2017年11月19日日曜日

【陰隲録】功過格表167 あるかないか?それが問題だ 十善 いい人を紹介しよう㊹











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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



進化・・・いい言葉だ


世界の目的方向と、自然法則は、ある程度連動しているはずです。

世界全体の目的がある以上、それを促進させるようなシステムがあるはずだからです。

基本的に、この世界は、無機物の地球の上に、生物が鎮座ましましています。

で、お互いに殺し合いの弱肉強食を演じているわけです。

何だかんだ言いながら、世界の実相は、この弱肉強食に尽きます。

文明人面している人間様だって、普通に、他生物の穀物や野菜や動物の肉を食べているのですから、何をか言わんやです。

こうした「生命の実相」は、虚飾を剥ぎ取ると、このようなろくでもない実相です。

生命賛歌と言うのは、弱肉強食賛歌です。

この弱肉強食システムが基本であるとすると、では、強者で生きるのが、世界の目的なのでしょうか?

ひたすら生き延びて子孫を作る。

敵に勝ち、食料を奪い、女を孕ませる。

このような脳筋的な生き方が正と言えるのでしょうか?

通常、宗教は、こうした生き方にNOと言いますが、案外、この脳筋的な生き方は悪とは言えません。

上記のような世紀末のモヒカンだって、一家の長と考えれば、それなりに立派な生き方だからです。

少なくとも、自分の守るべき一家のために、働いています。

荒野でバギーに乗って「ヒャッハー」と野盗をしているモヒカンだって、家に帰れば、一児のパパかも知れないのです。

人間は何百万年も狩猟時代をして来ましたが、やってる事は他生物への殺戮と肉食です。

山賊や海賊行為を延々としてきたのが人間です。

時代が進んで、部族(トライブ)規模から、国家規模になってもやることは変わりません。

国家だろうが企業だろうが、やってることは、他組織を殲滅して食肉(市場)をゲットすることです。

人間という生物や文明には、根底にこの動物的本能が存在しています。

生命の実相とは、美辞麗句の虚飾を剥ぎ取ると、出て来るのはIQの高い動物の生存本能です。

現世利益の高い信仰は、日本だと稲荷信仰や蛇信仰や聖天信仰です。

キツネ(稲荷)や蛇(弁財天など)や象(聖天)の造形の意味は、人間にとって生きるということは動物と同じ生存本能なのです。

野生のパワーが無ければ、人間は生きていけません。

まあ、野生のパワーだけ暴走しても、結果は、酷いことになるのが歴史の示すところです。

大抵、こうした現世利益信仰は、ストッパーの装置があります。

例えば、聖天(歓喜天)には、向かい合って抱き合っているのは、十一面菩薩です。

聖天を本尊とする信仰形態は、大抵、聖天だけでなく上司の十一面菩薩も信仰しろと言いますが、こういう理由です。

現世利益という動物の力だけだと、まずいからです。

生物は、単細胞生物から複雑な高等生物に進化してきました。

世界に目的があるとすれば、この進化の流れと無関係であることはありません。

人間と言う種からさらに進化した種になるという進化論的考えは、実は、宗教業界でも同様です。

人間の上に、神仏という架空の生物を想定しているのが宗教です。

人間は生成途上の神であるという、ナチスの理論は、ある意味、宗教であるのです。



なぜ?×無限ループ


仏教では、人間より上の世界の住人を天道と呼んでいます。

天国でも天界でもいいのですが、しかしながら、これは人間界と同じく、ぐるぐる廻る六道輪廻の一世界に過ぎません。

世界に方向性があろうが、なかろうが、仏教では、それを否定するのです。
※厳密に言えば、方向性があろうがなかろうが、最終的に消滅を目指すのでどうでも良いと考える。

人間が進化しようが、どうでも良いのです。

仏教と違って、進化系の世界観を提唱する宗教(実際は、仏教以外は全部そうなのですが)は、無限の進化(もしくは究極にまで到達でゴール)の図式を採用しています。

要するに、人間が善行を積んだり、修行を積んだり、何かしらの学びを得れば、人間よりも上の生物になれる。

そして、それは、完全体に近づいていく。

そういう進化論的世界観です。

この仏教的世界観と、その他全ての宗教世界観は、どちらが正しいのでしょうか?

※あの世が無いという無神論的世界観は別にして。

最低限、前世、現世、来世の三世界があることは、宗教には共通しています。

一神教は輪廻転生を否定していますが、それでも、来世は肯定しているのです。

では、なぜこの三世界、輪廻転生が存在しているのか?

仏教では、この存在論には答えられません。

無知と執着で、生存ループが存在していると説きますが、では、なぜ存在そのものがあるのか?という問いには、無回答です。

有名な毒矢の例えの通り、そういうブラックボックスの解明はどうでもよくて、今、輪廻転生で苦しんでいる衆生を助けるのが先だという論法です。

もちろん、衆生は、無限にいるので、実質的に、永久に解答しないよと言っているのと同じです。

仏教以外の他宗教では、絶対神を想定します。

全宇宙を作った絶対神です。

つまり、全宇宙、全世界には、絶対神が作ったので、創造者の神の目的性があるわけです。

ちなみに、じゃあその絶対神は誰が作ったの?という問題には、華麗にスルーします。

全宇宙を作った絶対神がいるという大前提から話をスタートするので、答えられないわけです。

これは、仏教の無記と同じです。

輪廻転生があって、そこから解脱する方法を説いた釈迦は、世界がなぜ存在するのか?輪廻転生システムは誰が創ったのか?
という、問題には、答えませんでした。

それと同じです。

最終的な存在論には、どこの宗教も答えてくれません。

実際に、この問いは、人間には判断不可能です。

その理由は、~ですよ。
という、答えがあったとしても、その~は誰が創ったの?何で存在を発生したの?
という、問題は、延々と、無限に続く問いだからです。

人類が続く限り、永遠に不明でしょう。



そして無へ


結局、なぜか存在している世界そのものに対して、絶対神の有無で、世界そのものに対して、対応法が違うということです。

神を含めた絶対性を承認しない仏教は、世界そのものからのエスケープが正解と認識しています。

逆に、絶対神の存在を承認している他宗教は、世界という創造者が創った世界に対して、存在意義があると認識し、何か神に近づくための場だと考えます。

ただし、世界そのものへの評価は、仏教でも他宗教でも、苦の世界というのは、共通しています。

仏教ですら、現世は、他の六道の世界と違って、唯一、解脱の修行が出来る世界という評価を与えているのです。

※他の世界はキツかったり楽すぎたりして、修行に向かないため。

他宗教でも、神の世界や進化のための修行場という認識が大半です。


この現世がろくでもない場という認識は共通しています。


ただし、この輪廻のゴールについては、やはり差異があります。

仏教は消滅がゴールで、他宗教は絶対神になることがゴールです。

仏教から見たら、他宗教は、所詮、ぐるぐる廻る輪廻に執着している存在です。

死後、神になっても、また輪廻に戻ってくるのですから、ラットレースに過ぎないという認識です。

一神教の創造神に当たるのは、梵天ですが、梵天にすら寿命はあります。

宇宙の創造神レベルで力があっても、何億、何兆年(どころではない時間)後には、死ぬという認識です。

逆に、仏教で言う輪廻からの解脱は、他宗教では、負け犬の離脱です。

神になるために生きているという栄誉を与えられているにも関わらず、生存カードを放棄しているという解釈です。

それどころか、怠惰な者や悪人への罰として、生まれ変われないように魂の消滅という観念があるくらいです。

もっとハードな世界観の解釈だと、大半の人間は生まれ変わることが出来ず、ごく少数の人間だけが、天界に行けるという死後世界の話もあります。

要するに、存在するということに意義を与えるか否かです。

仏教だと、存在することは苦だと、価値を与えないので、生まれ変われないことがご褒美ですが、他宗教は違うということです。

ここらへんは、やはり、洋の東西の宗教観、絶対神の有無の違いでしょう。

地球の思想は、この2つに分類されるのです。

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