2017年3月13日月曜日

善光寺(長野県長野市元善町491) パワースポット(長野)




このブログの全体地図はこちら

はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)


パワスポ記事のまとめはこちら

パワースポットまとめページ






「牛に引かれて善光寺参り」
で有名な長野県の善光寺。

東日本でも屈指の歴史を持つ古刹で、WIKIを見ても、その歴史の長さが長々と載っています。




長野県の、県庁所在地の長野市にあり、アクセスは容易です。

都内在住の豊河も普通に東京から新幹線で長野市に到着。

長野駅からは徒歩でも普通に行けますが、めんどい人はバスも普通にあります。

長野市の観光名所で、東京の浅草寺並に、観光地としてのインフラもされています。

寺につくまでの門前町も普通にインフラ整備されていますので、観光としても十分楽しめるでしょう。





歴史的には、天台宗と浄土宗ですが、現在は、無宗派の寺として、宗派関係なく、お参りできます。

何しろ歴史が古いので、歴史の風格ある建物を見るだけでも、やっぱり十分楽しめるでしょう。

本尊は、WIKI曰く、
「三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている」

です。

絶対秘仏という、無駄に厨二病溢れるネーミングが光っています。




長野駅から、バスか徒歩で行くと、門前町の観光用に整備されたところに到着します。

そこから、記事冒頭の門(仁王門)に入ります。







そこからは境内ですが、さらに門(山門)があります。


ここに更に通って、ようやく本堂に入れます。




中は、普通にお参りできますが、さらに奥の内陣に入るには、有料(500円)です。

内陣で、焼香して阿弥陀佛にお参りします。




しかし、この内陣、もう一つ、観光名所のアトラクションがあります。

というより、これが善光寺のメインです(勝手に決定)。

それが、「お戒壇巡り」です。

HPの説明には、

内々陣の奥、右側を進むとお戒壇巡りの入口があります。お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です。入口には、タイ国王より贈られた仏舎利(お釈迦様の御遺骨)とお釈迦様の像が御安置されています。

とありますが、要するに、善光寺地下ダンジョンです。






↑こんな感じの地下ダンジョン。



この迷宮は、マジで真っ暗です。

右手側に、錠前があるので、壁側に手をついて進みます。

ちなみに、冬なので、手が冷たくなりました。

真っ暗闇の中を、巡礼者の如く、進みます。

まあ、観光地なので、当然、一人ではなく、前後に別の観光客などがいて、子供とかが五月蝿くて、雰囲気が台無しになりますが、それでもある程度の、雰囲気は出ます。

その意味で、行楽シーズンなどは避けたほうが良いかも知れません。




真っ暗闇の空間に入るのは、宗教の古今東西の修行法や、通過儀礼に特有のイベントです。

単純に、五感の感覚や外部からの情報を遮断する洗脳手段、という面もあるのですが、それはイコール宗教や変性意識に必要な、変性意識状態を生成しやすい環境ということでもあります。

つまり、これも一種の修行なのですね。

真っ暗な空間を通るのは、即ち「死と再生の儀式」です。

あらゆる宗教体系が、この「死と再生の儀式」を持っています。

地母神的信仰を毛嫌う一神教すら、この手の儀式を持っています。

表の宗教だろうが裏の宗教だろうが、正統異端、秘密結社だろうが、変わりません。

これが無い宗教はまずありません。

必ず何らかの形で存在しています。

バンジージャンプから、洗礼の水潜りまで、今までの自分におさらばして、新しい人生に生まれ変わるための、死と再生の儀式なのです。

新しい自分とは、大人であったり、戦士だったり、正社員だったり、信徒だったり色々です。

今までの自分を殺し、新しい組織への自分へ生まれ変わるのです。

軍隊の新兵訓練がそれに該当するでしょう。




さて、この戒壇廻り。

暗闇を利用する死と再生の儀式です。

前述したとおり、暗闇を使うのは宗教の基本です。

母親がしつけのために子供を入れるのも同じ理由です。

チベット密教でも、暗闇の閉鎖空間を利用した、修行システムが存在しています。

暗闇は人間が生まれる前の子宮と産道(参道)、そして棺桶と地中の黄泉の国です。

人間は暗闇の死の地中の迷宮ダンジョンから、生まれて光の地上へと出てきます。

そして、また死んで地下に戻ります。

人間は暗闇の穴から生まれて、暗闇の穴に戻るのです。



戒壇廻りをしていると、暗闇の中で、この死と再生の儀式の理屈が、体感としてわかります。

そして、もう一つの別の、認識も同時に、体感します。

豊河は、戒壇廻りの最中に、次の認識を体感しました。

人生そのもの、生存そのものも、闇の中なのだと。

暗闇の地下の胎内にいるのは、生まれる前や死ぬ時だけでは、ありません。

生まれてからもそうです。

人間は、無明の闇の中にいます。

無明は仏教用語で真理の実相に暗いことを示しますが、それだけではありません。

未来が見えない人間は、人生という海を渡海するにあたって、無明の闇の中にいます。

我々は、明日どうなるかわかりません。

明日どころか、一瞬先すらもわかりません。

そうした意味で、全ての人間は無明の闇の中にいるのです。


善光寺の戒壇廻りは、阿弥陀仏の極楽浄土がその無明の救いとしていますが、解決策が、どのような手段にしろ、人間はデフォルトでは、無明の闇を彷徨っています。

そのことが、体感出来るイベントが、善光寺の戒壇廻りです。










0 件のコメント:

コメントを投稿