2018年4月29日日曜日

【豊河の美食倶楽部】テロワール・カワバタ TERROIR Kawabata(東京都千代田区 外神田2丁目1−3 東進ビル新館1階)









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なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





反省


美味しい美食スイーツを、オサレに紹介するコンテンツの美食倶楽部。

が、よくよく考えてみれば、過去記事を見るに、海原雄山の如くケチをつけているだけではないか?

そもそも、世界中で貧困の子供が飢えている時に、料理にケチをつけるとは一体全体何事でしょうか?

こんなことでは、いずれ、神々に、貧困に落とされて、一粒の米でもありがたがるように、洗脳される可能性があります。



そう、どんな食べ物を出されても、ありがとうの言葉が言えるようになるのが、出来た人間ではないでしょうか?

やれ美食だのスイーツだの五欲にまみれた浅ましい、行動を豊河は反省しなければいけません。






だが、断る!!






  







と、いうことで、今回もフレンチです。
(一ミリたりとも反省していない豊河)

とは言え、今までの記事がダメ過ぎたので、ちゃんと一品一品写真を取って詳しく記事化。







テロワール・カワバタ


テロワール・カワバタ のHPや食べログで、店の詳細は載っています。


食べログで予約して、8,500円のコースを食べに行きました。


場所は、JR御茶ノ水駅。

そこから、歩いて数分です。
ただし、トラップがあり、HPの店舗情報にもありますが、

✥✥✥JR御茶ノ水駅✥✥✥ 
 御茶ノ水駅は出口が2か所ございますが、「御茶ノ水橋口」をご利用ください。
 ※地図上では聖橋が近いのですが、聖橋を降りる階段を見過ごすとぐるっと周回、横断歩道も近くにはございませんので、遠回りとなります。
 
 御茶ノ水橋口降車
 改札『右』→
 御茶ノ水橋『まっすぐ』→
 橋を渡り切ると『東京医科歯科大学』の交差点『渡らないで右!』→
 右手には丸の内線の入口『まっすぐ』→聖橋が見えてくる『下をくぐる』→
 50mほど進むと「テロワール・カワバタ」到着 

など、一瞬、迷います。
東京に住んでいる豊河も、一瞬迷ったので、迷子にならないように、ちょっと早めに行ったほうがよいかも知れません。

特に、ドレスコードは無いので、ラフな服装で行きました。





メニュー

で、店内の席の、神田川やJRやニコライ堂やらが正面にある窓側に座席。

今回はちゃんと料理の写真をとってきました。
というか、グルメ記事なら、あたりまえですね。
今までの記事がダメすぎたのです。




魚料理のパイ包み焼きは、この店の看板みたいなもので、ここの店の記事だとよく出てきます。
今回はこっちを選択。

肉料理は、牛か羊。
今回は牛で。

デザートは、芋プリン(紅はるかのクレームキャラメル)。

食後は紅茶で選択。


で、料理開始!





アミューズ・ブーシュと前菜





茄子のラタトゥイユ。


うん、茄子だな(平凡な感想)。






あ、パンとバター美味しい。

(子供の感想か?)

どうでもいいですけど、酒頼まずに、コーラ頼んでました。
(子供か!)






前菜のフランス産ホワイトアスパラガスの桜海老ムースリーヌソース。


ちなみに、前回のフレンチの店も写真とか載せてなかったですけど、前菜がホワイトアスパラガスでした。
やっぱり今の季節、どこも同じようなメニューなんですねえ。
無論、ソースとかは違いますけど。

で、海老とあとよくわからん隠し味のソースで、うまうま、とホワイトアスパラガスを食べる豊河。

まあ、アスパラガスだな。
(語彙の少ない人間の感想)

どうでもいいですけど、豊河は小さい頃からグルメ漫画を読んできましたが、料理の感想の語彙が少ないですね。


やめようかなこのコンテンツ。




サプライズ





と、ここで、なぜか、メニューに載っていないカワバタシェフからのサービス料理が登場。


自家製スモークサーモンである。

パイ包み焼きと同時に、この店の看板商品でもある。



しっとりとした薫り高い味の燻製サーモン。
店員さんが、パンにバターを塗って上に載せるとよいとのこと。

ごめん。
普通に食ったほうが美味いと思うぞ。

どうでもいいけど、パン食い過ぎだろ。三個目だぞ。





フォワグラのロワイヤル茶碗蒸し風







スープと思いきや、下半分は茶碗蒸し風。

上の具はフォワグラとキノコ。




うん。フォアグラだな。




魚料理








真鯛のパイ包み焼き。

メインの一つ。

この亀みたいなパイの中に具材が入っています。





ソースは、グラタンとかシチューとかの味を高度にした感じです。




中には魚とか海老とか野菜とか。

まあ、普通だな(感想)。
いや、まずくはないけど、それなりに美味しいけど。




肉料理







北海道産牛フィレ肉のポワレ。





肉の焼き方か下ごしらえか、多分後者で、食べやすいように柔らかくしてある。


ステーキ肉!
という感じの肉々しい食感ではなく、ホロリと崩れるような歯ごたえ。

おお、何となくグルメ記事っぽく書いてるぞ俺。







おまけで付いてきたじゃがいものグラタンチーズ。

チーズが皿からうにょーんとスプーンを上げても伸びてきて吹いた。





デザート






グレープフルーツの寒天。



一見、普通のグレープフルーツなのだが、寒天なので、




よく見ると、寒天である。
(当たり前だろ)



ちなみに、食べてみると、果肉が多い寒天なので、あまり実物と味が変わらない。









紅はるかのクレームキャラメル。






ちなみに、今切断した部分が何もしなくてもぷるぷる動いていました。

お芋味のプリンです。



まとめ


さて、というわけで、フルコースでした。




食後のレモンティーと焼き菓子。


前回の店と比較して、お客の対応に丁寧な印象を受けました。

帰りに、カワバタシェフが自ら出てきて、名刺を頂戴してもらいました。
しかも、出口ドアの外まで見送りして最敬礼という居酒屋チェーン店のような応対。

接客サービスは店員さん含めて、非常に丁寧。
店内に、有名人のツーショット写真(小泉首相とかもあった)とかもあったくらいですが、それなのに、とくに傲りは見えません。

また行きたくなる店として、リピート率の高さはあると思います。





【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑤














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【貧・病・争対策シリーズ健康編】まとめ





なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。









因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。





1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


弁仏論よりも、こっちの方が重要かも。

要するに、「無明」の話です。



無明


前回は、そもそも因果応報やら輪廻転生やらの、仏教のコアな理論が、そもそも怪しいという話をしました。

そして、なぜこんな話をしているかと、これが「無明」の一部だからです。

というか、無明無明って良く言いますが、この仏教用語は一体何でしょうか?


普通に、文字だけ読めば、明るくないこと。暗いことです。
仏教用語なので、要するに、(仏教の)真理で迷いや苦しみにハマってるデフォルトの状態くらいの意味です。

RPGで言う「くらやみ」ステータス状態です。


で、この無明。
仏教の教義では、
執着とならんで、全ての苦しみの原因です。
諸悪の根源と言って良いかも知れません。


四苦八苦が生じるのも、輪廻転生が生じるのも、全部、この無明のせいです。


正にこの世全ての悪。

絶対神ならぬ絶対悪です。

猫も杓子も全ては、この無明が悪いのです。


不景気も戦争も、何もかもこの無明が悪いのです。


と、言うのが仏教の教義です。





で、だから何だという話なのですが、この無明、そのまま、前回までの、業が見えないからわからんという話と同じ話なのです。

元々、我々人間は、業は、全くもって見えません。

かろうじて、今ある現場から、過去の業を推測したり、今現在や未来の業を持って今後の業を推測するだけです。



で、ここが重要なのですが、

この業の不可知論が、無明に繋がります。

そして、その業がわからんということは、実は、我々の存在そのものも、わからんということです。

つまり無明と、同義語なのです。




世界は無明にあふれている


元々、人間がこの地球上の生命で天下をとれたのは、ひとえにそのIQの高さです。


元々、猿程度の存在だった人間は、長い間、木の上や、ちょっと進化しても、洞窟の中で暮らしていた生物です。

しかし、神の導きか、宇宙人の遺伝子操作か、いつのまにか、火を覚え、武器を手にし、言語を発達させ、いつのまにか、この地球上で一大文明を築いてしまいました。

もはや、この地球上で人間に勝てる生物は存在しません。
※強いて言えば、ウイルスとかそんな程度。



この、地上での覇者の最大の功労者はもちろん、知能です。

我々、人間はその知能で作り上げたマシンガン一丁で、虎だろうが熊だろうが、一網打尽です。

昔は苦戦したマンモスだって、雑魚扱いです。




六道輪廻内にしても、我が人道界は、結構上のランクです。
少なくとも、知能を持たない畜生界よりも、上位に位置しています。

が、その人道界の高度に発達した知能と文明ですが、実は、あまり役に立ってはいません。

極端なことを言えば、文明化、農業こそが、人間の最大の間違いだったという意見すらあります。








21世紀にたって、18年も経ちますが、今だに、貧困格差だの、女が欲しいだの、病気だの戦争だの、古代と同じ愚痴をこぼしているのが人類です。

たかが百年くらいしか生きられないのです。 近代化の頃は、人類はすでに全てを知り尽くした!とか、知識人たちは、豪語していました。
が、さらに科学が進むと、逆にわからんことの方が増えて来ています。

世界を解明する科学が、こんな調子ですので、ミクロである我々の人生も、まったくわからんことに溢れています。


人生の一寸先は闇は、比喩でも何でも無く、全く未来はわからないのです。

ストックしている業がわからないということは、人間は未来において、どう業が出るかわからない、つまり無明ということです。



人生、受験に成功して一流大学→一流企業に、順調に進んでいたかと思ったら、30歳で交通事故で半身不随になる業が出たとしましょう。

当たり前の話ですが、本人はこんなことは思ってもいなかったことです。
どんな聡明な人間にだって、こんなことは予測出来ません。

いや、自分は人生のコースを予測出来るし、今までの人生全て予測してきた、という人がいたら、それは単に運がいいだけのことです。

ぶっちゃけ、平和で豊かな時代に生まれただけのことです。

団塊の世代の方々などは、こうした人が多いでしょうが、それ以降の世代の人は、この激動の時代には、もはや無理でしょう。




そして、未知数なのは、自分の人生だけではありません。
他人の人生もそうだし、所属する組織や、所属していない組織。

あらゆる地方自治体や企業や国家や人類の未来もそうです。

ストックされている業がわからないということは、未来がどうなるか全くわからないのです。



業がブラックボックスということは、世界の存在そのものがブラックボックスなのです。

そのため、釈迦は、世界の実相について、「無記」の回答をしています。
不可知論的な回答ということです。

そんなこと考えるより、修行して解脱して苦から離れようぜ!という意味で使われますが、実質的に、不可知なことも重要な要因です。

要するに釈迦ですら、世界について、よくわからんということなのです。

そして、わからんということを知っているという智慧なのです。
無知の知というソクラテスと同じです。

結局、釈迦はこういうブラックボックスを含めた世界全体の概要だけ法則化しただけで、実際の中身はどうでも良かったのです。

※厳密には釈迦の神通力の中に業を見るスキルがあるので、わからんということはなかったと思いますが。



この世界は無明 



仏教(というよりインド宗教)の世界観では、人間を含めた生命体は、輪廻転生します。

仏教的教義だと六道輪廻です。

六道輪廻は文字通り、6つにわけていますが、実際的には、もっと複雑なパターンもあるでしょうが。

で、この六パターンの輪廻。
ぶっちゃけ、ろくでもないものが非常に多い。

元々、輪廻はぐるぐる廻るため円形で図式化されることが多いのですが、しかし、実際は、ピラミッド制です。
上にいくほど人口数が少なく、下に行くほど多い。

これは、天台の教義(十界論)にあるように、我々の住んでいる人界内でも同様にさらに六道があります。
天国から地獄まで全部(+四個)入っている。

例えば、道を歩けば、猫や犬などの畜生道はいますし、発展途上国には餓鬼道が広がっています。

今、みなさんがいる環境だって、ある意味、極楽浄土です。
蛇口をひねるだけで水が出るなんて、昔の人のイメージした天国です。

もちろん、もうちょっと高尚なお説教っぽい話をすると、我々、個人レベルでも、天国から地獄まで心象風景の変化があります。







で、この六道。
我々が性懲りもなくグルグルと輪廻しているわけです。
少なくとも、この現世で、環境や心理的レベルが、ループしているわけです。

で、この六道が、そもそも、無明以前に、大半が、無知蒙昧な状況なのです。

何が無知蒙昧かと言うと、教養とかそういうレベルでなく、普通に、問答無用で、無知蒙昧なのです。

だって、天道とか人道とかならともかく、それ以外って普通に、ヤバイところじゃないですか?

畜生道なんてそもそも教養もへったくれも無い。
IQレベルの無知蒙昧さです。

餓鬼道とか地獄道とか、もう日常が酷すぎて、無知蒙昧とかどうでも良いレベルでしょう。

修羅道なんて考えることは、いかに大勝利することしか頭に無い(どこぞの題目宗教か?)。

ピラミッド的人口差があるので、要するに六道の住人の大半は、無知蒙昧な無明状態にあるのです。



これは、人間界の内部でも同じです。
やはり、天国から地獄まで上下高低の差があります。

我々が、呑気にブログなど読んでいる間の、こうしている間にも、世界の何処かで飢えて死ぬ子供や、戦争で死んでいったり殺したり殺されたりしているのです。

そもそも、人間界は自由度が高いため、死後の行先は固定化されていません。
他の五つの世界に行く因を常に作っています。

瞬間的に、天国行きの行為をしたり、地獄行きの行為をしたりします。

しかし、大半の人間はこうしたことに無頓着です。

運命の流れるまま、環境に適応したまま、身口意の行為(業)を実施してしまいます。

で、死ぬ間際になって、慌てて、宗教にすがったりするのです。

日本だと、昔から、念仏は悪人の宗教と言われてきました。

藤原氏などがいい例ですが、みんな行きている間は、密教で現世利益を願います。
が、年をとってくると、今までの権力闘争や悪政の報いで、地獄に行きたくないので念仏信仰したり平等院鳳凰堂をつくたりするのです。

ここで、重要なのは、みんな普段は、業のことなんて考えないのです。

陰徳を積もうなんて殊勝な人は少ないのです。

陰徳は必ず良き果報を生むので、業に対していい影響を与えます。
もちろん、業の総容量は不明なため、大河の一滴程度の意味しか無いかも知れませんが、それでも、未来に向けて良い影響を与えられるのです。

つまり、業の何%かは、知ることが出来るということです。

しかし、それすらしなければ、業の解明度はゼロ%です。
※下手をしたら悪業でマイナス確定に。

このように、人道においても、まったく無知蒙昧な状況が大半なのです。

大抵の人類は生きるのに精一杯で、そんなことを考える余裕なんてあまりないのです。

実際に、このブログを読んでおられる、みなさんだって、このブログを読む前は、そんなことあまり考えなかったと思います。
そんなもんなのです。

考えられる余裕のある貴族や現代人は、もっと別のことを考えたりします。
人間界よりも良い環境の、天道も同様です。

要するに、我々は、業という全く中身がブラックボックスの存在と共に生きています。

何もわからないまま生まれ、何もわからないまま死ぬのです。

空海が言っていますが、
三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
なのです。

我々は、万物の霊長といばっていますが、無明の闇の中にいつもいる闇の世界の住人なのです。
中二病の中学生のような存在なのです。



差別論


で、この業のブラックボックスの中身が無明ということは、そのまま、身分差別などする意味は無いということは最近の記事で述べました。

過去や現在が被差別になるような不幸があったとしても、業がわからないから、未来において無くなる可能性があるというか、不幸が続く確定は無い。

だから、身分という物にする必要は無いし、業の浄化のためという本人や環境の戯言も無視して救済して良い。

というか、この業論が身分差別の元になっているからやめようぜという話でした。

ついでに、このロジックを、陰陽ひっくり返せば、業のもう一つの問題である、幸福忌避の問題もクリヤ出来ます。

不幸な状態は業があるということであり、徳が足りないということでもあります。

だから、幸福になるという、徳の無駄遣いをしてはいけないというロジックへの反論ということです。

業のストックが不明ということは、不幸になる悪因悪果が不明ということと、同時に、幸福になる善因善果も不明ということです。

別に、ガンガン幸福を追求していいのです。

これは、自己啓発系の潜在意識のポジティブシンキングと同じ原理ですね。

自分は運がいい、自分は成功出来るという自分の認識に対する自己暗示、洗脳です。

業がわからないということは、逆にいくらでも肯定的な業(徳)がストックされているという可能性があるのです。

このロジックの問題点は、だからと言って、ガンガン悪業をやっていいとか、別に善業を積まなくてもいいよねということに陥らないようにすることでしょうか?

ここだけ、注意していれば、自己認識として、幸福になっていい、幸福になる価値がある、自分は運がいいという、良い潜在意識へのフィードバックが出来るので、良いと思います。


ちなみに、このロジックは今書いていて、急に思いついたロジックですので、たぶん、見えない上位の神仏からの神託でしょう。



で、無明の話はまだありますので、次回も無明の話です。






















2018年4月26日木曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その④












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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





前回のおさらい



前回のまとめ





因果応報という、バリバリの差別思想を、擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論




の、4つの反論を、無理くり捻り出す豊河。





1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


弁仏論よりも、こっちの方が重要かも。

要するに、「無明」の話です。



業が見えない。

つまり、我々が、
「自分や他人の業が見えない」
という現実があります。

しかし、そもそも何故見えないのか?

見える見えない以前に、そもそも、業というのは、存在意義すら危ぶまれる存在です。

このブログでは当たり前のように、業の存在を前提にして、話を進めていますが、別に業なんて一ミリたりとも証明されていないのです。
(証明されていたら教えて下さい)



こんなものは、呪いの藁人形レベルの、非科学的な存在なので、そもそも論として、絶えず疑問を呈しておく必要があります。

豊河は宗教的天才(自称)なので、そもそも論として、教義の根本から疑うことが出来ますが、世間の大部分の人間は、そんなことを考えもしません。
(そもそも、因果応報そのものを考察する 変人 人間がほとんどいないだけですが)




業というものを無条件に信じこむことの弊害は、この記事のテーマである差別論で、さんざん今まで言っています。

業、つまり因果応報は、陰徳などの道徳の動機づけのリソースになると同時に、インドのカースト制度やオウムの凶行などのリソースにもなるのです。

善悪の諸刃の刃であるという、認識を持つ必要があります。

もっと言えば、文字通り、刃物と同じです。
所詮、法則ですので、目的でなくて道具なのです。

刃物を料理に使うか、凶器に使うかは別問題です。

しょせん、人間の視点なのです。



相乗効果




で、この全く根拠がない、因果応報といういかがわしい理論だけでも、色々、問題なのに、さらに、輪廻転生というさらにさらに、立証不可能な世界観まで、導入しているのが、仏教(厳密に言えば、インド宗教)です。

ちなみに、世界を支配する一神教は輪廻転生を認めていません。
理由は、上記したように、自己責任の差別論に繋がるからです。
(昔の聖書にはあったが、抹消された説も)


因果応報と輪廻転生という、ダブルのいかがわしい邪説を元に、仏教というものは構成されています。

このブログもまた然りです。



ちなみに、この二つはセットのように語られていますが、別にこの二つの理論はセットである必要はありません。

因果応報があっても、輪廻転生を認める必要は無いし、逆もまた然りです。



例えば、輪廻転生があったとしても、その通底する世界法則は因果応報でない可能性もあるのです。

我々は、日本人なので、漠然と死んだら、閻魔大王とか天の神(キリスト教っぽい)が、生前の善悪で、天国や地獄や来世に振り分けられるようなイメージを持っています。

しかし、これは、因果応報と輪廻転生という、二つの概念が組み合わさった概念です。





正味な話、輪廻転生を司る神(らしき存在)が、いたとして、そいつが、すんごいてきとーに自分の好みで采配している可能性もあるのです。

因果応報は、善悪の基準で運用されている理論ですが、別に、采配基準が、善悪である必要はありません。
例えば、神がサイコロで適当に決めている可能性すらあるのです。

しかも、サイコロは六面体ですので、ちょうど、六道に対応していますし・・・。

それぞれ、天国~地獄まで振ってあるサイコロで、てきとーに、我々の輪廻先を決定している可能性だってあります。




経験値



んな馬鹿な!

と、思われる方も多いでしょうが、別に、これを否定する証拠はありません。

そもそも、因果応報も輪廻転生も、別に確たる証拠があるものではありません。

古代インド人の与太話である可能性だって十分にあるのです。



例えば、近代以降のスピリチュアル系の本を読むと、善悪の因果応報理論ではなく、
「自分自身の経験値を高めるため」
程度の動機で、自分で転生先を決めているシーンが良くあります。

前世で、聖職を何回か繰り返してきたから、そろそろ綺麗事ではなく、悪人の人生を経験してみたいからとか、
そんな超ポジティブな理由で、悪人に転生してきたケースとかです。

こういう因果応報理論に当てはまらないような、話が結構あるのです。

こういう話は、催眠療法だのチャネリングだのと言った、いかがわしい方法をとっていますが、それを言ったら、因果応報だって、インド人といういかがわしさMAXの連中が、薬物だの瞑想だの苦行だの使って、垣間見た世界の法則です。


まあ、このブログでは一応、因果応報と輪廻転生を、デファクト・スタンダードとして、採用した上での、論を張っています。

しかし、世界はご存知の通り、洗脳やプロパガンダに満ちています。

常に、疑いの心を忘れてはいけません。

ぶっちゃけ、インド人の妄言が、たまたまデファクト・スタンダードになっている可能性があります。


今の所、善悪が基準ですが、別の基準である可能性は無いとは言い切れません。

もしかしたら、そもそも善悪の基準すら逆の可能性もあります。

実は、輪廻転生の基準は、悪ほど良い評価をされるシステムの可能性だってあるのです。

善人は、不自由に生きた敗北者くらいの評価だとか、そんな可能性だって十分にあります。

そもそも、善とか悪とか、人間の社会的な常識レベルです。

自然界と同じく、弱肉強食がルールの可能性もあります。

人間にとって、たまたま都合が良いからという理由で、メジャーな話になっているかも知れないのです。


例えば、今の一神教のルーツの一つに、ペルシアの国教だったゾロアスター教があります。

そのゾロアスター教の教義で、天国行きの善行と称されるのは、近親相姦です。


最近親婚
「フヴァエトヴァダタ」も参照

ゾロアスター教では、自分の親、子、兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼んで最大の善徳としており、聖典『アヴェスター』のウィーデーウ・ダート(英語版)(除魔の書)などでその教義が説かれる。アケメネス朝時代の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書(英語版)』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが七人の姉妹と近親婚を実行したこととされる[4]。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、一般の人々など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。


古代ペルシアって結構な帝国で、日本人がどんぐり美味ええええ!とか言ってる古代に、超帝国を築いています。
東アジアで言えば、漢帝国とかそういうレベルの超大国です。

ところが、そこの国教がこんなヘンテコな教義だったのです。
で、当時の人は、これを真面目に信じていたわけです。

人間の常識なんて、一ミリたりとも役に立ちません。


で、何が言いたいのかと言うと、業が見えないことの話ですが、相変わらず脱線していて、さらに次回に続きます。








2018年4月15日日曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その③











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





前回のまとめ




因果応報という、差別思想を擁護するための弁仏論を、張る豊河。

とりあえず、

①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を捻り出す豊河。


1つ目の、
①業の不可知性

が、まだ続きがあります。


前回までの論は、

「そもそも、業というのは、前世までに溜まった分は見えない」

ので、

「仮に、過去から現在まで、因果で不幸(幸福)な状況にあっても」


「一瞬後の未来は、まったくわからないから、今の状況は、因果応報で自業自得!今後も助けない」

「と外野が見捨てる必要はないっすよ」

という話でした。

さらには、

助けても、本人から、
「業の解消を邪魔するな!」
と言われる筋合いは無いから、陰徳を抑止しなくてOKっすよ。
というか、インド人滅びろ。


という話を、前回しました。


これで、因果応報主義者が、差別論を張っても、反論出来るのです。
(無理だと思いますが)


因果応報論の、欠点の一つである、差別論や自己責任論はこれで解決出来ます。


で、さらに、これで、一神教の連中の

「お前ら多神教は、因果応報論でカースト制度している差別主義者だよな?」
「自己責任論で慈善とか福祉とか全くしない連中だよな?」

と言う、ヘイトスピーチに対抗することが出来ます。

というか、インド人のせいでエライ迷惑な話です。




まあ、実際に、神道や仏教の弱者への異様な冷淡さは、実際そのとおりなのですが。




というか、一番の問題は、豊河がこんなブログで言っていても、
世間様は、一ミリたりとも改善されないという現実です。



が、まあ、別に良いのです。


一応、このブログは、インターネットで、世界に公開しています。

少数の読者様にでも、認識されればそれで良いのです。


後は世代単位で、鼠算的に広がっていくのです。

そうして、因果応報の差別論に負けない陰徳者が増大すればするほど、


豊河の陰徳が増えていくのです(台無し)。


それは、ネズミ講の如く、マルチの如く、ネットワークビジネスの如く・・・。

皆様のような小ネズミが、今後、陰徳と、皆様の直接間接の伝授をすればするほど、豊河は、何もしなくても自動的に、陰徳ポイントが貯まっていくのです。


これが、不労所得ならぬ不労陰徳です。


それはまるで、天の円環の中心に座す北極星の如く・・・!

動かざること山の如し・・・!
働かざることもまた山の如し・・・!
働いたら負けかなと思っている。







業は果たして完全なのか?



で、①業の不可知性
の続きですが、


業の不可知性は、前回言った、
「今貯まっていて、今後出る業」
が、ブラックボックス
以外にも色々とあります。

もっと言えば、業全体です。
それは、どういうことかと言うと、そもそも論として、

色んな幸・不幸のイベントって、
そもそも、ほんとに業の結果だったの?

という問題です。


このテーマは、④業の無効論
と被ります。
(というか、分ける必要が無い)

要するに、人生の色々なイベントが、本当に業の結果かどうかは、我々は、全くわからないわけです。

現世が原因の業なら、なんとか終えますが、前世だとすると、もうトレース(追跡)が、不可能になります。


前世の、300年前のイタリアでやった業の結果がこれとか言われても、証明しようがありません。

我々は、勝手に、物事に因果応報の理屈をレッテル貼りしています。

しかし、自然界の法則と、人間界の法則はまた違うものです。
この地球上に勝手に線を引いて、国境だの敷地だの言ってる例を見ればわかります。

要するに、勝手に自然界に対して、人間側が勝手に法則と呼んでいるだけですので、非常に怪しいのです。






まあ、業があるかどうかは、④業の無効論でやりますが、

とりあえずの問題として、それほんとに業のせいなの?という問題に戻るとして、

焦点になるのは、仮に業があると仮定して、

物事の結果について、業が占める割合は、何%?
と言う問題があります。



具体例を出すなら、例えば、今、右足が動かない障害があるとします。

すると、前世で他人をローキックしていた業があるわけです(別にローキックでなくてもいいのですが)。

過去に悪いことをしたから、自分に因果応報で跳ね返ってきて、自分の不幸がある。
これが、我々の言っている、因果応報の原則です。

陰徳で開運ハッピー♡という、このブログの根拠がこの法則です。



しかし、冷静に考えてみると、業の理論が、全てに適応すると考えるのは少々、大雑把な意見では無いのでしょうか?


たしかに可能性レベルの話として、全世界の全生命のすべての結果が、業によるものだとする意見もあります(というより前、自分が記事にしたような)が、何事も一般化するのは、認知の誤謬の一つです。




一般化の誤謬



ちなみに、認知の歪みの対策は、情報機関(CIAなどが有名)の分析でよく使われます。

いくら現場から情報(データ)を収集しても、それを使える情報(インテリジェンス)として分析・解析・結論しなければ使えません。

その際に、思い込みのフィルターがあると、使える情報にならないからです。



また、認知の歪みの対策は、心理学でもよく使われます。

認知行動療法という臨床心理学のツールです。

「認知の歪み」でググってみれば、わかりますが、こうした認知の誤謬の例が、色々と出てきます。

この場合は、「一般化」という認知の誤謬でしょう。

要するに、何もかも、因果応報のルールが適用されていると考えてしまうことの危険性です。




単純に、さっきの例だと、右足が動かない理由として、別に業でも何でもなく、ただの偶然という可能性だってあるわけです。

人は、理不尽な目にあうと、特に自分のことだと、自己愛から大仰に理由を考えたがりますが、

実際は、どうってことの無い理由の可能性が高いのではないでしょうか?



ちなみに、豊河はパワスポに行くと、
よく財布を落とすので、これは一体何の業があるのかと、
易を立てて見た所、

「いや、単に財布をしまう袋の口を閉じろボケ(坤為地の四爻)」

と、ありがたい啓示を頂いたことがあります。

まあ、そりゃ、そうやんなー。




偶然出会った二人




全宇宙の一切が業のシステムによって天羅地網されているという、可能性はたしかにありますが、

その証拠もまた無いわけです。

ただの何の理由もない偶然という可能性だって充分あるわけです。


なお、何の理由も無いという言葉の意味は、因果応報論によらないという意味です。
現世的な原因と結果の因果関係は別です。

足が動かなかったのなら、医学的に遺伝子的に原因があるわけです。

世の中のすべての事象は必ず、原因があり、結果があります。
風が吹けば桶屋が儲かるのです。



しかし、そうした科学的な因果関係とは別に、人間は、そういう原因自体がなぜ、自分自身に降り掛かっているのか?
ということに対して、人間はさらに別の属性を付与してしまいます。

やれ前世のカルマだとか先祖の業だとか、見えない立証不能な事象に、原因付けてしまうのです。

特に不幸でなくても、男女が出逢えば恋愛ボケした二人は運命を感じてしまうのです。

しかし、それは大して根拠がある話ではないし、あってもそれがすべての事象に適用できるのかあったく不明です。



まあ、何度も言うように、因果応報論の差別思想を教科主義に考えてはいけません。

他者の不幸があったら、賢しらぶって、
「これは前世の業である・・・」
などと言わずに、とっとと助けてやれよということですね。




で、また次回も、この業の不可知性の話を続けましょう。









2018年4月9日月曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その②











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。











因果応報という差別思想を擁護するための弁仏論を張る豊河。

とりあえず、

①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、

①業の不可知性

の続きです。



そもそも、業というのは、

「前世までに溜まった分は見えない」という話を、

前回指摘しました。




まあ、とは言え、大体、自分の今の人生から逆算して見ることは出来ます。
(今、貧乏だったら、前世は搾取してきた側だとか)

また、今後の人生や来世についても、今やっている業(善因か悪因か)で推測することは出来ます。


しかし、問題は、これらは、全部、現世での状況を見ての推測に過ぎません。

というより、今、現世における、過去や現在の状況というのは、全部、すでに業が現出してしまった結果であって、まだストックに残っている業ではありません。


今どのくらい業が、貯まっているかと言うのは、本当のところは全く、ブラックボックスなのです。

今、善業をやっているから、その分は相殺されるだろうと思っていても、過去の業がどのくらいかわからない以上、大海の一滴の可能性もあるのです。





で、この不可知性が、なんで因果応報の差別思想への反論になるかと言うと。



次のような、論理が導き出されるからです。








①業のストック量が見えないということは、今現在の現世の我々からは、当然、今後の未来において何が因果の結果として出てくるか不明である。



②そのため、因果の果(結果)である、善業の結果(楽、幸福)も悪業(苦、不幸)も今後、いつ出るか、どう出るか、全くわからないということである。



③従って、我々は未来予測が、全く出来ないことを意味する。
それは、下記の派生的な論理を同時に意味する。

 ・今現在、進行形の状況(楽か苦か普通か)が、いつ終わるか、いつ変わるか全く未知の領域である。不可知である。

 ・今、行っている悪業や陰徳なども、それが未来にいつどこでどう出るか、全く不明である。



④つまり、現世における、過去や今起きている問題や果報に対しては、業の結果と言えるが、
 これから未来に起きることに関しては、業のストック分が見えない分、今の状況が続くとは全く言えないのである。
 


⑤ゆえに、
 「これは、過去の業の結果だから、このまま、ずーっとこのままである」
 とは断言出来ない。



⑥要するに、現世における、過去~現在の状態があるとしても、以降も同様のままだとは断言出来ない。

特に他者の不幸な恒久的な状態を、業のせいにして、放置しておいて良いことにはならない。

なぜなら、誰も業のストック状態がわからない以上、
未来にそれが連鎖して現出する(今の状態が継続する)かどうかわからないからである。



⑦従って、
 自分や他者の、現状の不幸な状況を、
「カルマの浄化があるから変える必要はない」
「自業自得だから助ける必要はない」
と言う必要は無い。」

 業が見えない以上、一秒先にでも、悪業が尽き、善業の結果によって好転するかも知れないからだ。



⑧つまり、自分や他人の今の不幸を助ける(陰徳)ことは、相手の業の浄化を、妨げることにはならない。

助けた瞬間に悪業が尽きているかも知れないからだ。
それが本当なのかどうかは、業が人間には見えない以上、否定も肯定も出来ない。






よし。
これで理論武装は完璧ですね。
因果応報の差別思想を、はい論破。





あー考えるのめんどくさかったー。
何で坊主でも無い俺にやらせるんだよ神仏。






さて、これで、因果応報を信じないような天を恐れない無知蒙昧や輩にも、カースト制度を続ける土人にも、対抗できます。

というか、この、インドのカースト制とか弱者を自業自得だから助けないとかの理論って、実は、インド本国だけじゃなくて、上座部仏教圏とか、ヒンドゥー教圏とかの、インド文明の周辺国でも普通にあるそうです。

日本の坊主もあまり慈善活動をしませんが、実はインド周辺の坊主はもっと輪にかけて人助けしません。

本家本元のヒンドゥーは、まだわかるけど、上座部仏教は仏教です。
本人レベルの修行システムは非常に良く出来ていますが、やはり小乗仏教ですので、慈悲を持たないクズどもですね。

誰だよ。上座部仏教は、日本の腐れ仏教と違って、戒律を守る聖者ばっかりだと言ったのは。
責任者出てこい。