2017年7月4日火曜日

【陰隲録】功過格表117 野生の力を取り戻せ!(インポになった時) 三十善 冤罪を救おう⑲





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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。





解放戦争


冤罪を解くというのは、罪からの解放というテーマに繋がります。

これは、宗教史的には結構重要なテーマです。

有名なのは、救世主イエスのキリスト教です。

キリスト教のロジックは、

①人類はアダムとイブが原罪を負ったために、神から断絶された
②しかし、神は愛する一人息子のイエスを遣わして、彼を犠牲にすることで人類の罪を償った
③イエスは、神と人類の仲介者であり、これによって人類は救われた
④イエスが救世主と信じる者は救われる。信じないやつは邪教で異端だから十字軍。あと死んだら地獄行きな?

要するにこういうロジックです。
ぶっちゃけ日本人の豊河から見ると、もうツッコミだらけの教義なのですが、まあこの教義を信じる人がこの地球上に重億単位でいるわけです。

人間は馬鹿な生き物なんだなあと認識するしかありません。
現実はそんなもんなのです。

で、勝手に人類を原罪扱いするという冤罪と、勝手に罪を許したというマッチポンプでドヤ顔しているキリスト教ですが、罪からの解放というテーマでもあるわけです。

そもそも原罪というのが洗脳下に無い日本人にはピンとこないのですが、まあ原罪を信じていた当時のユダヤ人には、救われたという人がいたわけです。

原罪という概念を植え付けられていて苦しんでいる人がいた以上、それを解放するのは、一応、冤罪を解放するという陰徳なわけです。

刑法やコミュニティでの冤罪を解放するのとはまた別の冤罪解放なわけです。

民族レベルで冤罪を信じ込んでいたことは、今で言う歴史認識の日本への不当な冤罪と同じようなものでしょう。

それを考えると、歴史認識論争で、反日に反論している愛国者様は、陰徳を積んでいると言えなくもありません。

まあ、日本が歴史認識を克服して戦争放棄を止めることが、いいのか悪いかは政治的判断です。
封印された邪神の復活レベルのヤバイ話と考える人間は国内外に結構います。

まあ、それだけのポテンシャルを日本が持っているのですから当然なのですが。



で、これをパクっているのが、仏教では浄土系なわけです。
阿弥陀如来の念仏と、特に親鸞と教義がよく似ています。
ここらへんは、昔から宗教学者がツッコンでいて、恐らく、キリスト教をパクったんだろうと言われています。

何しろ、キリスト教などの中東文化は、聖徳太子の時代から日本に来ています。

空海の時代には、留学先の唐の長安では、普通に景教(キリスト教ネストリウス派)寺院が建っていたくらいです。

共通しているのは、人間は弱小なので、自力だと救済出来ないので、阿弥陀如来やイエスなど他力で原罪を救済するというロジックです。

人類の大半は、別に修行とか苦行とかそんなものはしたくない衆生なので、自力救済の教義よりもこちらの方が受けるのです。

ちなみに、自力宗教でも、プロの修行は大衆はやりません。
座禅も密教も大衆はやらないので、プロが現世利益のご祈祷をやるのをありがたがるだけなのです。
どちらにせよ、大衆が他力本願なのは変わりません。


密儀


さて、そんな衆生へのマッチポンプの冤罪解放とは別に、もう一つ宗教には、別な冤罪解放の世界があります。
こちらは世界宗教などではないローカルな世界です。
しかし、考えようによっては人類の文明以前の太古の共通宗教だったかもしれません。

それが、密儀です。

密儀とは何か?というと、要するに古代宗教の秘密の儀式です。
もっと言えば、古代の乱交文化です。
日本でも近代以前は、村で祭りの時は、神社や寺で乱交していました。
およそ、世界的に似たような文化があり、世界宗教以前はどこの国も似たり寄ったりの形態です。

密儀と言うのはその村の乱交文化をもっと上等にしたようなものです。
密儀でググってみると色々と出てきますが、要するにキリスト教以前のヨーロッパや中東では、どこもこの密儀宗教という多神教の文化です。

多神教文化は我々日本人にも馴染みが深いので、何となく想像はつきます。
ハレの日にどんちゃん騒ぎをするようなものです。

まあ、未開人なので、やってることは過激な類も結構あります。
キリスト教以前のオリエンタリズムに溢れた夢とロマンを投影されていますので、乱交だったり乱痴気騒ぎだったり生贄とかそういうヤバイイメージが投影されているのが普通にです。

これが、後世、魔女のサバトだとか悪魔崇拝の儀式だとか秘密結社だとかに繋がっています。
要するに古代の多神教の儀式なのです。
上記したようにこういう多神教の儀式はある程度共通性があります。

日本でもそうですが、生贄とかも結構マジでやっていたりします。
今だと、悪魔崇拝だとかで不当な批判を受ける内容なのですが、ここで注目されるのは、こういうハレの舞台での日常意識からの解放です。

アイドルのコンサートや競馬とかで、人々が我を忘れて熱狂したりするのを現代でもよく見かけます。
大げさな話ですと、ナチスなどの政治的集会でしょう。

普段、日常的な倫理的抑圧の中、我々は生きています。
やりたいことや、したいことはたくさんありますが、抑圧して日々を生きているのです。

それは、権力下での抑圧であったり、生活苦からの抑圧だったりコミュニティの抑圧だったりします。

これらは一般的には倫理道徳の抑圧です。
人間の超自我は、いつも我々を束縛していて、我々は、弾けて生きることが出来ません。

それが出来るのは、英雄かキチガイかのどちらかです。
英雄として栄光を受けるか、村八分にされて監獄か精神病院に行くかは紙一重です。
イエスもナポレオンも、世が世なら精神病院に強制連行されていたでしょう。

しかし、潜在意識を抑圧した日々の生活だけでは人間は生きてはいけません。
陰陽の法則で、昼間の陽の倫理生活は、夜の陰の不純性活が無ければ人は疲れてしまいます。

平時と戦時のように、陰陽では倫理基準は逆転します。
昼間に往来で交尾をしていいのは、犬猫だけですが、夜になれば、交尾をしていても誰も何もいいません。

ハレの日には、普段の抑圧された自分を解放しなければ、人間は安らげないのです。
外では、暴れまわるマフィアも家に帰れば温かい食事と寝床を用意してくれる女がいなければ、すぐに燃料切れになってしまいます。

陰陽の法則は、表の倫理道徳と裏の非倫理不道徳の関係です。
理性と感情、文明と野蛮の関係です。

大脳皮質の人間と大脳辺縁系以下の動物の陰陽が無ければ、人間はその生命力が枯渇してしまいます。

現代人が生命力が弱くなっているというのは、この陰の闇の動物の力からの源泉ルートが無くなっているということかも知れません。

この密儀のどんちゃん騒ぎは、普通にヒャッハー!の世界です。
理性を無くして、大騒ぎし、乱交をし、生贄を殺し、酒肉を食い散らかす世界です。

現代世界宗教の静謐な世界とは真逆な情景ですが、人間が獣から進化した以上、これも人間の姿です。
人間の脳が古い脳の上に新しい脳を被せている以上、その機能を抑圧するだけですと、それは生命力の否定になります。



リミッター解除



この密儀が、表の倫理道徳の罪と罰の冤罪を、吹き飛ばすのは言うまでもありません。
理性のタガを無くして、古い脳を起動させ、生命力を取り戻す。
それが、密儀の目的なのですから。

人間が文明化していない時代、この古い脳は今よりも重要性は高かったのです。
野生のカンが無ければ、あっさり死んでしまう時代だったのです。

では、文明化した現代では不要な存在なのでしょうか?
そんなことは無いと思います。
人間世界が弱肉強食の世界なのは古代から変わっていません。
槍や手斧の時代から、武器が法と貨幣に変わっただけです。

そもそも戦争という大規模レベルのハレの日は未だにあります。
もしかして、戦争というのは、ハレの日(密儀)のマクロ版なのではないでしょうか?

平時は、倫理道徳が抑圧された社会です。
しかし、これが続くと、人類は生命力を減退させてしまいます。
古い脳の大地の生命力、獣の生命力、不合理で理不尽な力、倫理や論理という陽の力とは真逆の陰の力。

定期的に開催される祭りだけでは人間性の解放には不足しているのかも知れません。
だから、戦争が起きると。

バカップルが、イチャイチャしている睦言に、「きゃーケダモノー♡」などというのがありますが、陰事である房事はまさにこのことを指しています。

当たり前の話ですが、野生の力がなければ、人間は交尾しません。
交尾しなければ、子供は生まれません。
完全に野生の力が人類から無くなれば、人類は絶滅します。

世界宗教は性を否定します。
キリスト教だろうが仏教だろうが同様です。
しかし、性という野生の力を否定することは、人間性の否定。生命の否定です。

前々から言っていますが、世界宗教は、生命のジェノサイド
が目的です。
イデア(天国やら解脱)という理想世界が大好きで、現世や生き物が大嫌いなので、基本、そうなるのです。

諸行無常で、諸法無我で一切皆苦のこのろくでも無い世界は否定されるべきというのが、世界宗教の本義です。

基本的に密儀宗教は、悪魔崇拝宗教として、人類の敵とするのが世界宗教です。
キリスト教の弾圧もそうですし、日本でも真言立川流の邪教弾圧の歴史があります。

まあ、実際に、邪教として、悪魔を崇拝して、人類を不幸に陥れる輩はいるのでしょうが、正直言って、世界宗教に比べれば大したことはありません。
何せ、生命そのものを否定しようというのが世界宗教です。

仏教だって、六道輪廻の生まれ変わりを止めよう。
悟りを開いて解脱しようと言っています。
要するに生命そのものを完全否定しているのです。

最終目的が人類絶滅どころか生物絶滅なのです。

今後も、世界宗教の弾圧があっても、こういう密儀宗教は絶対に無くならないでしょう。
理由は、人類の生命力です。

人類全体の集合無意識として、自分は滅びたくないという生命の意識があります。
その意識は人類の監視者です。

それは、個人レベルの解脱者は、ちらほらとあっさり通過してしまいますが、人類全体となると、激しく抵抗するでしょう。
何だかんだ言いながら、人類が絶滅しないのは、そのためです。

人間の苦しみを糧とする悪魔や邪霊邪神と善神という、善悪の対立軸が世界にはあります。
それはそれで正しいと豊河は思います。
※そもそも陰徳を勧めているブログですし。

しかし、その対立軸とは別に、理性と生命という対立軸がまたあることも事実です。
それは、善悪の対立軸と微妙に重なりつつも、完全に重なりません。

理性が抑圧すればするほど、生命の力は噴出します。
個人ではストレスによる不調から、マクロでは、犯罪や戦争という形での噴出です。

精神と肉体、イデアと現象という対立軸の世界宗教は前者に重きを為しています。
後者には価値を置いていません。
繰り返しになりますが、豊河はそれはそれで正しいと思います。

しかし、宗教史を、人類の文明を俯瞰すると、唯物的に後者の肉体や生命の方の言い分もどうしても三分の理があります。

今後も、ここらへんのテーマは追求していきましょう。

次回も、このテーマにからむ話です。



































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