2018年9月19日水曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論③業の空性 その③











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前回のまとめ



因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



の、4つの反論を「無理くり」捻り出す豊河。
※詭弁レベルで無理やりやってます。


3つ目の、

③業の空性

です。
大乗仏教の空性という悟りの境地で、因果応報の弊害を無効化してみましょう。







基本的にこの空性の概念は、大乗仏教の発明品です。

そもそも、大乗仏教とはなんぞや?
という人もいるでしょうが、要するに、我々、日本人の仏教(と中国や朝鮮やチベットなど)です。

仏教は、2500年前に釈迦が創始した宗教です。

しかし、その後、色々と分派して、我々、北東アジアや東南アジアに大きく別れています。

我々、日本人が知ってる仏教は大乗仏教(大衆部仏教)で、東南アジアの仏教が小乗仏教(上座部仏教)です。

歴史的には、上座仏教の方が釈迦のオリジナルに近い仏教です。

元々、出家者の集団であった仏教教団は、色々と在家に関わるようになってきて、需要も在家が高まってきたので、従来の出家主義の教義を変更する必要があったのです。

それまでの、上座部仏教と物別れした大乗仏教は、出家主義の上座部から、大衆への救済(需要)を重視する大衆部仏教、すなわち、大乗仏教へと進化(退化とも言う)したのです。


今まで、単に、煩悩を滅して、現世を含む輪廻転生の滅尽を願っていた上座部仏教(小乗)は、解脱の境地は、煩悩の滅尽であり、一切からの楽でした。

ぶっちゃけ、言えば、消滅を願っているネガティブ教義です。
一切の煩悩、欲が無くなれば、輪廻の生存を回る必要がなくなります。

しかし、大乗仏教は、消滅ではなく、「空性」を最高の境地に持ってきました。

この違いは、輪廻からの解脱、消滅という意味から、また違ったニュアンスになっています。

消滅といったニュアンスよりは、存在の肯定の方がシフトが傾いているのです。

皆さんも、般若心経とか禅問答とかで、有でも無でもないとか、色即是空、空即是色とか論理的に矛盾している話をお聞きしたことがあると思います。

有でも無でも無いということは、小乗仏教の存在の消滅、無を否定しているということです。

この中途半端な定義は、要するに、輪廻の消滅という概念は、現世に生きている在家の立場からは、都合が悪いからという身も蓋もない経済需要の意味から来ています。

良く言えば、現実世界の中の大衆を救済するためという慈悲があるわけです。



無から空へ


で、実は、元々の小乗仏教時代にも、空性の概念はありました。

ただ、それは、

世界は空である(むなしいものである)。

という、本来の空(空っぽ)の意味で、要するに、実体の無いもの、虚しいものという否定的なニュアンスです。

元々、釈迦は、仏教の基本公式として、


諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

を言っていますが、上三行は、要するに、世界はクソだ!とディスっているわけです。

無常で、無我で、苦であるとヘイトスピーチしているわけです。

空も同じで、世界は虚しいと言うニュアンスです。

要するに、解脱して無になろうという方向性の範囲内での意味なのです。



大乗仏教は空に、上記の意味よりも別の解釈を与えました。


それが、我々、日本人がよく知っている空性です。

さっきも言ったような般若心経の空ですね。



宗教は基本、経済的基盤の上に立脚します。

大乗仏教が生まれたということは、在家の力が強くなったということです。

お布施をしてくれる在家が、経済的に商業レベルが上がり、ある意味、当時のインドが資本主義化したということです。

維摩経などは、出家よりも在家のほうが宗教的にも上位であることの力量関係を表した経典です。

そのため、小乗仏教の悟りが、現世の煩悩を滅尽した利欲の境地であるに反比例して、
在家の行為を宗教的に認める立場であるわけです。


そのため、大乗仏教の空性は、小乗仏教の単に虚しい空性解釈ではなく、
世界を認める解釈になっています。


厳密には、大乗仏教が、「世界は空である」というときには、
一応、
世界そのものは虚しい、執着や煩悩は虚しい、諸行無常である・・・というニュアンスは、含まれます。

しかし、般若心経の、色即是空、空即是色の通り、大抵の大乗仏教は、空もまた現世と同じ(空即是色)と、現世肯定の論理が、必ずワンセットで、入っているのです。

これは、そこらへんの般若心経の解説本や禅問答の本を読んで見れば、すぐその実例が出てきます。




もっと言えば、基本的に日本は、アニミズムの国ですので、自然崇拝の論理が、日本人の精神の基底には存在しています。

自然体だとかありのままだとか、ありがとうが、大好きな民族ですので、この大乗仏教の現世肯定のロジックが性にあっているのでしょう。

合っていなければ、2000年間も存在していません。




さて、こうした空性ですが、因果応報のダメ側面にどうやって適応させるのでしょうか?
あんまり、役に立たなさそうですが、なんとか適合させてみましょう。









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