2017年3月5日日曜日

【陰隲録】功過格表⑬ 科学と魔術が交差するとき物語は始まる 五十善 家を絶やさないこと。④






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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)


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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

五十善に相当する

○一嗣を延続す。





【神は魚を正しく捌く】


前回、
「何で日本人は怨霊信仰なんてすんの?」
という、素朴な疑問に、
そもそも、日本以外の外国、特に、一神教は自然を自力で克服していくメンタリティを、指摘しました。

要するに、一神教にとって自然は敵なのです。
元々、砂漠で生まれた宗教ですから、地球を砂漠にしなければ気がすまないのです。

別に、地球が砂漠になっても神様と一緒なら困りません。
そもそも、大地は大地母神、つまり邪悪な悪魔どもです。

絶対神の裁きで、大地を砂漠にして裁くのです。
力量から言っても、地球ごときはまな板の鯉の如くです。
楽に捌くことが出来ます。

貴神がいれば
ああ、つらくはないわ
歩いていける
この地球を裁く




さて、(何事もなかったかの如くに)、
よく、こういう一神教の砂漠地帯に比べて、多神教は豊かな自然があるからなどの理由が言われます。

しかし、厳密にはそれは間違いです。
こう言ってはなんですが、一神教を生んだ砂漠地帯は、本当はぬるい環境です。

なぜなら、普通に、どうにかこうにか生きていけるからです。
最悪でもオアシスがあります。
要するに、逃げ場があるのです。
実際に、数千年間人が住める場所だったことがそれを証明しています。

そもそも自然征服と言っても、逆に言えば、人間が征服出来るレベルの自然なのです。
言ってしまえば、雑魚だったのです。
だからこそ、自然を支配出来るという観念の宗教が生まれました。

よくユダヤ人が支配帝国へのルサンチマンから、一神教を作ったと言われますが、実は、相当ぬるいのです。

当たり前ですが、どんなに強力な帝国と言えど、所詮は人間の作った物です。
数世紀も経てば消滅します。
ユダヤ人特有の内部潜入など、いくらでも対策のやりようはあるのです。

しかし、そんなぬるい環境と、日本列島は次元が違います。
ユダヤ人はたかだか奴隷にされるくらい(それはそれで問題)ですが、日本列島は、全く容赦なく為す術もなく全滅する恐ろしい環境だったのです


【絶望の国】


我々は、世界でも屈指の地震大国にいる民族ですが、厳密に言えば、地震ですらまだぬるいのです。
カルデラ噴火により、何度も日本列島の住民は壊滅しています。
※厳密には火山と地震は連動しているのですが・

富士山ですら、今の東京を楽勝で、全滅出来ますが、古代の鬼界カルデラ噴火はレベルが桁外れです。
当時の縄文人を、根こそぎ滅ぼしています。

要するに、火山地震列島の上に住んでいる我々は、人間社会に全く関係なく常に、ロシアンルーレットを強いられているのです。
(現在はさらにリスク度に、原発もプラスされていますが)

先ほども書きましたが、帝国に支配されたとか、北方の蛮族に襲われているとかならまだ対応策はあります。
所詮、相手は人間です。
権謀術数を尽くして、対応可能です。

しかし、火山や地震はどうしようもありません。

自然を克服する一神教の宗教観念を、日本は持たなかったのは当たり前です。
何をやっても無駄だからです。

なお、もしかしたら、現代科学の軍事レベルの裏の科学(もしくは未来の科学レベル)だったら、ひょっとして何とかなるのかも知れませんが、
どちらにせよ、日本の歴史の中で、つい最近の21世紀以降の話です。

長い間、人為が全く通用しなかった、我々のご先祖様にとっては、詮無きことです。

この、人為に全く関係なく、何をどうしようが理不尽に全てを奪われる。
この、究極の絶望の中で、我々の先祖は、もはや自力信仰を捨てました。

言葉も通用しない自然に対して、ひたすらご機嫌を取りなだめすかして、卑屈に振舞うのみです。

我々はこの態度を、通常、奴隷と呼びます。
しかし、奴隷はいつか逆転劇の可能性がありますが、自然相手には成り立ちません。

理不尽に振舞うのが神だったら、まだ交渉の余地はあります。
どんな嫉妬深い神だとしても、契約は結べます。
しかし、人間の会話も努力も、全く通用しない自然という相手だったら?

やがて、奴隷は、ストックホルム症候群になり、自分を虐げた相手を好きになります。

生存本能からです。
「自分がこんなに相手を好きなのだから、相手も好意を持ってくれるに違いない」
生存確率を上げるために、本能で、相手を好きになってしまうのです。

だから、我々は、自然が大好きなのです。
人工的な神ではなく、生ける神である多神教の神々が、大好きなのです。

虐待された子供が、「お母さんが大好き」というのと全く一緒です。
好きでないと、いつ牙を剥くかわかったものではありません。

こちらが好きだろうが嫌いだろうが、自然には一ミリたりとも通用しないと思いますが、それでも、通じない可能性はゼロではありません。
生存率を上げるために相手を好きにならなくてはなりません。

我々、日本人の心性(神性)には、そういうものが、根っこにあります。

凄まじいまでの無力感と、諦念、そしてストックホルム症候群です。

諦念の「諦」は「諦める」という文字と一緒です。
「言の帝」が諦めるなのです。
言語が通用しない相手には、一切の言葉は無力なのです。

これが、表に出てくると、やれ怨霊信仰だの、他力信仰だの憲法九条だの、トラックに轢かれて異世界転生だ

のになるのです。



【科学思考】


怨霊信仰は、なぜ人間の怨霊如きをこんなに過大評価するのか?
という前回の謎がありました。

答えは、逆なのです。
なぜ人間をではなくて、話のつかない大自然を、なんとかして元人間(怨霊)という、まだ話のつきそうな相手に投影しているのです。

天変地異を、怨霊という枠組みに固めてしまえば、それを宥めることで、怨霊=天変地異を何とかできる(と信じたい)と考えているからです。

そうすることによって、少しは、我々日本人にも希望が出てきます。
アクセス不可な、大自然を、怨霊と言うインターフェースを設置することで、「操作可能」になるからです


神を操作可能にする魔術的信仰は、イエスや仏陀の教義に比較して未開だ、という論は、一神教サイドから、良く聞きますが、それこそ噴飯物の意見です。

カオスの対象に枠組みを作るためのモデル(仮の構造)を設置するというのは、数学と同じです。
科学の全ては、そこから始まります。

大自然を操作可能にする、再現可能な対象にするというのは、科学的思考です。
人類は初期の頃から、どうしようもない大自然をなんとかこうにかして、操作可能にしようとしてきたのです

一般の風評とは別に、科学というのは、元々、枢軸宗教の間からは出てきていません。
自然を克服するのが大好きな枢軸宗教ですが、それは、科学ではなくて、もう自然なんてどうでもいい、焼き尽くせ!
というニュアンスです。


自然そのものを操作可能にする。
自然の中の理を見つける。
というのは、一神教や仏教などの枢軸宗教の発想では、ありません。


その証拠に、科学の歴史を見ると、仏教や一神教は全く役に立っていません。
彼らにとって、世界や自然というのはどうでもよい対象だからです。
天の国や涅槃に行くまでの仮の地、穢れた穢土地だからです。

だから、科学は、キリスト教とは関係の無い、古代ギリシャのリバイバルからですし、キリスト教とは無縁の、錬金術が科学の卵だったのです。
この両者は、当然、多神教です。

自然や世界や物質がどうでもいいという連中からは、科学はどうでもよいものに移るのです。
日本は単に文明度が低かったので、古代からの科学の発展は皆無でしたが、江戸時代の庶民の数学レベルや、現代でも、日本のノーベル賞受賞者(ただし、理系オンリー)の異様な数を見れば、多神教の日本の適正がわかります。

これは、比較として、お隣の国を見て見れば、わかります。
儒教(朱子学)と言う枢軸宗教の国では、偉いのは文系です。
役人と言ってもいいでしょう。
対して理系は全く機能していません。
科学や技術などは、低層の者がやる職業なのです。

西洋でも実は同じです。
昔は(今でも)、一番偉いのは神学(神の学問)です。
さすがに、近代以降、数百年経っているので、科学にある程度の評価は与えています。
が、それでも、神学と同程度のライバルくらいの認識です。

我々、日本人から見たら、科学様と宗教が同レベル?はぁ?という感じですが、それほど、枢軸宗教と言うのは重いのです。

向こうの連中と、我々日本人は、根底から違うとわかります。
要するに、我々は、本音は枢軸宗教なんて信じていないのです。

自然を超越した空想の神など、一ミリたりとも、信じていないのです。
仏教やキリスト教が入ってきても、いつのまにか、全然違うものになってしまっています。

自然や世界を超越した、それらはどうでもよいというジェノサイド教義が、いつのまにか、汎神論的な自然に世界に感謝!の教義の宗教になってしまっています。

大日如来や阿弥陀仏や法華経の例が、これ以上ないほど雄弁に語っています。
みんな、汎神論的で自然崇拝で在家主義、欲望肯定で、自然や世界のあるがままで大丈夫だよ・・・
と言わんばかりです。


さて、怨霊信仰のシステムが判明したところで、ダラダラ書いているので何の話をしていたんだか忘れています・・・。

そうそう、家を絶やさないことの話でしたね。
で、そこに家を根絶やしにする悪霊怨霊を退散する話でした
(たような記憶が・・・)。

では、遠回りをしていますが、次回は、この先祖代々祟る迷惑千万な、怨霊退治の話に戻りましょう。



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