2018年5月4日金曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑥













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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。













因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論




の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。





1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の続きです。


ブラックボックス



無明ということは、前回までも話した通り、業が見えないということです。

業の中身はブラックボックス。

あくまで、因果の結果として、現世に出現した状況で判断するしかない。
(例えば、お金を盗まれたなら、ああ、前世で金を盗んだんだなあとかの帰納法)

もしくは、今までやっている業(善悪問わず)が、業として貯まっているのであろうということだけです。

それ以外の、まだ出てきていない業に関してはさっぱりわかりません。

そもそも、業が一代後に出るのかどうかすらわからない。
前世→今生、今生→来世の一代のタイムラグで出るならまだしも、数代以上、ストックされるのなら、もうわかりません。

ちなみに、修行すると会得するスキルに、
神通力の一つで六具神通があります。
天眼通・天耳通・他心通・宿命通・神境通・漏尽通
の六種類。

宿命通がこの中で一番関係有るスキルです。

輪廻や業を見ることが出来るスキル。

しかし、こんなスキルは、大多数の人間には関係ないスキルです。

持ってても、それが本当かどうかわからんのです。

単純に詐欺の場合もあるし、見えているものが、単なる記憶風景かも知れないからです。



輪廻はクソゲー


で、ここまでだったら、まだいいのですが、問題は、業がブラックボクスということは、その業を形成する条件すらもブラックボックスだということです。

何が言いたいかと言うと、業の基本は、善因善果、悪因悪果
です。
まあ、善悪を考えないで、単なる作用・反作用で構成されているという意見も結構多いのですが。

しかし、善悪の基準とは何でしょうか?

当たり前ですが、善悪の基準は、古今東西で共通していません。

近代以後の法律は、特に罪悪の基準である刑法は、罪刑法定主義です。

要するに、何が罪で何が罰なのかは、しっかり、法律として明文されているということです。
(そうしないと権力者が好きに罪と罰を決めてしまえるからです)

しかし、問題は、この因果応報で、はっきり善悪が決まっていません。

功過格を見ても、現代の日本人の道徳判断の基準から見て、
「え?別にこれ罪じゃなくね?」
というものは多いのです。

逆に、功過格の時代に罪じゃなかったものが載っていないなどは、普通にあります。


早い話が、我々が、一生懸命、陰徳を積んだとしても、それがカウントされていない可能性があるということです。

それどころか、知らない内に罪を犯している場合もあります。

生涯に渡り、陰徳を積んだ人生だとしても、死後、閻魔の裁きで、ノーカン扱いされる可能性があるのです。

この手の、「え?別に大した罪じゃなくね?」の例で、
一例を上げると、宗教的罪です。

どこの宗教でも、宗教的な罪は、罪レベルが圧倒的に高いのです。

例えば、仏教の五逆罪だと、親殺しと、僧侶に傷つけるのが同レベルです。

キリスト教でも、神やイエスに文句行っても大丈夫ですが、聖霊に文句言うと、地獄行き(こいつらは三位一体なので結局、どれに文句言っても地獄行きになるようにしてある)です。





一体、何が、業の罪刑に引っかかるかわかったものではありません。

手探りの中、地雷除去しているのが、我々の生なのです。

輪廻転生システムが、無明の闇だというのは、こういうことなのです。

つまり、あまりにも、生きている中での、リスクが高いのです。

元々、我々は、この現世でなぜかいつのまに生きています。

その現世は、弱肉強食の糞なシステムの世界で、他を喰らって生きないと自分が死ぬシステムです。

日本の平和で豊かな社会にいると、あまりわかりにくいのですが、実質的に、そういうシステムの中で我々はいます。


要するに、生きているだけで、大量のカルマを積んでしまうのです。
こうして生きているだけで、途上国や動植物を殺して搾取してガンガン徳分を減らしています。

で、徳分を減らすと、運が悪くなり、来世がろくでもなくなるという、正にクソゲー仕様です。

今、我々は、たまたま六道の中で、人道という比較的まともな世界にいて、かつその中でも、先進国日本にいて、モラトリアムな状態ですが、一歩間違えれば、ろくでもない世界なのです。




対策



で、このリアルなデスゲームの中で、今、たまたま、皆さんは、かなり、まともな世界にいます。

六道の中でも、六分のニ、つまり三分の一の確率です。
(人道と天道)

しかも、その中で、豊かな日本にいます。

さらに、豊河のありがたい教え(上から目線)を受けることが出来るのです。


もっと言えば、つまり、じゃあ、このクソゲーをどうするか?
という建設的な思考が出来る輪廻の世界にいるということです。
他の六道だったら、こういうメタ的な観点は持てません。

前回も言いましたが、この人道の中でも、一歩間違えれば、我々は、将軍様のマスゲームを一生懸命していて、こんなことを考えるモラトリアムがなかったかも、知れないのです。

で、結局、どうするのかと言えば、 まあ、そうは言っても、やれることはそんな多くありません。

まずは、定番中の定番、基本の陰徳でしょう。

たしかに、昔と今とではだいぶ、善悪基準が違っていますが、基本的なところはそうは変わっていないはずです。
(たぶん)

常識の範囲内で、陰徳を積みつつ、ついでに神頼みしておけば大丈夫(だと思うのですが)でしょう。

もちろん、前述したように、我々の善悪の判断基準が、冥律でアウトな可能性は否定できません。

なにせ、罪刑法定主義が無い世界です。

しかし、今の所、他に方法が無い以上、自己判断での善悪基準で、陰徳を積むしか方法がありません。

後は、保険で神仏に祈っておけば大丈夫でしょう。

これで、陰徳と神仏のどっちかがダメでも、もう片方で補填できます。
(両方ともアウトだったら、もうどうしようも無いのですが)後者の神仏ですが、特に、豊河としては、どの神仏の指定は無く、まあ、大抵の神仏ならば、死後の閻魔の前で弁護人になってくれるでしょう。

仏教だったら、大抵の仏(天部より上の仏)の経典を見ると、ご利益の列挙の中に、死後の保証が書いてあります。

~天という天部でも大丈夫でしょうが、
~菩薩だの~如来だったら、確実に死後の保証は書いてあります。


別に、多神教が気に入らなければ、ヤハウェでもイエスでもアッラーでも構いません。

何も信仰していないよりは、たぶんマシです。

ただ、新興宗教はぶっちゃけやめたほうが良いとは思いますが・・・。

ただ、もっと言えば、別に新興宗教の怪しい神仏だろうが、鰯の頭だろうが何だっていいのです。

だって、結局、業という無明の中では、何が適合するのかわからないのですから。

新興宗教じゃない伝統宗教だって、ダメダメなところはたくさんあるでしょう。
逆に、新興宗教だって、世間の風評に反して、まともな神仏がいるかも知れません。

伝統新興問わず、いくら本人が信じていても、ダメ教団のダメ神仏だったら、あまりご利益がありません。

信じてた宗教が糞だったなんてのは、このろくでもない人道ではよくあることです。

つまり、いくらお布施を貢いでも、信心しようが、死後に、閻魔が、
「ああ、この宗教・教団ね?偽物だな。結構な額を貢いでいたようだが、徳に全然なってないぞ?御本尊?拝んでも逆に徳分が減るシステムだぞ?」
と言われる可能性があるのです。

今も、世界のどこかで、カルトに洗脳された元信者がいますが、死ぬまで一生、騙されている人よりはましです。

まあ、一番いいのは、初めから騙されないことですが、ブラック企業の就職と同じで、そんな識別眼は持ってないのが普通です。

特に、幼少時から信仰していれば尚更です。


結局、これも業なのです。

生まれた環境やその後の人生は、ほぼ自動的に決定付けられています。
その中には、ダメ宗教に引っかかるという業だってあります。

良く、生まれは人間は選べないが、その後の人生は選べるとかいいますが、大嘘です。


この業については、基本どうしようもありません。

早い話が、我々が陰徳で運命を変えようというのも、すでに業なのです。


このどうしようも無いというのは、諦観です。
が、この諦めというのは、一種の悟りです。

業が見えないという無明に加えて、自分ではどうすることも出来ない。
自分の物ではないという、諸法無我と言い換えてもいいでしょう。

一切皆苦とも言えます。
四苦八苦の中に、求不得苦と言うのがあり、要するに、どうしようもないということです。

イスラム文化圏の人間は、何かあると、
「インシャラー(インシャーアッラー)」
と言いますが、要するに、自力じゃどうすることも出来ないというニュアンスです。

近代以後の観念に逆らう概念ですが、文明が進んでも、やはりどうしてもこういう部分が残ります。

これは、人間の上の、天道の住人の天人でも同様です。

宗教の本質は、こういう「人生はクソゲー」という真理に対して、どうするかが分かれ道となっています。

要するに、無明というキーワードは、
結局、「人生はクソゲー」論にリンクし、
じゃあとっととこのクソゲーをやめるかクリアしようぜという話になります。

諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静の四法印に結局、リンクするわけです。


で、一応、その有効な方法(確実とは言っていない)が、陰徳なのです。
(上記したように、信じてやってたり信仰していたのが、偽物で徳が無効化の罠とかあるのですが)、

結局、世の中に確実な物はありません。

このクソゲー内のシステムにいる以上は、何をやっても無明なのです。



で、今回は、業の差別思想反対に関係ない内容でしたが、無明の話は次回も続きます。































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