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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く
五十善に相当する
◯一人の流離を救免す。
因果応報理論にエラーがあるので、言い訳を考える話が前回でした。
今回も、その続きです。
【言い訳③ そもそも因果応報自体、無くね?】
そもそも、四民平等の近代以降の価値観で、生まれた瞬間に差別をするのは、現代人から見て問題外です。
自分が成功したのは自分のおかげ、
他人が不幸なのは自業自得という浅ましい思想など、
もはや人類には不要です。
因果応報自体が、近代以前の恥ずべき黒歴史だったのです。
さて、そんな悪しき迷信が天動説並の間違いであり存在しなかったとしたら問題は解決します。
前世の業など無いため、カルマの清算など不要です。
生まれによる身分差別は撤廃出来ます。
自分の成功が自分のおかげなどという傲慢も無くなります。
※才能や努力のおかげという観念は残るので、厳密には無くならないと思いますが。
不幸な者は自業自得という薄情な者もだいぶ減るでしょう。
しかし、その場合、因果応報のメリットである道徳的抑止という面が無くなるリスクが存在します。
自業自得の利点である、陰徳の促進や、悪行の抑止の利点がなくなってしまうのです。
その対策としても、次の理屈で対応できます。
社会上の法律で対応出来ない見えないところでの悪事は、無意識が自罰をするという理屈です。
およそ、人間の無意識は、因果応報の自罰の観念を持っているので、例え因果応報が無くても、勝手に作動します。
無意識が悪行に対して運命を狂わせ自罰させるように動くのです。
逆に、善行に対しては、自尊心が高まり、自分を成功させるような方向に無意識が誘導させるのです。
因果応報でなく、無意識という新しいブラックボックスを導入することで、因果応報の代わりにさせます。
さらに、来世に関しても、死ぬ間際の脳内麻薬大量分泌の理論でなんとかなります。
人間は、瞑想や苦行で大量に脳内麻薬を合成することが可能です。
圧倒的な快楽や全能感、神との遭遇に、宇宙との一体感を感じるのはこれが原因です。
しかし、所詮は、死の疑似シミュレーションです。
死ぬ間際の脳内麻薬の量は桁違いです。
大量の脳内麻薬は、人間の認識領域を一変させます。
天国だろうと地獄だろうと、薬物パワーでトリップさせてくれます。
走馬灯を見るという現象がありますが、死の寸前の一瞬の間に人生を体験想起させる現象です。
走馬灯如きですら、人生の数十年分を一瞬で体験するのです。
死ぬ間際の脳が壊れた状態で出る本当の、大量脳内麻薬の状態だと、何万年何億年の脳内体験になってもおかしくありません。
要するに死後の世界というのは、本人の脳内で体験出来るのです。
そこで天国になるか地獄になるかは、本人の潜在意識次第でしょう。
当然、悪行を積んできた人間と陰徳を積んできた人間とでは違うでしょう。
これで、ますます因果応報は不要になりました。
【言い訳④ そもそも別にあってもなくてもどうでもよくね?】
さらに4つ目の言い訳です。
今更な話ですが、ちゃぶ台返しとして、こんなロジックもあります。
そもそも、近代のロジックは別に神聖視する必要はありません。
人権一つとっても、別にそれが絶対的な真実なのではないのです。
当たり前の話ですが、人権も民主主義も近代システムの何もかもが、仮想的に作られただけの話です。
一例を上げれば、日本国憲法です。
前文では、天賦人権論が宗教的に記載されていますが、考えてみれば、こんなバーチャルな思想で現代文明は成り立っています。
数学と同じく、仮想されたモデルの中でお約束として、仮想の前提があり、その前提の元でロジックが展開していきます。
因果応報も、輪廻転生や解脱も、全部同じです。
仏教だけでなく一神教の神学も、全部同じです。
人間は、仕組みがブラックボックスであっても、生活に利用出来れば、使うのに躊躇しません。
近代モデルも、宗教モデルも、結局、根拠不明のブラックボックです。
しかし、使えればよいのです。
一番最初の定義が、論拠不明であやふやであっても、そのあとの論理展開があり、そのロジックが人類の役に立っていれば、それは真理として稼働していきます。
因果応報論は、色々と問題がありますが、生まれによる差別や弱者や不幸を是正しなければ、人類の統治OSとしては役に立ちます。
要するに、普通に生きている限り(在家)であれば、問題は無いのです。
本当のことを知る必要があるのは、プロの出家や為政者だけです。
彼らは、「密教」として、本当のことを知っています。
つまり、自分たちの宗教教義が、仮のモデルだという実相をです。
釈迦は、在家の信者には、簡単なゆるい戒律と布施(要するに陰徳ですね)をして、天界に生まれ変わるような教義を説きました。
ところが、プロの出家には、世界が諸行無常で諸法無我で一切皆苦だということを述べました。
在家用の顕教と、プロ出家用の密教では違う教えを説いたのです。
この、バーチャルな幻影を、大乗仏教では「空」と呼んでいます。
本来、無決定な世界に、仮想的に人間が自分の都合で色をつけただけなのです。
近代の創始者も、彼らは自分たちの教義が嘘ということはたぶん知っていました。
あくまでもモデルとして、社会契約論などを仮想し、その上で民主主義や人権などを論理体系の中に入れていきました。
それが、近代に必要だったからです。
科学が発達しグローバリズムになった世界では、封建主義や王権主義や神聖国家よりも、民主主義、資本主義の方が効率がよかったからです。
そうした、時代の必要に応じた仮想モデルが表向きの世界です。
それを取っ払ってしまえば、後に残るのは、人間というエゴに満ちた、弱肉強食の世界です。
本来、生きる意味も、道徳も何も無い世界ですが、先人たちは、集団が、全滅しないように、色々と頭を悩ませて「嘘」を作ってきたのです。
最悪、生まれ変わりも因果応報も無い可能性があります。
それだと、あまりにも殺伐としている世界になるため、幻想で色をつけているのです。
天才釈迦はそれを喝破したからこそ、それを見越して、この世からのエスケープを推奨しています。
また、百歩譲って、世界の真理としては、因果応報などがあり、生まれによる差は厳然として因果応報で存在しているとしましょう。
この場合も、世界の実相と表向きの幻影は別なものです。
因果応報があるからといって、それを社会的な差別として政策にするかは別問題です。
前回と今回の色々な言い訳のように、因果応報理論と上手いこと社会的な政策で折衷する処理する必要は今後とも、続くでしょう。
もともとブラックボックスでなあなあでやっているのが世界なのです。
一神教に至っては、誰も神など見たこともないのに、十億単位の信者がいて、世界を支配しています。
要するに、世界は、大人の事情のなあなあで成り立っており、我々はその幻影の上で暮らしています。
因果応報があろうがなかろうが、ぶっちゃけ対して変わらないのです。
あってもなくても、個人レベルの開運には変わりません。
これが結論です。
釈迦自身は、こういう宇宙論や因果論や死後や輪廻の話しに関しては無記(無回答)を貫きました。
因果応報があろうが、なかろうが、どうでもよかったからです。
上記したように、在家と出家で、教義を変えました。
在家は、因果応報があったら開運や死後の成仏ができるし、因果応報がなくても無意識や脳内麻薬で幸福になれます。
出家は、因果応報があろうがなかろうが解脱すればどうでもいいからです。
つまり、やっぱり因果応報があろうがなかろうがどうでも良いのです。
何で仕事の紹介の話をしているのに、長々と因果応報の話になっているのか、書いている豊河もさっぱりわかりません。
ほんと、豊河のお筆先は何がしたいのかよくわかりませんね。
まあ、次回からまた仕事の紹介の話に戻りましょう。
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