2017年7月20日木曜日

諸法無我とは?②











このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)



なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
記事下のコメント欄や、メッセージやメールで、お気軽にどうぞ。

その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら






机上の空論


諸法無我という良くわからない教義の続きです。

基本、宗教は、三位一体とか意味不明な教義が発生しやすいのです。



さて、前回の二つ(空間的な依存関係と、相対的な関係の空)が代表的な、諸法無我の解釈です。

が、何せ、2500年間も続いた宗教です。
キリスト教の神学論争の如く、他にもダラダラと、色々解釈があります。

↓の空の解釈参照。
般若心経コンテンツの準備 パトラッシュ、僕はもう疲れたよ・・・もう・・・ゴールしてもいいよね



世の中というのは、大多数の人間が汗水垂らして労働しているのに、やることが無い暇な連中というのが、結構存在しています。

その連中は、労働が無くなったら、文化活動に励むのが普通です。
芸術とか哲学とか神学とかそういう方面にエネルギーを向け始めます。
まあ、戦争や権力闘争に向かうよりは、まだマシなのですが。

古代ギリシャもそうですし、中世ヨーロッパもそうです。
労働は奴隷にまかせて、貴族や坊主は、暇つぶしに哲学を延々と捏ね繰り回しました。

そのせいで、煩瑣でクレイジーな神学が洋の東西を問わず、存在しています。

だいたい、現実無視の唯心論になるのが、普通で、これは仏教でもキリスト教でも同じ傾向です。
机上の空論は、唯心論になりやすいのです。



宗教はアヘン


  上記の二つの、解釈はな、まだ存在そのものがあるということは認めています。
が、
解釈や人によっては、存在すら認めない派閥が存在します。

空や自我が無いというのは、言葉上の定義ではなく、
マジに存在そのものすらない、
という、唯心論のハードコアな意見です。

インド哲学で言う世界は幻影だという意見に近い解釈です。

人類の歴史として、だいたい、ここまで来ると、反動的な唯物論派が出てきます。

唯心論は、現実から逃避するため、現実社会の問題と向き合わない傾向があります。
支配者の論理と相性が良いため、悪用されやすいのです。

要するに、自らの非道な統治をあの世で報われるとチャラにする手法ですね。

近代でも、共産主義という唯物論が出たのは、それ以前に、民を虐げる唯心論的な宗教が支配的だったからです。



実はどうでもいい


そもそも、諸法無我の議論は、さらに議論そのものの、ちゃぶ台返しとして、

諸法無我の諸法は、一般に思われているような一切の意味ではない。
限定的に、無我なだけだ。

とか、
諸法無我は、無我とは言っても、初期の原義は、別に自我が無いというような哲学的な意味ではない。
あくまで自我(エゴ)に執着するなという倫理的な意味で言っていただけであって、自我が存在しないという意味ではない。


と言った、解釈もあります。


しかし、これらの解釈にしても、実は、仏教的に見れば、どんなのだろうが、あまり意味はありません。

実は、人間に、自我があろうがなかろうが、ぶっちゃけ、どうでも良いのです。


いまさら何だ?
と思われるでしょうが、これは、前回も出した三法印(四法印)の文脈を読んでみると、わかります。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

三つ目の一切皆苦や、ラストの涅槃寂静を見ればわかるとおり、要するに、現世含めた存在そのものに対して、ネガティブな世界観が仏教です。

自我があろうがなかろうがどうでも良いのです。
あっても、なくても、仏教的にはこの六道の中の、ろくでもない物であるという認識には変わらないからです。




有名な無記の話でもありますが、世界がどうだという真相究明や科学探求は、ぶっちゃけどうでもよいのです。
仏教では二の次なのです。

自我があろうがなかろうが、苦であることには変わらないのです。

どうせ解脱して、涅槃寂静しちゃう、エスケープ対象の世界なので、仏教的にはどうでもいい扱いなのです。




ヘイトスピーチ法話




実は、この三法印(四法印)ですが、本当は簡略版なのです。

有名なこのフレーズは、
後の時代に、教義的にコンパクトにまとめているだけで、
パーリ語の経典では、本当はもっと種類のパターン数があります。


世界は~、自我は~、と言う形で、
~の部分にネガティブなヘイトスピーチが入る形なのです。
要するに世界を呪っているのです。

パーリ語の経典を見ると、
世界は無常である。
世界は無我である。
世界は汚い物である。
世界は癌細胞である。
世界は刀槍のように危険な物である。
世界は~。
世界は~。
世界は~。


と、ごたごた、世界や自我への、呪いの罵詈雑言が並びます。


三法印(四法印)の涅槃寂静以外は、このような、存在へのヘイトスピーチの羅列の一部を抜粋したものです。


色々ありますが、要するに、存在はろくでもないという一言でまとめられます。
もっと言えば、一切皆苦です。



要するに、 三法印(四法印)は、二行にまとめれば、
一切皆苦と涅槃寂静の二行だけになります。

世の中はクソだ!
だからエスケープする。


まとめれば、仏教の教義は、これだけの話なのです。
あの汗牛充棟の八万四千の法門の経典は、この二行だけなのです。






ちなみに、仏教学者の中村元は、
無我の部分は、原義語としては、諸法無我は、無我というより非我の意味らしいことを言っています。

これは、我では無い。
あれは、我では無い。

などという感じですね。

要するに、我ではないから、所有権が無いし、自分の思い通りにもならないと。

四苦八苦の中に、
求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ。 
が、ありますが、自分(我)ではないから、思い通りにならないと言った感じですね。
同じ意味です。
自我の有る無しの分析よりは、よっぽど原義に近いと私も見ます。


結局、仏教の本義は、苦しみからの解放です。

哲学的論議を一蹴した、無記の話も、有名な毒矢の譬えを出しています。




仏教説話



初期の仏教経典である阿含経に収められた釈迦の説法のひとつとされるものに「毒矢の例え」がある。ある人が釈迦に、「この世は永久のものでしょうか、無常のものでしょうか。世界には限りがあるのでしょうか、無限のものでしょうか…」等々、次々に質問を浴びせた。釈迦はその質問に直接は答えず、「毒矢に当たった者が、矢を抜く前に『矢を放った者は誰か、矢の材質は、私を診察する医師の名は、その階級は…』と聞いていたらどうなるだろうか。」と言い、真理を知るためには順番があると諭した。


苦しみから解脱するのが先決だから、哲学的論議はどうでもいいと言うのが釈迦のスタンスです。




現世で存在する限り、生命とは、何をどうしようが、
自我も含めた対象が、諸行無常でガンガン変わっていくし、
自分の思い通りにならないし、あらゆる苦しみに容易に変化していく、その可能性がてんこもりの地獄なのです。



六道にいる限り、いつ地獄の蓋が開いて堕ちるとも限らないのです。
だから、とっとと逃げましょうというのが、釈迦のスタンスです。





まあ、この意味で、仏教も、恐怖を布教のタネにする他の宗教と同じです。
世紀末や世界の終末をネタにしたカルト宗教と、根っこは一緒なのです。

これは、宗教と言う形式上、共通の構造なのでしょう。

ただ、他宗教が、救いの後にまだ存在することを前提としているのに、比較して、仏教は存在そのものを否定します。

他宗教がハルマゲドンの絶滅から逃れようとしているのに比較して、
自分から絶滅に向かうところが、他宗教との違いでしょう。


まあ皮肉なことに、世界宗教のこういうところが、権力者に悪用されるのは、先にも書きましたが、歴史が証明しています。

これらは、本来、俗世から離れて山林で出家する世捨て人や、象牙の塔で机上の空論をこね回す僧侶階級の論理です。

しかし、権力者と相性が良いため、現世で権力者に逆らうなというロジックになりやすいのです。

ここらへんは、いずれもっと詳細にやりましょう。






0 件のコメント:

コメントを投稿