2018年12月12日水曜日

勝手に線引きする人間という生き物 酔っ払い編









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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





有無



諸行無常な世の中で、人間は、あまりにも脆い、人間(体)に対して、絶望を禁じえません。

そのため、心理的安定のために、不完全情報の人間と世界に対して、完全情報の存在を構築します。

まあ、要するに、それが神です。

神でなくても、人間は、愛や国家に永遠を望みます。
巨人軍は不滅ですし、結婚式で永遠の愛を誓い、我が海兵隊は永遠なのです。

これは、要するに、現実がいかに脆く不完全で諸行無常かの証明です。

現実が諸行無常だからこそ、永遠不滅の絶対神を求めるのです。

さて、この永遠不滅の絶対の存在は、明らかに概念なので、所詮は虚構です。

しかし、何事も存在意義はあります。

何か、この概念は役に立つはずです。

何も存在意義が無ければ、世の中には存在しません。

前回も言いましたが、正直、あろうがなかろうが、どっちでも良いのです。

どうせ、有限情報しかない人間には判断はつかないテーマです。

どっちか、わからんのなら、両方使ってみましょう。



人を動かす


人間は根源的に、脆く弱い生き物です。

だからこそ、無限の絶対者を崇めます。

つまり、俗な言い方をすれば、絶対者への需要が人間にはデフォルトで存在しているということです。

実際、聖書を基本とする一神教は、世界宗教です。
民族宗教のユダヤ教はともかく、そこから派生したキリスト教とイスラム教は奥単位の信仰者です。

仏教も、実質的に、一神教的な阿弥陀仏や法華経などがメジャーなのは言うまでもありません。

ヒンドゥー教などは釈迦の時代から、絶対的なアートマンを信仰しています。

無限の存在は、我々が観察する自然界にはありません。
みんな、ころころと諸行無常する存在ばかりです。

しかし、人間の知能は、無限完全存在を、想像してしまうのです。

自然界にない、不自然な存在を想定しまうのです。

そして、それが需要があるのです。

人間は、作り物の世界で生きることの出来る唯一の存在です。

無限完全なイデアで、人は動いてしまうのです。

そのような仕組みが備わっているのです。

この仮想的な概念を、信じてしまう能力が人間の欠点であり、また、この地球上の覇者となり得た理由でもあります。

そして、このシステムを利用すれば、人間を動かせてしまうのです。

金(食料)を与えれば、人は動かせるのと同様に、人間の無限完全を求める需要(欲望)に供給を与えてやれば、人は動かせるのです。

人間は酔いたいのです。

非日常な世界に酔いたいのです。

絶対無限な完全存在に酔いたい。

己が矮小な生物だと知っているからこそ、酔いたいのです。

常住不変であり、絶対に壊れず、完全で完璧で、真善美を備えた存在の一部として酔いたいのです。

それが、アイドルであろうと、国家であろうと同じです。

しかし、それには、資格がいるのです。

かつて、大衆を操るために、アイドルや音楽や舞台やパレードや愛国心で、魔術師のように国民を操った、独裁者はいちいち例に上げるまでもありません。

西洋一神教は世界を発展させましたが、億単位の人類を殺してきたことを忘れてはならないのです。

無限完全存在という、人間の欲望を使うには、慈悲の資格がいるのです。
軍事力を使うには、卓越した理性と慈悲がいるのと一緒です。



ということで、次回に続きます。






2018年12月6日木曜日

勝手に線引きする人間という生き物 真理編











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。







無限と有限





前回まで、何で人間は勝手に、大自然の空間や時間を勝手に線引きするのか?
という話をしました。

そして、その理由は、本人が有限の存在だからです。肉体という有限の存在だから、その生存のために、空間や時間を線引きしているのです。

そして、自分が有限だからこそ、無限という概念を手に入れたのです。

自分が無限だったならば、無限という概念は空気のように当たり前で、認識できなかったでしょう。

生物が酸素の存在や、魚が自分たちが水の中にいるのを認識していないようにです。

で、この無限の存在という概念を、発見してしまった人間は、宗教的に二つのルートを選択しました。

それは、

①無限の存在という概念を崇拝するグループ
②無限の存在という概念を否定するグループ

この、二つです。

およそ、宗教はこの二つしかありません。

代表的なのが、一神教と仏教です。

では、この二つはどっちが正しいのか?

当然、洋の東西の世界宗教ですので、膨大な神学教学が存在します。
さらに、補完として、延々とギリシャから続く、哲学がそれに続きます。
むしろ、現代では、哲学の方が、正鵠を得ていることがあるでしょう。

そして、結論を先に行ってしまうと、別にどっちでも良いのです。


都合の良い真実


こういっては何ですが、どっちみち答えの出ない問題です。

人間の外にある宇宙を勝手に線引きしているのが、人間です。
それぞれの教義のために世界を勝手に区切っているだけなのです。

無限だろうが、有限だろうが、どっちでも解釈出来るし、どっちでも良いのです。

もっとハッキリ言えば、道具のようなものです。

刃物を人を刺すのに使うか、包丁にするかは、使用者の都合に過ぎません。

有限か無限か?
の問題は、所詮、その程度の都合なのです。
大切なのは、人が救えるかどうかです。

別な言葉で言えば、陰陽は必ず、どんなものにもあるので、必ず、両儀が成り立ちます。

そして、少なくとも、真理を求める瞑想修行段階前の、在家の我々の段階では、やってることは大して変わりません。

普通に、善業をすること。このブログで言う陰徳で開運することです。

少なくとも、それをやっておけば、今生も来世も安泰です。
それさえやっておけば、地獄に落ちることもありませんし、それ以上を望むなら、修行すれば良いのです。

絶対存在が、有限なのか無限なのか?
仏教が正しいのか一神教が正しいのか?

どっちの体系でも、その教義にあった瞑想法があり、その教義通りの真理をつかめるようになっています。

で、在家の我々でも、利用できるこれらの真理をもうちょっと考察してみましょう。