2017年12月26日火曜日

伊勢神宮のパワスポ記事前の簡単?な事前説明 パワースポット(三重)










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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)



田舎


まさか、日本人でいながら、伊勢神宮に参拝してない非国民はいないと思いますが(行ったことがあるため上から目線)、基本、伊勢神宮は、日本国民のために開かれた聖地です。

あの、国民の移動を制限していたウルトラ封建国家の江戸時代ですら、伊勢参りは許可されていました。

イスラームがメッカ巡礼を一生に一度は夢見るように、日本人なら伊勢には行っておきましょう。

昔ならいざしらず、今の時代、別に移動は難しくは無いですし。

で、豊河はさすがに何回か行っていますが、皆さんも、近所や所属都道府県の神社だけでなく、年一程度で行ける遠距離でも格式の高い神社仏閣をキープしておいた方がよいでしょう。

大抵、こういう格式の高い神社仏閣は辺鄙な田舎(暴言)にあることが多いのです。

理由は、都会にあると、政争で腐敗したり、戦争で焼失することが高確率であるからです。

なまじっか、都会(昔なら京都とか)の近くにあると、大仏とか比叡山とかみたいにバーニングされます。


天照大御神


さて伊勢神宮ですが、外宮と内宮の正宮があります。
さらに、別宮や摂社、末社など三桁の神社があり、全てをまとめて神宮です。

ただ、一般的には外宮と内宮の二つの正宮を伊勢神宮と呼びます。
さらに、厳密には内宮一社を伊勢神宮と呼びます。

歴史的的には、色々と紆余曲折があり、実は近代以前はそんなに格式は高くなかっただとか、皇室は来なかったとか色々言われますが、明治以降は、国家神道により、並ぶものなき権威を確立し、戦後の現在でもおよそ、天下無双の権威を誇っています。

理由は、やはり現人神となった天皇の皇祖神の天照大御神を祀る神社であるというのがメインです。

そもそも、天照大御神が最高神であるというのは、政治の産物で、記紀を見ても、親神のイザナギ・イザナミを始め、上位の神々がいっぱいいます。

しかし、人間社会でそうなっているということは、少なくとも、日本においては、天照大御神が最高神であるということに他なりません。

日本の国家レベルの範囲については、天照大御神が担当となります。

この日本で生きている限りにおいては、天照大御神が最高神という格付けで問題ないでしょう。

なお、仏教との習合でも天照大御神は大日如来と集合しています。

太陽神の象徴ですので、権威としても習合としては神道仏教双方とも、異論は無い組み合わらしく、中世以降はこの方向でした。

※外宮と内宮が金胎の大日如来に対応されていました。

実際は、中世の習合時代は、神道側の権威が仏教よりも弱く、天照大御神は、大日如来から日本の管轄をまかされているだけの格下的存在でした。

仏教は世界宗教ですから、ローカル国家神の神道の神は格下だったのです。

このグローバゼーションとローカリゼーションの争いは、昔からある問題で、今でも、経済政策を巡って世界中で衝突しているのはご存知の通りです。

もちろん、ローカル神扱いは、不当なレッテルだとして、明治以後は、神道側も地位逆転して頑張っていましたが、敗戦で、天照大御神をグローバルに!という夢は潰えました。

まあ、勝ってれば、天照大御神も、範アジアの巨大神として、君臨出来ていた可能性もありますが、歴史にIFはありません。

幸い、戦後のGHQ時代も生き残ったので、今も、日本神道の最高神として、天照大御神と伊勢神宮は、君臨し続けています。


戦後

基本的に、仏教の大日如来と習合したように、ローカル神はグローバル神と習合しやすい傾向があります。

明治以後から、グローバル宗教の仏教と別れた神道は、キリスト教と習合しはじめました。

岩戸からの復活の、天照大御神=イエス説は日ユ同祖論の定番です。

明治維新は西洋化の象徴ですが、宗教も当時の世界を支配していた白人宗教のキリスト教を模倣したのです。

元々、江戸時代中期から、国学と神道の日本万歳理論は構築しはじめていましたが、西洋文明を牽引する、西洋一神教というソフトを日本に導入した結果、悪魔合体し、国家神道が誕生しました。

実質的に政府の強制力がなくなっただけで、神道のスタイルは、この国家神道を踏襲しています。

まあ、グローバル宗教の洗礼を受けて綺麗になりすぎた結果、スマートですが物足りない需要が出てきます。

国家神道では、救い取れないニーズの需要は、民間の雨後の筍の如く出た神道系新興宗教が、その需要を満たしました。

神がかりの教祖のいかがわしい新興宗教は、人を万単位で集めました。

※21世紀の現代でもイタコ芸で百万人を集める新興宗教が存在します。

仏教でも、表の念仏や題目だけでは民衆は満足せず、禅や密教などの仏との直接体験の宗派が需要があるのと同じです。

しかし、裏がなければ表が成り立たないように、表がなければ裏は成り立ちません。

表に伊勢神宮を頂点とする霊的インフラがあるからこそ、裏も含めて、日本国は成り立っています。

古代のように神や自然の力と、直接交流していた時代(たぶん)と違って、現代は、神と人間は直接交流できません。

形だけでも神と交流するインフラが、人間社会には必要なのです。

神を極限まで抽象的に純化した一神教ですら、聖地や聖堂のインフラは捨てきれなかったのです。

伊勢神宮は、次回以降、紹介するように、霊的な国家インフラとして、ディズニーランドに匹敵するテーマパークとして、構築されています。

伊勢神宮の存在意義とは、三桁万単位の日本人の霊的な集合場所としての霊的インフラテーマパークなのです。

そして、人が集まれば、それだけ人の念は神を生み、金は施設費を維持し、そして神と施設はさらに人を呼び祝福します。

その好循環スパイラルで、伊勢神宮ブランドは成立します。
そして、一度、ブランドが成立してしまえば、宣伝費はかけなくとも、長期間の持続維持が可能です。

神道の頂点を極める天下無双の伊勢神宮のブランドはここに確立し、今後も、維持し続けるでしょう。

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