2017年11月18日土曜日

【陰隲録】功過格表166 任◯堂(六道輪廻)には勝てなかったよ・・・ 十善 いい人を紹介しよう㊸











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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



平等


今まで、人生の困難に対して、色々と説を紹介してきたわけです。

これらの説は、対策であると共に、世界のシステムそのもの、世界の構造の解明そのものとイコールです。

早い話が、人間や世界の目的論、存在意義です。

我々は、どこから来て、どこへ往くのか?
我々は、そもそも何者なのか?

この問いに関して、一番デフォルトの、
特に意味は無いよ。ただの哺乳類だよ。
という、人間機械論(たぶん真理)から、全ては、始まるわけです。

近代は、宗教から、政治や経済や科学が分離された時点で、スタートを切りました。

人間の存在に関しても、神と宇宙と人間の関係性が切断されたわけです。

人間は猿から進化し、地球は太陽の回りを動き、人間の無意識は性衝動によって構築されるようになりました。

そして、遺伝科学や脳科学は、今や、神の視点と技にすらも近づき、AI(人工知能)によって、リアルな神を創造しつつあります。

陰徳の基本理論の、インド人が考案した因果応報の理論は、こうした近代以前の、神と宇宙が分離していない世界観の産物です。

倫理によって、人間の運命が決定するという話は、世界のシステムが、善悪という人間の基準によって動いているというドグマです。

科学的に見れば、一生物である人間如きが決めた倫理(法)で、世界が動いているというのは、滑稽でしかありません。
まさしく天動説と言えます。

しかし、いくら科学が進んでも、個人レベルの吉凶禍福は、救済の対象には、漏れるものです。

この21世紀ですら、我々人間は、数千年前と同じ悩みをぼやいています。

やれ金が無いだの、身体が痛いだの、女に縁が無いだの、数千年間、世界中で人間は同じことをぼやいてきたのです。
そして、それは全く解決されていません。


運命という科学の対象範囲外の存在に対して、人間が操作可能である(と信じたいという人間の願望)ならば、人間は、それを手にします。

こうした因果応報理論は、あくまで世界の目的ではなく、法則です。

良いことをすれば良いことがあり、悪いことをすれば悪いことがある。

しかし、これだけでは、世界が動いている法則としては役に立ちますが、目的性がありません。

何のために、世界が存在しているかということは、説明はしていないのです。



実は、基本的には、インド系の哲学思想を受け継いだ仏教では、世界の目的自体は、どうでもいいという認識なのです。

釈迦は、世界についての話は、無記(無回答)という態度で、不可知論をとりました。

それは、こういう問題は、不可知であると同時に、釈迦のスタンスとしては、どうでも良かったからです。

どんな目的性があろうとも、彼のポリシーは、四法印、つまり、

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

のネガティブ四法則だったからです。

世界にどんな目的性があろうとも、結局、ろくでもない世界だから、もうエスケープしようぜというのが、仏教の眼目です。

だから、在家が執着する現世など、とっとと離れて、出家して修行して瞑想して悟りを開いて、輪廻から消滅しようぜという世捨て人の思想が、仏教です。

大乗仏教になって、多少は、現世肯定の思想が出てきますが、根底にこの発想があります。

何だかんだ言っても、世界そのものは、ろくでもないところだというのは、基本、どの宗派でも、一貫しています。

そのため、世間一般や、通常の人生の吉凶禍福や、国家や文明の栄枯盛衰など、どうでも良いという、姿勢がメインです。

時代が古代だろうと、中世だろうと、近代だろうと、関係ありません。

みんなそろって、平等に価値が無いのです。




倒し方



このようなネガティブ教義のため、仏教では、現世の吉凶禍福に対して、本来は、どうでも良いくらいの扱いです。

良く、仏教の特徴として慈悲を言っていますが、本音は、他人のことなどどうでもいいというのが、実情です。

釈迦当時ですら、在家に対しては、単なる聖者へのお布施というATMくらいの感覚です。

南方仏教(上座部)のパーリ語経典(国訳一切経で言う阿含経)の在家に向けた教えも、凄い適当です。

俺ら聖者に供養して寄付すれば、死後、いいところに転生できますよ。

くらいの適当レベルです。

あとは、せいぜい、在家の戒律くらいの説教です。

わかりやすく言えば、こんな感じです。


ある人が、新興宗教で成功した教団の面接を受けに行った時の話だ。
若い面接官は履歴書を見ながら
「ずっと、バラモン教を信仰してたんですねえ」
とさげすむように言った後、
「六道輪廻の倒し方、知らないでしょ? オレらはもう知ってますよ」
と言ったそうだ。


まあ、さすがに、バラモン教が巻き返してくると、在家の現世利益を重視せざるを得ないため、密教など作ってきました。

護摩を焚いたりとバラモン教をパクったりしてきたわけです。

しかし、在家に出来るものとしては、先のお布施とか戒律とか善行くらいしか実行出来ないわけです。

で、ぶっちゃけ言えば、これは結局、今、我々がやっている、因果応報を利用した、開運法である陰徳と同じなわけです。

要するにやってることは、21世紀と釈迦当時とでも、大して変わりません。

人間の問題と、解決法は、ずーっと進化していないのです。


※つまり、豊河の教えは、釈迦と同じなのです。
豊河は、釈迦ほど傲慢ではないため、別に皆さんからお布施は求めませんが、豊河の教えは、3000年に一度花が咲く優曇華の花の如く、相見えるのが貴重な教えなのです。(傲慢)
皆さんの前世の功徳によって、豊河の教えを受ける有り難い縁を頂いているのです。
このチャンスをお見逃しなく!(通販CM風)

で、陰徳自体は、いいことやればいいとこに行けるよ!(逆をやると地獄へ堕ちるよ!)とい話なのですが、ここには、目的論がありません。

ただ、単に、天国地獄へ行くという、功利主義な打算の産物です。

そもそも、六道輪廻理論は、輪廻というように、ぐるぐる回っているだけの代物です。

要するに、せっかく善功を積んで天国へ行っても、またぐるぐる輪廻の輪の中に戻ってしまうわけです。




 ルーレットか?


だから安楽への確実性が無いから、天国は永住の地ではない。
解脱して消滅しようぜ!
というのが、仏教の基本教義です。

輪廻の中、というか、生存そのものに対して、四法印の法則の、
諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静
が適用されるからです。

生きているのは苦であるというのが、釈迦の提示したイデオロギーです。

手のひらを太陽にすかしてみて、真っ赤に流れる僕の血潮を確認しようがどうしようが、生きているから辛いのです。

しかし、こうした、六道と言うデスゲームからの一抜けた!論に対して、世界の思想としては、決して、主流ではありません。


限りなく透明に近いブルー


大体、宗教思想は、世界がろくでもないところというのは共通していますが、最終的なゴールが消滅かどうかは、意見が別れています。

ゴールが無という身も蓋も無い世界感は、やっぱり人気が無いらしく、ハッピーエンドを人は、好むのです。

※仏教も、大乗仏教になってくると、こういう傾向を好むようになってきますが。

で、目的性のある世界観は、個人的なライフハックに影響します。
世界が、ある一定の方向に向かってるという話なら、当然、個々の人間の我々も、その方向に向かっていけばいいわけです。

世界のシステムがある方向を向いているのに、逆走するのは、賢くありません。

兵法では、戦闘時に追い風や逆光があるかを重視します。
※ちなみに、一般の開運の方位学では進行方向に吉運がある方位を見ますが、戦時の方位学では後ろに吉運があるかどうかで見ます。運の追い風になるからです。


さらに言えば、人間の人生の障害や不幸なども、その目的に沿っていないから起こっているという、演繹法で類推できるわけです。

例えば、この世界を、青色を司る神が治めているとしましょう。
(何だその神・・・)

この世界の目的は青色です。

世界中を青色で満たすことが、世界の目的です。

となると、青色に反することは、世界の目的に沿いません。

あらゆる不幸や障害は、青色に反することが原因です。

赤色黄色などは以ての外。

要するに、何か、人生でうまくいかないことがあったら、まずは、青色に反していないか確認することが、ベストなライフハックになります。

服を青色にし、部屋の小物や壁紙を青色にする。

人生で一番、良い時期は、青春で、事業の税金申請は青色申告。毎日の先祖供養のお香はもちろん青雲

あらゆる不幸や困難は、青色を採用していない、反対していることから始まります。

自分の人生で青色以外の別の色を使ってないか、チェックすれば解決します。



で、一体、豊河は、何を寝言を言っているのかと、思われるでしょうが、これは、以外に深い問題なのです。

世界の目的性が決まってるということは、これと大同小異です。

要するにその目的性がわかっていれば、その方向性に合わせれば人生上手くいくのです。

例えば、世界の目的性が、弱肉強食の生存競争の進化だとすれば、もうそのように生きれば上手く行きます。

世界の目的性が、愛だったら、愛に反することをやめればいいのです。

あらゆる人生の困難やイベントは、世界の目的性に反しているからこそ、発生しているのです。


盲目的意思


しかし、当然、このライフハックは、世界に目的性があるという前提の元、有効な手となります。

ぶっちゃけ、世界が機械論的に無意味に動いているという可能性もあるのです。
というか、それが、一番可能性が高いのです。

自然は意思がなくただ機械論的に存在しているだけ。
生物の意思は、遺伝子を残すことという目的はありますが。



まあ、仮に世界に目的性がなくても、世界には決まった法則があります。
科学法則がその一例です。

因果応報法則のように、手段として使えるものがあるのです。

これは、別な言い方をすれば、ブラックボックスです。

我々は、目の前にあるPCの仕組みをよく知りません。

電気やITに関係無い職業の人は、2進数すらよく理解していないでしょう。

しかし、仕組みを理解しなくても、機械やシステムは使えます。

ちなみに、一番仕組みを理解していないブラックボックスは人間です。

物理的な医学の世界ですら、まだ把握されていません。

科学が進んで、結構解明されてきましたが、逆に言えば、何百万年も人間は、自分の身体のことを理解しないで、ブラックボックスのまま、使ってきたのです。

さらには、世界のシステムだってそうです。

このブログのテーマの開運や陰徳だって、同じです。

どういう仕組で動いているのか、さっぱりブラックボックスです。

しかし、実際に使えるので、我々は、仕組みをさっぱり理解しないまま、使用しているのです。

次回は、世界の目的性に関わる、このブラックボックスの話をもうちょっと続けましょう。

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