2018年4月29日日曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑤














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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。









因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。





1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


弁仏論よりも、こっちの方が重要かも。

要するに、「無明」の話です。



無明


前回は、そもそも因果応報やら輪廻転生やらの、仏教のコアな理論が、そもそも怪しいという話をしました。

そして、なぜこんな話をしているかと、これが「無明」の一部だからです。

というか、無明無明って良く言いますが、この仏教用語は一体何でしょうか?


普通に、文字だけ読めば、明るくないこと。暗いことです。
仏教用語なので、要するに、(仏教の)真理で迷いや苦しみにハマってるデフォルトの状態くらいの意味です。

RPGで言う「くらやみ」ステータス状態です。


で、この無明。
仏教の教義では、
執着とならんで、全ての苦しみの原因です。
諸悪の根源と言って良いかも知れません。


四苦八苦が生じるのも、輪廻転生が生じるのも、全部、この無明のせいです。


正にこの世全ての悪。

絶対神ならぬ絶対悪です。

猫も杓子も全ては、この無明が悪いのです。


不景気も戦争も、何もかもこの無明が悪いのです。


と、言うのが仏教の教義です。





で、だから何だという話なのですが、この無明、そのまま、前回までの、業が見えないからわからんという話と同じ話なのです。

元々、我々人間は、業は、全くもって見えません。

かろうじて、今ある現場から、過去の業を推測したり、今現在や未来の業を持って今後の業を推測するだけです。



で、ここが重要なのですが、

この業の不可知論が、無明に繋がります。

そして、その業がわからんということは、実は、我々の存在そのものも、わからんということです。

つまり無明と、同義語なのです。




世界は無明にあふれている


元々、人間がこの地球上の生命で天下をとれたのは、ひとえにそのIQの高さです。


元々、猿程度の存在だった人間は、長い間、木の上や、ちょっと進化しても、洞窟の中で暮らしていた生物です。

しかし、神の導きか、宇宙人の遺伝子操作か、いつのまにか、火を覚え、武器を手にし、言語を発達させ、いつのまにか、この地球上で一大文明を築いてしまいました。

もはや、この地球上で人間に勝てる生物は存在しません。
※強いて言えば、ウイルスとかそんな程度。



この、地上での覇者の最大の功労者はもちろん、知能です。

我々、人間はその知能で作り上げたマシンガン一丁で、虎だろうが熊だろうが、一網打尽です。

昔は苦戦したマンモスだって、雑魚扱いです。




六道輪廻内にしても、我が人道界は、結構上のランクです。
少なくとも、知能を持たない畜生界よりも、上位に位置しています。

が、その人道界の高度に発達した知能と文明ですが、実は、あまり役に立ってはいません。

極端なことを言えば、文明化、農業こそが、人間の最大の間違いだったという意見すらあります。








21世紀にたって、18年も経ちますが、今だに、貧困格差だの、女が欲しいだの、病気だの戦争だの、古代と同じ愚痴をこぼしているのが人類です。

たかが百年くらいしか生きられないのです。 近代化の頃は、人類はすでに全てを知り尽くした!とか、知識人たちは、豪語していました。
が、さらに科学が進むと、逆にわからんことの方が増えて来ています。

世界を解明する科学が、こんな調子ですので、ミクロである我々の人生も、まったくわからんことに溢れています。


人生の一寸先は闇は、比喩でも何でも無く、全く未来はわからないのです。

ストックしている業がわからないということは、人間は未来において、どう業が出るかわからない、つまり無明ということです。



人生、受験に成功して一流大学→一流企業に、順調に進んでいたかと思ったら、30歳で交通事故で半身不随になる業が出たとしましょう。

当たり前の話ですが、本人はこんなことは思ってもいなかったことです。
どんな聡明な人間にだって、こんなことは予測出来ません。

いや、自分は人生のコースを予測出来るし、今までの人生全て予測してきた、という人がいたら、それは単に運がいいだけのことです。

ぶっちゃけ、平和で豊かな時代に生まれただけのことです。

団塊の世代の方々などは、こうした人が多いでしょうが、それ以降の世代の人は、この激動の時代には、もはや無理でしょう。




そして、未知数なのは、自分の人生だけではありません。
他人の人生もそうだし、所属する組織や、所属していない組織。

あらゆる地方自治体や企業や国家や人類の未来もそうです。

ストックされている業がわからないということは、未来がどうなるか全くわからないのです。



業がブラックボックスということは、世界の存在そのものがブラックボックスなのです。

そのため、釈迦は、世界の実相について、「無記」の回答をしています。
不可知論的な回答ということです。

そんなこと考えるより、修行して解脱して苦から離れようぜ!という意味で使われますが、実質的に、不可知なことも重要な要因です。

要するに釈迦ですら、世界について、よくわからんということなのです。

そして、わからんということを知っているという智慧なのです。
無知の知というソクラテスと同じです。

結局、釈迦はこういうブラックボックスを含めた世界全体の概要だけ法則化しただけで、実際の中身はどうでも良かったのです。

※厳密には釈迦の神通力の中に業を見るスキルがあるので、わからんということはなかったと思いますが。



この世界は無明 



仏教(というよりインド宗教)の世界観では、人間を含めた生命体は、輪廻転生します。

仏教的教義だと六道輪廻です。

六道輪廻は文字通り、6つにわけていますが、実際的には、もっと複雑なパターンもあるでしょうが。

で、この六パターンの輪廻。
ぶっちゃけ、ろくでもないものが非常に多い。

元々、輪廻はぐるぐる廻るため円形で図式化されることが多いのですが、しかし、実際は、ピラミッド制です。
上にいくほど人口数が少なく、下に行くほど多い。

これは、天台の教義(十界論)にあるように、我々の住んでいる人界内でも同様にさらに六道があります。
天国から地獄まで全部(+四個)入っている。

例えば、道を歩けば、猫や犬などの畜生道はいますし、発展途上国には餓鬼道が広がっています。

今、みなさんがいる環境だって、ある意味、極楽浄土です。
蛇口をひねるだけで水が出るなんて、昔の人のイメージした天国です。

もちろん、もうちょっと高尚なお説教っぽい話をすると、我々、個人レベルでも、天国から地獄まで心象風景の変化があります。







で、この六道。
我々が性懲りもなくグルグルと輪廻しているわけです。
少なくとも、この現世で、環境や心理的レベルが、ループしているわけです。

で、この六道が、そもそも、無明以前に、大半が、無知蒙昧な状況なのです。

何が無知蒙昧かと言うと、教養とかそういうレベルでなく、普通に、問答無用で、無知蒙昧なのです。

だって、天道とか人道とかならともかく、それ以外って普通に、ヤバイところじゃないですか?

畜生道なんてそもそも教養もへったくれも無い。
IQレベルの無知蒙昧さです。

餓鬼道とか地獄道とか、もう日常が酷すぎて、無知蒙昧とかどうでも良いレベルでしょう。

修羅道なんて考えることは、いかに大勝利することしか頭に無い(どこぞの題目宗教か?)。

ピラミッド的人口差があるので、要するに六道の住人の大半は、無知蒙昧な無明状態にあるのです。



これは、人間界の内部でも同じです。
やはり、天国から地獄まで上下高低の差があります。

我々が、呑気にブログなど読んでいる間の、こうしている間にも、世界の何処かで飢えて死ぬ子供や、戦争で死んでいったり殺したり殺されたりしているのです。

そもそも、人間界は自由度が高いため、死後の行先は固定化されていません。
他の五つの世界に行く因を常に作っています。

瞬間的に、天国行きの行為をしたり、地獄行きの行為をしたりします。

しかし、大半の人間はこうしたことに無頓着です。

運命の流れるまま、環境に適応したまま、身口意の行為(業)を実施してしまいます。

で、死ぬ間際になって、慌てて、宗教にすがったりするのです。

日本だと、昔から、念仏は悪人の宗教と言われてきました。

藤原氏などがいい例ですが、みんな行きている間は、密教で現世利益を願います。
が、年をとってくると、今までの権力闘争や悪政の報いで、地獄に行きたくないので念仏信仰したり平等院鳳凰堂をつくたりするのです。

ここで、重要なのは、みんな普段は、業のことなんて考えないのです。

陰徳を積もうなんて殊勝な人は少ないのです。

陰徳は必ず良き果報を生むので、業に対していい影響を与えます。
もちろん、業の総容量は不明なため、大河の一滴程度の意味しか無いかも知れませんが、それでも、未来に向けて良い影響を与えられるのです。

つまり、業の何%かは、知ることが出来るということです。

しかし、それすらしなければ、業の解明度はゼロ%です。
※下手をしたら悪業でマイナス確定に。

このように、人道においても、まったく無知蒙昧な状況が大半なのです。

大抵の人類は生きるのに精一杯で、そんなことを考える余裕なんてあまりないのです。

実際に、このブログを読んでおられる、みなさんだって、このブログを読む前は、そんなことあまり考えなかったと思います。
そんなもんなのです。

考えられる余裕のある貴族や現代人は、もっと別のことを考えたりします。
人間界よりも良い環境の、天道も同様です。

要するに、我々は、業という全く中身がブラックボックスの存在と共に生きています。

何もわからないまま生まれ、何もわからないまま死ぬのです。

空海が言っていますが、
三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
なのです。

我々は、万物の霊長といばっていますが、無明の闇の中にいつもいる闇の世界の住人なのです。
中二病の中学生のような存在なのです。



差別論


で、この業のブラックボックスの中身が無明ということは、そのまま、身分差別などする意味は無いということは最近の記事で述べました。

過去や現在が被差別になるような不幸があったとしても、業がわからないから、未来において無くなる可能性があるというか、不幸が続く確定は無い。

だから、身分という物にする必要は無いし、業の浄化のためという本人や環境の戯言も無視して救済して良い。

というか、この業論が身分差別の元になっているからやめようぜという話でした。

ついでに、このロジックを、陰陽ひっくり返せば、業のもう一つの問題である、幸福忌避の問題もクリヤ出来ます。

不幸な状態は業があるということであり、徳が足りないということでもあります。

だから、幸福になるという、徳の無駄遣いをしてはいけないというロジックへの反論ということです。

業のストックが不明ということは、不幸になる悪因悪果が不明ということと、同時に、幸福になる善因善果も不明ということです。

別に、ガンガン幸福を追求していいのです。

これは、自己啓発系の潜在意識のポジティブシンキングと同じ原理ですね。

自分は運がいい、自分は成功出来るという自分の認識に対する自己暗示、洗脳です。

業がわからないということは、逆にいくらでも肯定的な業(徳)がストックされているという可能性があるのです。

このロジックの問題点は、だからと言って、ガンガン悪業をやっていいとか、別に善業を積まなくてもいいよねということに陥らないようにすることでしょうか?

ここだけ、注意していれば、自己認識として、幸福になっていい、幸福になる価値がある、自分は運がいいという、良い潜在意識へのフィードバックが出来るので、良いと思います。


ちなみに、このロジックは今書いていて、急に思いついたロジックですので、たぶん、見えない上位の神仏からの神託でしょう。



で、無明の話はまだありますので、次回も無明の話です。






















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