2018年3月13日火曜日

業のおすそ分け理論













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愛を込めて



世の中には、法の目を掻い潜る賢しい存在がおり、法を悪用して、自分の利益に変える輩が、一定数の割合で存在しています。

因果応報という本来、人の道徳を向上させる法則を、悪用する輩もその一種です。

例えば、ストーカーがいるとします。
対象の異性をゲットするために、策を練ります。

で、神社で対象の幸運を祈ります。
この時、相手をゲットしようという祈願はせずに、ただ相手のために祈願します。

そうして、陰徳を積んで、神仏の覚えめでたくその功で、相手をゲットするという、正道なのか邪道なのかよくわからない術法をやる小賢しい人間もいるのです。




因果応報や陰徳は、実はそもそも、根底に運命を操作しようとする自己本位の恣意的な発想が元にあります。

陰徳を積んで運命を変更して開運しようという発想がもうそもそも論としてエゴまみれだからです。

まあ、ようするにこのブログがそうなのですが。


個人のエゴで使う黒魔術と、大して変わりません。
やってることは善業で白魔術っぽいですが、どっちみち自分の欲望を叶えるためにすることには変わりが無いのです。

つまり陰徳そのものが、呪術行為と言えます。

我々は、陰徳というとなんだか立派な行為をしているようですが、やっていることは、怪しい呪術をやっている呪術師と大して変わりが無いのです。

ある意味、好きな男の子のことを知りたくて、コックリさんをやっている女子中学生と同じです。

陰徳をやれば開運するとか冷静に考えれば、正気の沙汰ではありません。

AIがプロの碁人を淘汰する21世紀になっても、やっていることは古代~中世の呪術行為なのです。

※まあ、厳密には徳を積んでいくと、精神が浄化されるのか、こうした自己本位の精神も矯正されていくのですが。
というか、神仏が無理矢理にでも矯正します。


で、そんな業を利用した呪術応用ですが、以前から、悪業は善業で相殺されるか否か?という問題を何度か話題にしています。

善業と悪業は相殺されるや否や?

で、結局、ここらへんのシステムは、ブラックボックスなので、わからんというのが、豊河の結論です。

まあ、相殺されるにしてもされないにしても、やることは、善業を積み、悪業を抑止(懺悔も)することです。

というか、ブラックボックスである以上、考えるだけ無駄であり、やることが決まっている以上、それをやるしかないからです。

しかし、相殺されないと考える人達もいれば、相殺されるよ派も世の中には結構います。

その亜種の一つに、「通貨媒体を通しての業移譲」があります。





金で愛は買えないけど愛は金で買える



お金、通貨は所詮ただの物質なのですが、人間は、物質に抽象的価値を付与出来る生物です。
この紙切れが、人間の命を左右出来てしまいます。

しかも、これを上手く使うと、業そのものを操作することが出来ます。

どういうことかと言うと、お金は物質(または電子上の情報)ですが、物質は媒体になります。

業(念でも気でも何でもいいのですが)は媒体に乗せることが出来ます。

これは、神社仏閣やら陰陽師の御札がそうですし、お墓の墓石や仏像なども全部そうです。

ここらへんの話は以前、記事にしました。↓




で、お金も物質なので、業の媒介に出来ます。

どういうことかと言うと、自分の悪業の因縁を、他人にお金をあげる善業で相殺したとしましょう。

この時に、自分の悪業は消えるのではなく、お金の譲渡と共に、相手に移譲される可能性があるという話です。

この理屈は、わりかし有名な話で、マッサージや占い師や拝み屋などの仕事は、お金で相手の業を引き受けてしまうとよく言われています。

よく、霊能者がお金を受け取らない、後ろの守護霊から禁じられているという話がありますが、あれも、お金を貰うと、業が移譲されてしまうからです。

実際に、術の中には、なにか高価な物を落として、拾った人に災害を押し付けるというそのものズバリの術があります。

これは、元々、お金を相手に与えることで、何らかの業の押しつけや交換がされているというパス(回路)があるからこそ、こういう術が成立しています。

元々、通貨(お金)とは魔術的な物で、対象の物々交換のやりとりを、抽象的に別の価値基準に移行して、操作するという摩訶不思議な物です。

逆に言えば、太古の人と自然と神が未分化状態だった曖昧な時代。
そこに、通貨という魔術で一段下の具現化した状態に持ってきたとも言えます。

古代の人間は意識と無意識が曖昧で、みんな魔術師でした。

しかし、言語や文字の発明や通貨の発明によって、それまで必要だった魔術の力が、物理的な媒体に移譲されて使えなくなったということかも知れません。

アフリカの部族が視力8.0もあるのは、サバンナの大地で必要だからです。
深海の生物が視覚がなくなっているのは必要がなくなったからです。
進化生物学的に見ると、そういうことです。

要するに、何を言っているかと言うと、貧しい人たちに寄付したりするのは、自分の業を押し付けているという、ろくでもない論理の帰結です。

もっと言えば、途上国がいつまでもダメダメな理由がここにあるのではないか?という新自由主義的な自己責任論にもなります。

弱者を助けるという陰徳は本当は罪悪なのではないでしょうか?
陰徳は実は自己満足というより自分だけが業的に得をし、相手に損を押し付ける反道徳的な黒魔術的行為ではないでしょうか?


よし、考えなかったことにしよう。
(思考停止)

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