2018年3月25日日曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について













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弁仏論



因果応報論にはいくつか欠点があります。

まあ、そもそも論として、

因果応報自体が、全く一ミリたりとも科学的に実証されていないという、欠点以前の欠点がありますが、

百歩譲ってそれを是認したとしても、看過出来ない問題がたくさんあります。




その一つが差別を肯定する思想です。

およそ、近代以降は払拭されたはずの差別思想ですが、

近代化されていない地域では、今だに根強い差別思想が残っています。



しかも、その差別思想の大国は、仏教や因果応報論を生んだインドです。

ちなみに、インドは中国に負けず劣らずの人口大国で10億人近い人口があります。

要するにこの21世紀になっても、10億単位の人間が今だに差別思想を持ったどうしようもない国家なのです。



まあ、これだけでしたら、まったく、未開の土人国家はしょうがないなあで、済む話です。

そもそも、仏教を生んだインドとは言え、インドは仏教を追放しています。

イエスを生んだイスラエルと同じように、救世主は故郷では報われないのです。


しかし、別にインドなどどうでも良いのです。

一番の問題は、その差別思想を生んでいる原因が、
我々が陰徳道を行じているそもそもの理論の根幹である、因果応報理論に依拠していることとなると、話は別です。




この問題に対応するために、色々と因果応報論という仏教のドグマを弁護しなくてはいけません。
(別に豊河如きが、しなくてもいいとは思いますが、というより金と暇を持て余している連中がやれば良いとは思いますが)


キリスト教の神学には弁神論というジャンルがあります。

神は全知全能の絶対善の絶対神なのに、なぜ、世界には悪があるのか?

という、素朴な疑問に、必死になって弁護するジャンルです。
(そして、あまり成功していません)

今回は、仏教の因果応報論という、ろくでもない理屈を弁護でしてみましょう。

言うなれば、弁神論ならぬ弁仏論です。

まず、
一番問題なのは、やはり、次の差別思想ロジックです。





検察側の告発




因果応報論は、差別を生む土壌になる。
極めて有害な危険思想である。


「善因が幸福を生み、悪因が不幸を生む」
ゆえに、
「人間は善因を積み、悪因をやめるべきである」

ここまでは良い。
人間社会の倫理向上と治安良化に関して、有用である。

しかし、論理構造を逆にすると、途端に危険思想に転ずる。

幸福の原因は善因であり、不幸の原因は悪因である、とする論理が必然的に生まれるからである。




論理学的には、正確に言うと、善因→幸福、悪因→不幸だからと言って、幸福・不幸の原因が100%善因・悪因であるということは成り立たない。

かき氷を食べすぎると頭が痛くなるが、頭痛の原因はかき氷だけではない。
頭痛の原因は、脳腫瘍や寝不足の原因も色々あるのと同じである。

だが、ひとまず、それは置いておく。

少なくとも、幸福・不幸の原因が、特定の割合で、善因・悪因が原因であるという理屈を因果応報論は提供する。

これは、因果応報論の、善因→幸福、悪因→不幸の論理からは必然的に導き出せてしまう。




これは、差別思想では無いか?




そもそも、近代社会は、生まれによる差別を徹底排除した文明社会である。

日本国憲法には、

第十三条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を受けない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

とあるように、生まれによる根拠の無い、差別は問題外である。




因果応報思想は、前世という証明不可能な仮定の論理を構築し、結果として、今、現在における、身体的、精神的、社会的な不幸な人たちを、自業自得による悪業の結果だと差別している。

アフリカの貧しい難民や、餓死する子供に何の罪があると言うのか?

彼らは、アフリカという政治的なシステムの犠牲者であり、それは、救助されるべき存在である。

因果応報理論は、その貧しい者、虐げられる者の人格を、踏みにじる悪魔の思想である!





そして、このロジックは、容易に、権力者の社会統治に利用されるのは言うまでもない。

インドのカースト制度を見よ!

カースト制度の身分制度は、前世の業によって、身分が決定させられていると説く。

その結果、どんな身分であっても、平然とインド人は受け入れ、助けようとする外部の人間に、

「自分たちは、前世のカルマでここにいる。その罪を償っているのだから、余計なことはするな!」

と、反論する始末である。

権力による身分制度や差別制度を、より洗脳レベルで強化しているのである。

無論、カーストが高い者は、前世で善業を積んだ、善人であり、浄められた者である。





ここには、近代の民主主義や科学、人権思想の萌芽が見受けることは出来ない。

権力者を無条件に賛美し、善とする王権神授説であり、被支配層を、無条件に貶める究極の差別思想である。

これは、仏教を通じて、因果応報思想を受け入れた、チベットや日本にも、過去の時代に採用された、差別統治思想であり、奴隷制度を合理化する支配者側の、洗脳思想である。




およそ21世紀の文明社会において、このような悪しき差別思想は、到底、許容出来るものではない。

およそ、世界宗教の一神教において、輪廻転生論を否定し、前世の観念を設定しないのは、このような差別思想に陥らないようにするためである。

因果応報論という、邪教を奉じる仏教を始めとするインド宗教は、その教義を猛省すべきである。

さらに、この因果応報思想の亜種である、「ぷち陰徳で愛されスイーツ開運ハッピー♪」などという、邪説を説いて人心を惑わす豊河の罪は許しがたい。






弁護側(豊河)の反論





いや全くもってそのとおりである。やっぱり因果応報は差別思想ですよね。


さて、大体、上記が因果応報の差別理論への批判であるが、全くもって笑止千万です。

無知蒙昧な意見であり、因果の理法を知らぬ邪道の見解であり、まさに三界を火宅の中で迷い惑う衆生と、言えましょう。


因果を解さない行為は、結局、人間社会の中だけの処世的な倫理でしかありません。

唯物論的な世界観は、暗部での悪事を容認させます。

悪業をやっても果報が無いという、世界観は倫理は成り立ちません。


とは言え、因果応報思想が、差別思想を生むという主張には、一理あります。

しかし、この因果応報思想と、差別思想をリンクさせるのは人間です。

この二つの概念を結びつけるリンクを断線すれば良いのです。

このネットワーク作業が、反論であると同時に、因果応報を是認しながら、差別思想を封じる論理の構築となるでしょう。

で、ぱっと、思いつく反論は、下記のとおりです。


①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



これらの論理で、順次反論(弁仏)していきましょう。






























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