2017年7月23日日曜日

馬鹿とテストと禅問答①











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら






集積データ


毎日、長々と無駄に文章量が多いこのブログ(単に豊河が文章をまとめる能力が低いだけなのですが)を読んでおられるような知能の高い皆さんは、
実社会でも高学歴の教養のあるインテリなので(勝手に認定)、本屋には良く行っておられると思います。


豊河などは、皆さんと違って、非才無学な凡人なので、いつも、部屋に積んでる未読の本含めて、本屋や図書館に行くと、その汗牛充棟の山の前で、

「糞ッ! 現代日本という情報・学習環境には事欠かない、宝の宝庫にいるのに、インプットのステータスの低さのおかげで、まさに宝の持ち腐れだ!」

と、自分の「無知の知」に、憤然やるかたない気持ちになります。

もう最近は、

「俺、この人生がトラックに轢かれて死んだら、異世界転生に際して、神様から貰ったチートスキルで、学習能力の高いステータスやスキルを貰うんだ・・・」

と、死亡フラグを立てるような妄言を吐くようになっていますが、幸い、死亡フラグは回収されていません。


まあ、豊河の魂の慟哭はどうでも良いのです。
本やネット上の電子データは、人類が悠久の昔から、蓄積してきた膨大な知的遺産です。

文字という情報は、人類が他生物に比較して、圧倒的な有利さを生み出すチートスキルです。

人類がこの地球上で覇者になれたのは、ひとえにこの文字というチートスキルのおかげなのです。




地頭(ハゲの隠語)



だが、この文字による学習というスキル。

大体、人生の初期で、その個人レベルでの格差に、みな薄々気がつきます。

学習能力レベルに差異があるのです。


もともと、江戸時代の身分制から解放された我々日本人は、明治以降、四民平等として、大日本帝国の科挙システムに組み込まれました。

当時の帝国主義の時代に、臣民が求められたものは、優秀な兵士と工員と、それを統率する官僚です。

どのルートになっても、情報処理能力が求められます。
そのレベル判別方法が、学校教育において学習結果を判断する科挙(試験)です。


我々日本人は、すでに十代の内からこの科挙のレベル判定の結果、振り分けられます。

優秀な者は上に行けると言う近代以前から見れば、理想的なシステムですが、何せ、人の能力ステータスは平等ではありません。


無論、学校教育のレベル判定は、穴があり、低学歴でも、世に名を成す者は大勢存在しています。

しかし、その低学歴成功者は、よくよく経歴を見ると、大抵は、単に、家庭や素行(若い頃のヤンチャ)の問題で低学歴だっただけであり、
専門分野の仕事や教養について、膨大な読書量や、学習量を保持しているのが基本です。

やはり、情報処理能力の地頭の有無が問題になってきます。




情報イコール金


当たり前の話ですが、情報が生死を決めるのは、人類がマンモスを狩っていた頃からの、基本です。

山に行って、食べられるキノコを判別する知識は、生死を左右します。

専門知識だろうが、経営知識だろうが法律知識だろうが、情報量が収入を決定します。
戦争ですら、情報スキルが無い国は、滅びるだけです。


実質的に、知識・学習能力と、金・収入は同じだと考えてよいでしょう。


それに対して、よく、「馬鹿になれ」系の自己啓発本や教訓が昔からありますが、
これは行動力が足りないインテリへ向けの話であって、本気にしてはいけません。

そもそも、本物の馬鹿は、こういう本すら読みません。


もっと巨視的な観点で言えば、馬鹿になれと進めるのは愚民化政策の一種です。

すでに、新自由主義を推進する政府は、
司法試験を改悪して、貧乏人を合格させまいとしたり、
ゆとり教育やG型/L型大学などという分かりやすい愚民化教育を推進しています。

ちなみに、エリートが通う私立は真逆の詰め込み教育を推進しているのですから、この愚民化教育がわざとなのは明白です。





別種




まあ、厳密に言えば、これは一般論であって、必ずしも学習能力と金運は同一ではありません。

低学歴だけでなく、本気で馬鹿であっても、金運の高い人間は普通に存在しています。

とは言え、現代社会では、まず同一と考えてよいでしょう。


しかし、先ほども述べたように、学習スキルは人によって個人差があります。

人類の大多数の、ステータスが低い人は、どうすれば良いのでしょうか?

学習ステータスが低い人間が、毎日、愚民化の象徴であるテレビやゲームを見て、時間を無駄に浪費したりする間に、学習ステータスが高い人間は、専門書から通俗書まで幅広く深い知識(情報)を蓄えてしまいます。

見かけは同じ人間ですが、その性能は天と地ほど差があります。

インターネットに繋がってなく、かつ性能の悪いPCと、
インターネットに繋がっている、かつ性能の良いPCの比較は言うまでもありません。

この学習能力の差は、下手をすれば同じ人間という種では無いレベルです。
猿と人間の差くらいはあるのです。
見た目が同じ人間なだけで、中身はまるで別物です。


この如何ともしがたい格差をどのようにして埋めれば良いのでしょうか?






解決策は、陰徳の実践です。


先ほども述べたように、学習能力と、金運は完全イコールではありません。
もっと言えば、学習能力が無くても、最悪生きていけるのです。
(あった方が断然有利なのですが)


陰徳を積んでいけば、学習能力が無くても幸福・裕福にはなれます。

※実際には陰徳の結果、知恵が開けてくるし、健康になるので脳が正常化(脳の力は腎臓と関係があります)し、学習能力は上がります。



もっと言えば、もし今の自分が、学習能力の低い馬鹿だと自認していたとしたら、それで、苦しむ必要は不要です。

学習能力は基本、遺伝であり、過去の陰徳の結果なのです。
要するに、いまさら変えられないものなのです。
※実は変えられますが一応話の流れとして。

悩むだけ無駄なのです。
「何で今の性別に生まれてしまったんだ!」
と嘆くのと同じレベルの話なのです。

悩み苦しむ時間だけ無駄です。

これが本当の、「馬鹿の考え休むに似たり」なのです。
そもそも、馬鹿なのですから、いくら考えてもいい案なんて出ません。
馬鹿は、考えてはいけません。


何事も、適材適所があります。
難しいことを考えるのは、頭のいい人間にまかせるのです。


なあに、大丈夫です。
世界には、人間種だけで60億人くらいいます。
地球とか人類の未来とかは、この星の何処かの国の天才が、頼まれもしないのに、その高IQで一生懸命考えてくれます。


自分が馬鹿だと自認したら、学習で身を立てるより陰徳にコストを割くのです。

そもそも、この大して根拠の無い陰徳という、いかがわしい物に身をゆだねるのです。
これは、頭の良い者には出来ません。

秀才は、インテリなだけに、こうした非論理的な存在を信じるという知的蛮行が、出来ないのです。
陰徳というのは馬鹿にしか出来ない行為なのです。

貴方が高IQのインテリに勝てる要素はそれしかありません。


その意味で、先ほど、否定した馬鹿になれという話を、舌の根が乾かぬ内に、覆す必要があります。

馬鹿になるのです。


このブログは「学問のすゝめ」の反対なのです。
「馬鹿のすゝめ」なのです。


目指すべき対象は、福沢諭吉ではなく、アントニオ猪木なのです。



この馬鹿になれというテーマは、宗教上、重要なので次回もこれに対して考察しましょう。





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