がイコールでなくなったため、金持ちが地位の義務に縛られずにいられるようになったからです。

今で言うグローバル化、ノマド化です。

逆に、低階層は、行動の自由も何もかも金欠に縛られて、人生経験が形成出来ないのです。

これも、資本主義が進み、貨幣制度が隅々まで行き渡った結果、通貨(金)が無いと何もできなくなったからです。

地域コミュニティが崩壊して個人が分断化した結果でもあります。




一例を上げれば、旅行などでしょう。
貧困状態では、国内も国外も旅行すら行けないのです。
他国の文化を見ることは人生経験を高めますが、その機会すら無いのです。

これは昔でも同じで、旅が出来る人というのは、豊かな人でないと出来ません。
旅の途中は生産活動をしないので、金を稼げないからです。

昔の時代に旅が出来るというのは、相当豊かな人でないと出来ないのです。
※旅芸人など旅が本職の人は別ですが。



もちろん、下から上にも行けないことはありません。
卑賤の身から立身出世して波乱万丈の人生を経験する人間はいますが、そういう人は例外中の例外です。

大半の人の実例は、金が無ければ、不自由なのです。



実際、現在の日本の少子化は、原因の大きな要因として、若者の貧困があげられています。

賃金が低下し、非正規雇用が増加した現代では、マイホームは愚か、結婚、子育てすら贅沢品なのです。

現代では、一握りの高所得層と大半の低所得層の、二分化したアメリカ型のディストピアの社会になりつつあります。

下手に人生の選択肢のグレードは落としてはいけません。


家が貧困だった人は、よほどの才能が無ければ、そのまま下層のままです。

学校に入っても、他の学生が塾で勉強している間も、アルバイトや家事をしなくてはいけません。

逆に、裕福な家の子供は、アルバイトも遊びも勉強も全部選択出来るのです。





経験値が足りない


人間は平等であるというのが建前ですが、実際は違います。
見かけの物理的構造は同じでも、中身は天と地の差が出ているのです。

その差を分けるのが、経験値です。



例えば、スライムが二匹いたとしましょう。

片方はレベル1のスライムで、片方がレベル100でカンストしたスライムです。
この二匹は見た目も全く同じスライムですが、もはや別の生物です。



これは人間にも当てはまります。

凡夫と釈迦やイエスは同じ人間で物理構造も全く一緒です。
しかし、中身の経験値が違うのです。
そのため、結果として全く違う生物と言っていいほど違ってしまうのです。

逆を言えば、同じ経験値さえ積めば、同じになるのです。
釈迦やイエスと同じ経験値を凡夫が積めば、彼らも釈迦やイエスと同レベルになれるのです。



聖典経典古典が重要な意義はここにあります。

古の聖賢君子と同じ経験値を積めば、同じ聖賢君子になれるのです。

例えば、以前も言いましたが、わかりやすいのが、観音経です。

法華経の中でも独立した存在になっている観音普門品(通称観音経)ですが、中身を見ると、ひたすら、念彼観音力~の羅列が続いて、リボビタンAのファイト一発の如く、観音菩薩がいかに危機一髪で救うという事例が続く、ドヤ顔経典です。

これは、要するに、観音菩薩というのはこういうことをする存在であるという実例集なのです。

観音菩薩はこういうことをする→だから、逆を言えば、これをすれば、観音菩薩と同じレベルになれますよ、ということでもあるのです。

仏教は元々、成仏を目指す宗教です。

まあ、成仏の定義は、宗派によって違いますが、大乗仏教の菩薩の概念は、こういうことをする存在が仏だと考えられているのです。



成仏というのは各宗教宗派の、最終的な理想境地です。

例えば、儒教ならば、徳が高く人民を治める君主が成仏です。

それが実現可能かは別問題ですが、こういう風に生きろ行動しろ思考しろという、行動計画書や命令書が聖典経典古典なのです。
※逆に、これはやるなという失敗例も載せていますが。


そして、これらの宗教的経験は、金がいります。
一般のイメージに反して、宗教というのは金がいるのです。

人生の選択肢でグレードを落とすと、金や権力が用意出来なくなり、宗教的修行や陰徳が出来なくなります。


つまり、人生の選択肢で妥協してはいけません。

間違っても、ダメな方に選択してはいけません。

上から下にはいけますが、下から上に行くのは非常に困難です。




さて、次回は、前回と今回の「無駄遣い論への反論」に対して、さらにひっくり返して、再反論しましょう。







2018年3月17日土曜日

陰徳無駄使い論への反論その①










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贅沢は味方だ





前回は、運(陰徳ポイント)の無駄遣いをやめるために、節約生活をしろという話をしました。

しかし、そもそも、そんな苦行僧のような生活をして人生楽しいのでしょうか?

そもそも、人間は不幸を嫌がり幸福を求める生物です。

苦を回避して楽を求めると言ってもいいでしょう。

思いっきりその、生命の本質に逆行しています。



ここらへんが、因果応報論の変な論理の一つで、今までちらほら述べてきましたが、因果論をとことん追求すると、変な結果になりやすいのです。

よく、無意識の選択で、良い選択肢を蹴って、苦労する選択肢を選んでしまうという話があります。
父親がダメ男だった娘が、成長するとなぜかダメ男に魅力を感じて結婚してしまうなどの話は、皆さんもよく耳にするかと思います。

上記は子供の頃の家庭の環境が、無意識的に大人になっても人生を左右するという例ですが、それを意識的に行おうと言うのが、前回からの因果論から来るライフスタイルです。




まさに人を不幸にする邪教の論理です。

抜苦与楽を施すのが、宗教の役割ですが、なぜあえて、衆生に抜楽与苦を施すのか?

およそ、人生はより高いところを目指すべきであり、そのために克己努力するのです。

妥協して低いところに行ってはいけません。

受験ならば、偏差値が一つでも高いところを目指し、就職ならば賃金が一円でも高いところを目指さなければいけません。

寸土を争い寸利を奪う。




弱肉強食のこの大自然の中で、グレードを下げることは、死に繋がります。

上記のダメ男の例ですと、およそ生物の牝にとって、配偶者の強弱は自分と子供の生死に関わります。

ランクを下げて、弱い男と配偶することは悪であるといえます。

もっと人間的に、恋愛の分野だってそうです。

つい最近まで、家単位の結婚の方が個人の恋愛よりも上位の優先度だったので、好きな異性と結婚するのはまず無理でした。

大半がお見合い結婚で、恋愛などは美男美女の世界の話だというのが、日本の一般の観念でした。

自分の好きなことをやれるのが近代以降の個人主義です。

逆を言えば、せっかく手に入れた近代以降の自由社会に逆行する観念だと言えましょう。

昔の人間は、自分の意に沿わない結婚相手やら就職先やら選択を矯正されてきたのです。

選択肢のランクを下げる、グレードをわざわざ下げるというのは、贅沢になれた現代人のセンスなのです。


そして次回も反論の続きです。



2018年3月15日木曜日

運の無駄遣い論










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幸福量保存の法則



イギリスのサッカー選手のボビー・チャールトンは、ポーカーが弱く、一度も勝ったことがなかったそうです。

しかし、それを補うように、彼の人生は、強運続きでした。

飛行機事故で生き残り、大怪我からも復帰。
イギリスサッカーの黄金期を築き、国家の代表選手となり、英王室からサーの称号まで貰いました。

本来、このような強運の持ち主はギャンブルにも強いのですが、彼は、ギャンブル(ポーカー)が弱かったという事実があります。

これは、運というものに対して、ある示唆を与えます。

すなわち、運の総量には定量があり、他の分野で無駄遣いすると、大事なところで運が足りなくなるのではないかと言うことです。

この「運が定量であり、無駄遣いをすると減る」というのは、つい最近も記事にしました。

因果の想定範囲内(運命)と想定範囲外(自由)について まもって守護存在! 前編

上記記事は、不注意などの事故を防止するために運を消費してしまうという話でしたが、話しの構造としては全く一緒です。

どうでもいい時に、運を使ってしまうといざと言う時に困るという話なのです。




幸福になってはいけない



さて、どうでもいい時に運を使ってしまうというのは、具体的にどうすればいいのでしょうか?

それは、一般に言う、幸運な時を想起すればわかりやすいのです。

では、幸運な時とはどのような瞬間か?

要するに、「ラッキー♪」と思わず言ってしまう瞬間です。

そういう時は、因果応報の言う善因楽果、過去の善業から来る幸運を使ってしまっているのです。

不注意によるリスクの幸運な回避は、ラッキー♪ですが、無駄に幸運を使ってしまっています。
自分へのご褒美♪とした豪華なスイーツは、無駄に幸運を使ってしまっています。

幸福量保存の法則により、使ってしまった幸運は、自分の幸運ストックからすでに離れてしまっているのです。

以前の記事で、開運法で有名な水野南北の食事の節制を紹介しました。

実践!陰徳情報 水野南北の開運法(食事制限)と応用。

これも、同様の発想から来ています。

個人における一生の運の総量は一定であり、使えば使うほど無くなる。
ゆえに、運を浪費しなければ、その分、他の分野で幸運になる。
食事は運の一つであり、量と質を節制すれば、その分、幸運が減らずに済み、人生は開運する。

そういう発想です。

当然、この発想を元にすれば様々な応用が効きます。

単純に言えば、衣・食・住全部に応用が効くでしょう。
貧・病・争の裏側である富・健康・平和でも同じです。

つまり、粗末な服を来て、マズイ飯を少量食べ、あばら家に住み、常に貧乏で、病院にもいかず(健康法などもせず)、敵に負け続ける。

そんな人生です。

そんなのはいやだ(アンパンマンOP風)

どう考えても、嫌な人生ですが、なにせ、古代からの開運法はこんな感じです。

あまりにも、ツッコミどころが多いので、あまり現代ではオススメ出来ないのですが、およそ開運法としては、昔はこれが主流でした。

古き良き、つつましい日本人として、節制は基本でした。

戦時中にはさらにストレートな「贅沢は敵だ」というスローガンもあったくらいです。

開運法どころか、人生観において、昔の人のデフォルトだったのです。



損して得を取れ


この理論には欠点もあるのですが、一応、この理論を真として考えてみると、上記したように、応用がいくらでも効きます。

運の総量をへらすために、自分の生活ランクを落とすのです。

飛行機に乗る時に、いつもはファーストクラスに乗っていたならば、エコノミーにしてみるのです。

ディナーに高級フランス料理を予定したならば、中級フランス料理にしてみるのです。

人生の快楽において、一段グレードを、下げて見るのです。

それが運の節約になるのです。

投資論において、資産形成の方法は、結局3つしかありません。

①収入を増やす
②支出を減らす
③運用利回りを増やす

この3つです。






いくら、陰徳で福徳を増やしたとしても、陰徳の無駄遣いをしていたならば、ザルに水を注ぐがごとしです。

ましてや、悪業をしていたならば、永遠に陰徳の資産形成は不可能です。

善因善果(楽果)の幸運を、無駄に浪費してはいけません。
亭主が一生懸命、外で稼いできても、妻がホストクラブで浪費していれば、家系は苦しいのと一緒です。

贅沢は敵なのです。

ついでに、グレードを落とした分のお金や時間などのリソースを陰徳に寄付・寄進すれば、浪費という禍を転じて福と為すことが出来ます。

これこそが、ほんとの損して得(徳)を取れという格言の真の意味です。

自分の果報の贅沢を節制して、徳に回すのです。

戦国時代の三傑はノブとヒデとヤスの三人ですが、最終的に天下を制したのは、一番、どケチ野郎の家康です。

彼は、節制の効果である、陰徳無駄遣い対策理論を無意識に体得していたのです(たぶん)。


で、長々と書いてきて何ですが、次回はこれに反論(するのかよ!)していきましょう。












2018年3月13日火曜日

業のおすそ分け理論













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愛を込めて



世の中には、法の目を掻い潜る賢しい存在がおり、法を悪用して、自分の利益に変える輩が、一定数の割合で存在しています。

因果応報という本来、人の道徳を向上させる法則を、悪用する輩もその一種です。

例えば、ストーカーがいるとします。
対象の異性をゲットするために、策を練ります。

で、神社で対象の幸運を祈ります。
この時、相手をゲットしようという祈願はせずに、ただ相手のために祈願します。

そうして、陰徳を積んで、神仏の覚えめでたくその功で、相手をゲットするという、正道なのか邪道なのかよくわからない術法をやる小賢しい人間もいるのです。




因果応報や陰徳は、実はそもそも、根底に運命を操作しようとする自己本位の恣意的な発想が元にあります。

陰徳を積んで運命を変更して開運しようという発想がもうそもそも論としてエゴまみれだからです。

まあ、ようするにこのブログがそうなのですが。


個人のエゴで使う黒魔術と、大して変わりません。
やってることは善業で白魔術っぽいですが、どっちみち自分の欲望を叶えるためにすることには変わりが無いのです。

つまり陰徳そのものが、呪術行為と言えます。

我々は、陰徳というとなんだか立派な行為をしているようですが、やっていることは、怪しい呪術をやっている呪術師と大して変わりが無いのです。

ある意味、好きな男の子のことを知りたくて、コックリさんをやっている女子中学生と同じです。

陰徳をやれば開運するとか冷静に考えれば、正気の沙汰ではありません。

AIがプロの碁人を淘汰する21世紀になっても、やっていることは古代~中世の呪術行為なのです。

※まあ、厳密には徳を積んでいくと、精神が浄化されるのか、こうした自己本位の精神も矯正されていくのですが。
というか、神仏が無理矢理にでも矯正します。


で、そんな業を利用した呪術応用ですが、以前から、悪業は善業で相殺されるか否か?という問題を何度か話題にしています。

善業と悪業は相殺されるや否や?

で、結局、ここらへんのシステムは、ブラックボックスなので、わからんというのが、豊河の結論です。

まあ、相殺されるにしてもされないにしても、やることは、善業を積み、悪業を抑止(懺悔も)することです。

というか、ブラックボックスである以上、考えるだけ無駄であり、やることが決まっている以上、それをやるしかないからです。

しかし、相殺されないと考える人達もいれば、相殺されるよ派も世の中には結構います。

その亜種の一つに、「通貨媒体を通しての業移譲」があります。





金で愛は買えないけど愛は金で買える



お金、通貨は所詮ただの物質なのですが、人間は、物質に抽象的価値を付与出来る生物です。
この紙切れが、人間の命を左右出来てしまいます。

しかも、これを上手く使うと、業そのものを操作することが出来ます。

どういうことかと言うと、お金は物質(または電子上の情報)ですが、物質は媒体になります。

業(念でも気でも何でもいいのですが)は媒体に乗せることが出来ます。

これは、神社仏閣やら陰陽師の御札がそうですし、お墓の墓石や仏像なども全部そうです。

ここらへんの話は以前、記事にしました。↓




で、お金も物質なので、業の媒介に出来ます。

どういうことかと言うと、自分の悪業の因縁を、他人にお金をあげる善業で相殺したとしましょう。

この時に、自分の悪業は消えるのではなく、お金の譲渡と共に、相手に移譲される可能性があるという話です。

この理屈は、わりかし有名な話で、マッサージや占い師や拝み屋などの仕事は、お金で相手の業を引き受けてしまうとよく言われています。

よく、霊能者がお金を受け取らない、後ろの守護霊から禁じられているという話がありますが、あれも、お金を貰うと、業が移譲されてしまうからです。

実際に、術の中には、なにか高価な物を落として、拾った人に災害を押し付けるというそのものズバリの術があります。

これは、元々、お金を相手に与えることで、何らかの業の押しつけや交換がされているというパス(回路)があるからこそ、こういう術が成立しています。

元々、通貨(お金)とは魔術的な物で、対象の物々交換のやりとりを、抽象的に別の価値基準に移行して、操作するという摩訶不思議な物です。

逆に言えば、太古の人と自然と神が未分化状態だった曖昧な時代。
そこに、通貨という魔術で一段下の具現化した状態に持ってきたとも言えます。

古代の人間は意識と無意識が曖昧で、みんな魔術師でした。

しかし、言語や文字の発明や通貨の発明によって、それまで必要だった魔術の力が、物理的な媒体に移譲されて使えなくなったということかも知れません。

アフリカの部族が視力8.0もあるのは、サバンナの大地で必要だからです。
深海の生物が視覚がなくなっているのは必要がなくなったからです。
進化生物学的に見ると、そういうことです。

要するに、何を言っているかと言うと、貧しい人たちに寄付したりするのは、自分の業を押し付けているという、ろくでもない論理の帰結です。

もっと言えば、途上国がいつまでもダメダメな理由がここにあるのではないか?という新自由主義的な自己責任論にもなります。

弱者を助けるという陰徳は本当は罪悪なのではないでしょうか?
陰徳は実は自己満足というより自分だけが業的に得をし、相手に損を押し付ける反道徳的な黒魔術的行為ではないでしょうか?


よし、考えなかったことにしよう。
(思考停止)

2018年3月8日木曜日

因果の想定範囲内(運命)と想定範囲外(自由)について まもって守護存在! 後編











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。







前回、リスク対策をとらないと陰徳が危険防止のため自動で減算してしまう!
という、話を前々回からしています。

それで、当然、連鎖する項目として、

1)リスク対策ってどうするのか?
2)どこまでが自由意志(or運命)なのか?

という話になりました。


前回、1をやったので、今回は2をやりましょう。




想定内



そもそも、リスク対策と言うのは、リスクに対して、人間が意識して対処する物です。

前々回から言っているように、リスクが降り掛かって来た時に、対処していないと、神仏自動ガードパッシブスキルが発動して、陰徳Pを減らしてしまうからです。

しかし、ここで素朴な疑問が起きます。

そもそも、人間はリスク対策などが本当に可能なのでしょうか?
と。


因果応報の法則に従えば、リスク(災難、不幸、苦)は、過去の自分の不徳によるものです。

要するに、自業自得なわけです。

それを解消するには、原因分だけ(利子がつかないと仮定して、苦しめばいいわけです。

しかし、リスク対策をすれば、その分、因果が解消されることなく、再び、因果応報のブラックボックスに回収されてしまいます。

そして、原因分だけ苦しむイベントが現象化するまで、因果応報HDDに格納されたままだということです。



要するに、苦という現象が起きないと、悪徳ポイントは減らないと言う悲しいシステムだと言うことです。

他の回避法を使っても、先送りするだけであると。

可能性としては、悪徳の反対の陰徳で、マイナスをプラスで打ち消すという方法が考えられます。
借金が100万円あっても、100万円稼げば、借金はチャラになります。

しかし、悪行と善業のポイントは別換算で計測されているという話も多く、結局、善業ポイントは幸福で、悪業ポイントは苦でしか、清算出来ない可能性も高いのです。

仮に相殺出来たとしても、今度は陰徳ポイントが必須になるということです。
苦か、陰徳かどちらにしても、災難を消失させるには、何らかの代償が必要なのは変わりません。

そうすると、そもそもリスクに対して、注意して災難を避けることは、意味が無いということになります。
遅かれ早かれ、苦か陰徳かで、カルマを清算しなければいけないからです。



さらに、リスク・災難に対しての陰徳の神仏自動防御は、陰徳でのカルマ清算ですが、そもそも、陰徳を使うような危険行為をやるのは、業の為せる技です。

危険な環境や危険な行為と言った物は、徳があれば実施しません。

そして、陰徳が無ければ、そのリスクを回避出来ません。

要するに、リスクがある状況も、リスク対策もどちらも、もとから業、運命次第なのです。




想定内2


そもそも、この何もかも想定通りという、全てが運命の中という考えは、どこまで正しいのか、わかったものではありません。

運命というものを分析する占術や宗教は、昔からこの問題に直面してきました。

陰騭録の本文でも袁了凡が当初は運命論者になっていたように、人間の後天的な行動の価値を無かったことにしてしまいます。

全てが運命通りならば、特にすることは無いからです。

陰隲録の場合は、運命は変更できるという設定でした。

しかし、もっと考えてみると、占術で見ることの出来る運命がしょぼいだけで、もっと上位存在が閲覧可能な運命は、そこらへんも踏まえて、もっとカッチリキッチリ決まっている可能性があります。

要するに、運命が悪くて、それを改変しようとする動きすら運命なのです。

初めからその人の運命として
「運命を改変しようとする運命」
があるという、ややこしい話なのです。

例えば、豊河がこの前、宿曜経の本で自分を見てみたら、「この日は施しをするのに良い。因果応報で自分に返ってくる。天(宿曜経は仏教なのでこの場合の天とは、天部や神道の神々)を祀るのによい」
とありました。

他の占術結果を見ても、似たような結果で、要するに、こんなブログで陰徳やパワスポ記事を書いて、運命を更新しようぜと、小賢しいことを言っているのも、単に運命通りの可能性があります。

要するに、結局、我々は運命通りの人生を送っている可能性があるのです。




自由



何度か書いたような記憶がありますが、この運命はあるのか無いのか問題は、宗教上では神のメンツに関わります。

基本、宗教では神は偉い存在という設定ですので、運命という人間にはどうすることも出来ない問題も、神のコントロール範囲内ということにしないとメンツが立たないのです。

文明度が低いレベルならまだしも、巨大帝国を建てて、皇帝という現人神を創出するような文明になると、自然界の神々よりも、上位の絶対神を構築しなくてはならなくなり、必要的に、因果や運命を超えた存在を人間はひねり出すのです。

逆に言えば、人間に対応不可な運命の問題のために、神は作り出されたと言えます。

とは言え、逆に時代が下って今だともっと神の価値は下落していますが。
昔は、民主主義以前の封建主義時代だったこともあり、神や仏は全知全能で、運命はキッチリカッキリ決まっているというのが一般的でした。

当然、これは身分制度などの社会システムの固定化に繋がります。

一生、生まれた土地や職業や身分から変わらないわけです。

運命を変えるというのは、ある意味、社会革命と同様です。

まあ、問題は、その運命のスケジュール自体が、その行動をも予定されている可能性があるということですが・・・。

運命論は、それなりに効果があり、極めれば、悟りになります。
※陰騭録本文の袁了凡は初め運命論者でした。

宗教教義的には、世界が自分通りに行かないという諸法無我に繋がるからです。
娑婆からの遠離に繋がるので、出家者としては、仏教の四法印になるのです。

逆に言えば、諸法無我の範囲内に、運命論が入ると良い変えても良いかもしれません。

運命は変えられるという話にしても、所詮は、六道の中をぐるぐる廻るだけのことです。

永遠に安住の地は無い。

さまよえるオランダ人は永遠に海の上を漂流しますが、六道の海を永遠に徘徊するのが、生命の本質です。

運命論に諸法無我にしろ、共通しているのは、不自由ということでもあります。

自由と不自由の相剋こそが、この問題の核となっています。

で、最後の最後まで、人間には自由は無いというのが、諸法無我や運命論です。





近代以降の教育を受けた現代人から見れば、自由が無いというのは、狂った意見ですが、少なくとも、昔には自由など無かったのです。

逆を言えば、近代以降や未来に生まれなければ、自由という概念は無かったわけです。

で、その生まれというのは結局、運命なのです。
近代以降に生まれたというのは、運命以外の何物でもありません。
たまたま、近代以降のこの時代に生まれたからこそ、自由という言葉が言えるわけです。

つまり、自由が言える時代に生まれるという運命があって、それに縛られているわけです。

その意味で、全ては運命通りで、人間には自由は無いのです。

とは言え、全てが運命通りと言っても、実質的に、昔よりも現代、現代よりも未来において、自由度は高まっています。

人間は今後も、社会システムが変わり、人間自身もガンガン改造されて、AIと融合したりしていくでしょう。

文明レベルも中身も変わった人間は、過去の人間よりも自由な存在です。

寿命だって、不老不死になれるかも知れません。

ちなみに、これが極まったのが、六道の天道です。
まあ、要するに、天国のことです。

ある時代や、未来に生まれるのは、運が良くないと出来ませんが、その運というのは前世の徳如何です。

そして、同じく、天道に生まれるのも同様の理由です。

天道は下の人間道よりも、自由な世界です。
仏教では、天部の連中がここの生き物です。
※神道の神々も仏教的にはここ。

~自在天(天神菅原道真公だったら天満自在天)とか言いますが、要するに自在(自由)な存在です。

お金だろうが美食だろうが美女だろうが、自由自在です。

人間で言うと、王様や金持ちの家に生まれるのと同じような感じです。
※まあ、上位クラスの家に生まれるとそれはそれで色々と義務がありますが。

この自由と言うテーマは、仏教や道教(仙道)でも、重要なテーマですので、いずれ記事を改めて、追求しましょう。