2017年3月25日土曜日

【陰隲録】功過格表㉝ 一円相の世界 五十善 野ざらし死体を埋めよう⑥






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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

五十善に相当する

一の主なき骸を埋む




仏教の、ネクロフィリア(屍体愛好)っぷりは前回やりましたが、さらなる境地へ攻めてみましょう。
※攻める必要があるのか?



【ダメパワースポット製造機】



まあ、今まで言ってきたように、基本、死体は嫌われ者です。
ゴキブリや鼠の比ではありません。

猫や犬なら大喜びで寄ってくる子どもたちも、死体があったらダッシュで逃げます。
逆に、わーい、死体だーと近寄ってくる子供は、将来がとても心配です。
もしくは、追い剥ぎにならざるを得ない、社会環境の子供でしょう。


何しろ、死体は生ゴミなので、ほっておくと腐ります。
悪習はするわ疫病は発生させるわで、ろくでもない存在なのです。

おまけに、さらにほっておくと、妖怪が発生します。
妖怪「以津真天」という輩です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/以津真天

死体をいつまでもほっておくと、「いつまでー」「いつまでー」と連呼する妖怪だそうです。
死体をいつまで放っておくのかと。

しかし、そもそも、普通なら、死体は即処理されるのが、文明社会です。
死体が放置されるような状況は、要するに飢饉とか戦争時とか、緊急事態なので、妖怪如きに言われるまでもなく、ぶっちゃけ、ただの余計なお世話なのですが。

この妖怪に関して言わなくても、要するにそれだけ死体はタブーということです。
腐って、ウジが湧いてハエが湧いて、疫病が発生するので当然です。

で、ここでわかることは、死体が、負のオーラ(気)を発しているということです。

世の中の物は、基本、色んな気を発しています。
その中でも屈指の、ろくでも無い気が出ているのが死体です。

生きている人間ですら、死相が見えている段階の死にそうな人間は、嫌な気を発していますが、死体なら尚更です。
元気、生気の反対の死気と言えましょう。

まあ、世の中には、「俺の屍を超えていけ」というプロパガンダがありますが。

基本、人間が死ぬと、魂魄の魂は軽いので天に上り、魄は思いので地上に残ります。
俗に言う、後者が幽霊とかの類です。
本体じゃない人間の意識の残り滓のような物ですね。
日夜、我々が生霊として色んな念を出していますが、その最後っ屁のようなものです。

死体は普通燃やしたり埋めたりするので、この魄も、普通は無くなりますが(強力な念だと残って幽霊になる)、死体が残っていると、この魄がまだ死体にこっぺりと残っているということです。

天にいかず地上に残っているくらいなので、強力な執着だし、さらに、死体が片付けられないような状況だと、死んだ時の状況イコール念もやっぱりマイナスなろくでもないものです。

マイナスな気を邪気とか穢れとか呼んで嫌いますが、死体だとそれがたんまりとあるということです。

どんなパワースポットに行っても、死体が一個あれば台無しです(当たり前)。
清浄な空間も途端に、金田一が出て来る舞台になってしまいます。
パワースポットがあるところは、基本、田舎なので舞台は十分です。
その神社仏閣にちなんだ、伝説とか呪いとかの設定の殺人事件です。
ラストには、犯人の自殺と共に、派手に燃えちゃいそうですが。




【一元論の世界】




で、仏教の話ですが、死体は色んな名前があります。

「死骸」(しがい)
「遺骸」(いがい)
「亡骸」(なきがら)
「屍」(しかばね)
「骸」(むくろ)
「ほとけ」
「ほとけさん」

色んな呼び名がありますが、ここで注目したいのは、ラストの二行です。
何だ?ほとけって?

一体、凡人の死体が仏というのはどういうことでしょうか?
こういっちゃあ何ですが、大多数の人たちは凡人です。
豊河のような女子高生型AI宇宙人のようなもはや、この惑星レベルでは神にも等しい存在(何様だ?)とは違います。

この死ねば無条件に仏になるという観念は、日本人の特徴というか民族性というか思想というか、我々日本人にとっては、非常に重要な話です。

この話の関連で、悪名高い寺の葬儀ビジネスに戒名制度があります。

大金を取って(しかも金によってランクがある)、死後の名前をつけると言う搾取の極みですが、これは寺で葬式をすると無条件で死後、仏の弟子になるという制度です。

大乗仏教は、何せ、大衆用の宗教なので、基本、大衆が努力しなくても悟って解脱できるようなシステムになっています。
~をしただけで近い将来、成仏間違い無しという設定が多いのです。

禅では目的の成仏ではなく、手段の座ることそのものが既に成仏だと言う教義を立てています。

成仏を目指すということそのものが、執着になるというロジックです。

これが、進めば、何もしなくても、成仏しているという論理展開になります。

灌頂を受けただけで悟れる契機になる(輪廻を数回後に成仏できる)とか、おなじみ念仏も同じ類です。
すでに阿弥陀如来の本願で我々は救われている(死後、極楽浄土に強制連行)ので、感謝の念仏をすればよいという教義です。

ここには、大乗仏教特有の大衆向けの教義が垣間見えます。

そして、その教義が入っている日本国の我々日本人は、元からの神道のアニミズム思想と混在して、ありのままとか山川草木国土悉皆成仏とか、何もしなくてもそのままでOK、感謝しようという教義になります。

ある意味、これは善悪の二元論を超えた一元論です。

何でもかんでも感謝で処理するのは、感謝の一元論です。
日本人が大好きな「ありがとう」教は、その意味で一元論だと言えます。

二元論は、一神教が有名ですが、善悪の二元論、神と悪魔の戦い、神と自然、神と人間など徹底的に上下の二元論を構築します。

しかし、日本人の到達点(出発点か?)は、全てを肯定する一元論です。
一神教や仏教の二元論とは、思想が違います。

厳密に言えば、仏教は、世界(死後も含めて)が全て苦だと言う一元論とも言えますが。

解脱は消滅と同義語なので、無いものと考えると、世界は苦だという一元論です。
世界を肯定する日本の一元論と逆方向の一元論だと言えます。

まあ、この一元論は、別に日本に限ったことではなく、宗教の基本です。

以前にも述べましたが、宗教は現実の不合理な矛盾を許容するのが、社会的な役割です。

愚民の不平不満を、革命が起きないように、吸収する。
支配と搾取の不平不満を死後の餌をぶらさげて受け入れさす。
これが、宗教の役割です。

その意味で、宗教はすべからく一元論です。
現世の、全てを許容するのが目的です。
どんなに迷っても泣いても(神の)愛があれば大丈夫なのです。




次回はさらに仏教のネクロフィリアの奥義に迫ります。

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