2018年2月3日土曜日

【陰隲録】功過格表176 十善 いい人を紹介しよう53 何が君の幸せ?という、衣食住に困窮したことのないブルジョア階級の発言












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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)



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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら



功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



わからないまま終わる



世の中には、どうみても運の良い人がいます。


この平等であるはずの世界の中で、なぜか天から愛された如くに運がいい人と、ものすごく運の悪い人がいるのです。

この運は、今までは生まれつきの物であり、後天的にはどうしようもないというのが、基本です。

運は操作出来ないゆえに、どうしようもないということです。

そのため、人間は出来る範囲で、努力しようというかそれ以外にしようがないというのが一般的なイメージです。

しかし、そういう唯物論的な考えは、あくまで恵まれている人の思考です。

努力する土台すら用意されない人は、努力という逃げ道すら無いのです。

それでも、少し抽象的に物事を考えることの出来る人は、運そのものをなんとかしようと思って、神頼みに走ります。




運という目に見えない領域は、神仏という目に見えない領域の住人になんとかしてもらおうという魂胆です。

これは、対象が、神仏でも悪魔でもご先祖でも同じです。

世界には宗教が山ほど存在し、信者は雨後の筍の如く存在していますが、実質的には、衣食住(と交尾)をなんとかしろという現世利益の熱いパトスが動機です。

ご利益のない神仏など、存在価値は無いのです。

何かご利益があるからこそ拝むのです。


人間は、その特性上、環境(自然)を操作しようという性質があります。

それは、火を覚えた頃からの特性かも知れませんし、言語や文字という抽象的世界を可視化した頃からかも知れません。

目に見えない領域を、コントロール下に置こうというエンジニアリングの熱意によって、人類はこの地球上の覇者となったのです。

そして、このブログで、口を酸っぱくして言っている陰徳もその一つです。

人間の科学で、自然を操作しようとする近代的な思考なのです。

そもそも、陰徳とは、全く科学的に何の根拠もありませんが、人に知られずにする善行が、運を良くするという摩訶不思議な理論です。

ぶっちゃけ、ただの経験則で、過去に成功例があるからというだけの代物ですが、案外、世の中はこういういい加減な前例主義で動いています。

この前例主義は、世間でもう少し取り繕った言い方ですと、「伝統」と呼んでいます。

ある意味、陰徳などは、
「水虫にはお茶っ葉が効くんだべ」
という、おばあちゃんの知恵袋と、大して変わりはありません。

ただ、その知恵袋の歴史が、数百年、数千年というスパンの話になっただけです。

ちなみに、法学の世界では、これを慣習法と言います。

なんとなく続いているから、このままでいいやということで世の中は結構動いています。

考えてみれば、我々は、世界の大部分は、よくわからない原理原則で動いていることに気が付きます。

そもそも、死んだらどうなるのか?
死後や前世はどうなっているのか誰も知りません。

死んだら閻魔大王の前で裁判というのも、伝統的に大した根拠なく信じています。

世界の大部分は、よくわからないブラックボックスです。

わけの分からないまま生まれて、わけの分からないまま死ぬのです。

そんなのは嫌だと言えるのは、アンパンマンくらいです。

全人類は、誰ひとりとして、世界の実相を知ることが出来ずに、無明の闇の中で一生を終えるのです。

空海の名セリフに、
四生の盲者は盲なることを識らず。
 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、 
死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
がありますが、別に空海だって世界のシステムなんて何一つ知らずに死んでいくのです。


仏教の初期の集団の、説一切有部は、煩悩を六種類に分類しました。
(ほんとは、もっと細かく分類していますが)

貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とよんで、基本的な煩悩としています。

これは、六道に対応しており、その中でも、我々の住んでいるこの人道世界は、疑が担当しています。

要するに、何が正しいかさっぱりわからないということです。

知能そのものが無い畜生道よりはましですが、なまじ知能があっても、真実はさっぱりわからないのです。

近代以後風に言えば、これは、実存主義の問題です。

実在(存在)してはいるのですが、何のために生きているか?何のために存在しているかが、わからないのです。

近代になって、科学主義になって、唯物論が主流になった結果、自分や世界の存在意義が、わからなくなってしまったのです。



働かざる者でも食うべし


実際、現代人の我々は、人生の指針はありません。

~をしなければならない。

という指針がほぼ消滅しています。

そのために、現代の人生の指針と言うのは、要するにライフハックがメインです。

いかにより(都合)よく生きるか?

いかに金を稼ぐか?

いかに人生を謳歌するか?

この世界の中でいかに効率よく生きるかの指南書は、本屋に溢れています。

彼らは、現代の預言者であり宗教者です。

愚かな民衆に法を説いているのです。

身分のタガが外れた結果、より自由な世界になり、実力があるものにとっては、夢のような世界です。

しかし、困ったことに、大抵の人間は、別に実力などないので、身分によるセーフティーネットが消滅してしまったという面もあるのです。

別に自分で考えること無く前例踏襲で生きていけば、人並みの人生は得られたのです。

今の時代は、鎌倉仏教が登場する前の民衆のように、救いを求めている時代です。

理由は、誰しもが、ライフハックでハッピーな人生を送れるわけではないからです。

ライフハックは一部の人間しかご利益を与えられません。

日本を含む先進国は、ほんの一握りの人間しかグローバル化に耐えられないのです。

インテリ階層であっても、AI(人工知能)によって職が駆逐される時代です。

途上国の低賃金の労働力と低価な供給物は、先進国の人間をひたすら駆逐するシステムだからです。

昔だったらブロック経済に世界がセグメント分けされ、とっくに戦争が起きていたでしょう。

そもそも、大量生産された資本主義の供給物は、食料含めて、すでに人類の総需要を上回っている時代です。

本来なら、誰ひとりとして飢える必要はありません。

ベーシックインカムのように、最低限の文化的な生活を営める衣食住の提供は、政策として可能なはずなのですが、どこの国もやらないところを見ると、まだまだ人類は懲りないようです。

先の大戦でブロック経済の弊害や核兵器が克服されたように、人類は痛い目を見ないと、失敗に学べないのです。

早い話が、人類が百億人いたら九十億死んだとしても、10億人残ります。

その10億人で、失敗を学んで新システムを具備してリスタートすればよしという血も涙もない世界です。

しかも、恐らくこれを主導しているのは、神(人類規模クラスの担当や国レベルの担当)でしょう。


この痛い目をみないと理解しないという人類の度し難い性質のせいで、罪のない人類の被害者が毎回大勢出るのです。

ほんとにこの世界は苦界ですね。





王の道


結局、人生に指針の無い迷妄の闇の中に、現代人はいるわけです。

彼らの人生指針は、結局、ライフハックという、いわば弱肉強食の人生指針です。

この世界というジャングルの中でいかに上手く生き残るか?
ということを言い換えているに過ぎません。

近代以前の、理屈はいらないから、これこれこうしなさいという命令が通用しなくなった以上、人生指針へのモチベーション付与は、自分の得になるかどうかです。

かつて徳を説いていた、人生指針は得を説くことにシフトしてしまったのです。

別にそれがいいとか悪いとかの問題では、ありません。

所詮、この世は、自己責任です。

徳よりも得に生きた方がいいに決まっています。

正直者は馬鹿を見るのは、古今東西の鉄則です。

自分のために生きるのが、最高の生き方なのです。



そのため、現代人は、最強のライフハックであり、至高の自業自得理論であり、究極の自己責任論にたどり着く必要があります。

すなわち、陰徳です。

徳が得とイコールだという、因果応報の原則により、ライフハックは、最終的には、陰徳に辿り着かざるを得ないのです。

ライフハックは、人生を謳歌するための、人類の知の結集です。

時間管理からスマフォアプリまで、よりよい人生を歩むための情報の集積です。

しかし、陰徳というライフハックに比較すれば、もはや、どんぐりの背比べです。

ライフハックは所詮、命運の範囲内で、あがいているだけに過ぎません。

生まれ持った運命の枠を越える代物では無いのです。

しかし、生まれ持った命運の枠を超えるのは、陰徳しかありません。

これに匹敵するのは、悪魔に魂を売るくらいです。

しかも、陰徳は、死後の成功をも約束しています。

効果範囲が生前に限定され得る、悪魔に魂売りという策は、上策である陰徳に比較して、下策でしょう。

この世の現世利益も叶い、さらに来世の往生も約束してくれるこの陰徳こそが、ライフハックの王道なのです。




過保護


ライフハックと陰徳としての共通点は、何より、その唯物論的な自己中心主義にあります。

人間主義と言ってもいいでしょう。

自分を救えるのは自分しかいないという発想です。

人間を救えるのは人間だけと言い換えても良いかも知れません。

いつも言っているように、お経の観音経(法華経の一部)の念彼観音力の羅列は、あれは人間の陰徳目標なのです。

あそこに羅列してある観音様の救済一覧を実行しなさいよという功過格なのです。

人間は、自分で考えて行動できる人間は少なく、大半は指示待ち人間なため、あえて具体的に羅列してあるのです。

このブログの陰隲録、功過格も同様です。

具体的な項目を並べて、指示待ち人間にわかりやすく実行しやすいように書いてあるのです。

ついでに、言えば、陰徳をしろよという一言で済む話なので、こうしてダラダラ大量の記事にしてあるのは、人間は習慣にならない行為は聞いただけだと続けて実施出来ないからです。

これだけしつこく書いてあれば、月単位、年単位で陰徳のことを覚えていることが出来るでしょう。

ぶっちゃけ、陰徳を人生の中で習慣づければ、もはや人生のライフハックは勝利したも同然です。

このブログは、それ以上の存在理由など無いのです。


神仏も豊河も、無駄に過保護な存在なので、こうして陰徳者の面倒を見ているのです。

毎朝、布団を引剥がして起こしてくれる母親の如くに過保護な存在なのです。

母親はウザいというのであれば、毎朝、布団を引剥がして起こしてくれる、隣に住んでいる幼馴染の女の子でもいいのです。

対機説法として、あらゆる衆生のケースに応じて、変化身と方便を用いて、人を救済するのが阿弥陀如来の手下の観音菩薩のスキルです。

この駄ブログですら、壮大な衆生救済のシステムの末端なのです。

まあ、末端はいつの時代でもトカゲのしっぽとして切り捨てられるのが関の山なのですが。























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