2017年12月4日月曜日

【陰隲録】功過格表172 目の前に二つの道がある 東か西か 十善 いい人を紹介しよう㊾











このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)



なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
記事下のコメント欄や、メッセージやメールで、お気軽にどうぞ。

その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら



功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



有無


前回、この世界の最終的な目的、我々人類の為すべき実存的な結論は、大体、二種類の可能性だと述べました。

①進化系
②消滅系

この二つです。

逆に言えば、世界のあらゆる宗教の教義は、突き詰めると、この二つくらいしかありません。

人類の文明が進むにつれて、IQの高い人間種は、時間軸という概念を手に入れています。

当然、自分の人生や世界全体について、考察する余地が出てきたのです。

衣食住が厳しい時代は、そういう悠長なことは考えません。
衣食足りて礼節を知るの通り、人間、暇だと哲学やら宗教やらを深化させます。

ギリシャ哲学もインド哲学もキリスト教神学も、衣食住が満ち足りた貴族階級、僧侶階級の産物です。

で、暇に空かせて考えると、世界や自分の未来に関しては、進化するか消滅するかの、二択の概念に到達せざるを得ないのです。

モデルで言い換えれば、進化系は直線で、消滅系は円です。

一神教の世界モデルが、時間軸に沿った進化だとすれば、インド系の世界モデルは、ループする繰り返しの円です。

永遠に進化するか変わらないかの違いです。

IQの低い単細胞生物から人間を経て神に至る道か、六道を延々と巡っていずれは消滅するかの違いです。

有か無か?

究極の存在を巡って、一神教とインド哲学(仏教)の相剋は、今だに解決されていません。

まあ、これはあくまで人間側からの視点であって、対象の世界からすれば、人間が勝手な解釈を言っているだけに過ぎませんが・・・。

さらに、折衷案として、螺旋運動の世界モデルを提唱する場合もあります。

惑星の運行や、季節の春夏秋冬のサイクルは、時間軸の螺旋運動だからです。

同じサイクルを繰り返す動きと、それでいながら、時間軸は進んでいく動きの螺旋運動だからです。

しかし、そうは言っても、一見、折衷案の止揚の解決策に見えるこの螺旋運動ですが、大局的には進化系の一神教的な視点の範疇です。

螺旋の動きであろうが、結局、時間軸を進める進化系だからです。

消滅系は、螺旋してようが、結局ぐるぐると同じことをしているのがダメで、エスケープ(解脱)しようぜという思想だからです。

結局、最後には、意見が合いません。


ここらへんが、世界の文明の洋の東西の差異のコアなのです。

有るか無しか?



階層構造


人間の行動は、より階層構造の高いレイヤに支配されます。

抽象度の高い世界観によって、下位の領域は左右されるのです。

同じPCであっても、インストールするアプリやOSによって、相当違った動きをします。

人間も、思考を操作されば、行動はそれに付随するのです。

世界に関して、異なる思想を持っていれば、行動は別の道に左右されます。

人間が為すべきことは、本来、自由で別に決まっていない物なのでしょうが、この二つの宗教的思想の区別は、行動に差異が出てくるのです。

例えば、国単位で見ると、世代によって主流のイデオロギーが違います。

団塊の世代と氷河期世代とゆとり世代では、社会に関するイデオロギーが対立します。

イデオロギーが違えば、支持する政策や政党や外交も相当違います。

世界に対する、思想の違い、イデオロギーの違いが、そのまま国の命運を決めてしまいます。

例えば、戦前の日本は、地政学で言う、海洋派と大陸派ですでに分裂していました。
大陸派が主流になったので、その結果、日本は敗退して、今に至ります。

その後の冷戦期も、大陸派が主流になっていたならば、やはり負けていたでしょう。

もちろん、今後も、大陸派が負け続けるとは限りませんが、抽象的なイデオロギーが、リアルの現実を動かしてしまうのです。

宗教思想も同様です。



神へと至る道


進化系ならば、どちらかと言うと、アクティブなアウトドア系のリア充の行動になります。

進化するには体験や経験が必要だからです。
進化の最終地点は、絶対神です。

全知全能の絶対神に到達するには、神の思想と神の行動と神の能力が必要です。

要するに、万能の人間(もう人間じゃないと思いますが)にならなくてはいけません。

少なくとも、知能指数や経験値がカンストしていなければいけません。

神は世界を創り、慈愛に満ちて憐れみ深く、信者を救済する存在です。

少なくても、無能な善人は神とは呼ばれません。
何らかの秀でた能力を有していないと、神とは言われません。
匿名掲示板でエロ画像を投下した人間であっても神と呼ばれるように、何らかの利益を衆生に与えなければいけないのです。

だとすれば、あらゆる経験をして、あらゆる勉強をして、あらゆる善行をする、そして高スキルを蓄えるというのが、進化系の方向性です。


まあ、元々、進化というくらいですので、高IQの生物になるイメージです。

一般の進化のイメージですね。
進化論的には、単に環境に適応した種が生き残るのですが、宗教的な進化は、一般の優勝劣敗の進化のイメージです。

より能力値が高い存在、より美しい存在、より高度な知性の存在。より倫理的な存在。

まあ、人間が考える神仏のイメージはそういうものです。

要するに、何らかの救済力が無いと、神とは言われません。

怨霊信仰や祟り神にしても、少なくとも、人間に祟るという力があるからこそ、神として敬われています。

祟る力が弱かったら、普通に邪神や妖怪として成敗されています。

力、知恵、慈悲(人間に都合の良い)と三拍子揃って初めて神と呼ばれます。



やきうち!


で、アウトドア派の進化系に際して、消滅系は、インドア系です。

リア充に比較して、引きこもり系です。

進化系は、まだ世界に寄与するという精神がありましたが、消滅系は、絶対働かないでござるという強いニート精神を持っています。

消滅系の世界観は、この世は苦であるという、思いっきり後ろ向きの世界観です。

出家と言えば、何となく響きが良いですが、やってることは引きこもりと大して変わりはありません。

社会に一ミリたりとも良き影響を与えてないのです。

不労収入で信者から布施を貰って生活するニートです。

インドだと許されるニート坊主も、中国や日本だと、社会の寄生虫扱いされますので、思いっきり叩かれた時代があります。

坊主はニートだか駆除しろ!という反動が時代時代の節目で出てきます。

 





基本的に、こうした弾圧で、被害者ヅラしている仏教ですが、ぶっちゃけ自業自得です。

というより、寺が燃やされ、坊主が成敗されるのは、その仏が許可しているからです。
本当に、寺や坊主がまともだったら、仏や眷属が守ります。

腐りきっているから仏が許可しているのです。
これが、本当の因果応報です。


ちなみに、現在の、日本の引きこもりは、彼らが、前世が尊い僧侶だった可能性が高いのではないかと豊河は睨んでいます(てきとう)。



無へと至る道


仏教の五戒にしても、~するなよという禁止系の条項です。

これは、善行の勧めとは違います。

引きこもって修行するのに、あんまり世間と関わるのは修行の邪魔になるからやめとけくらいの発想です。
金とか女とかですね。

その意味では、このブログの陰徳思想は、仏教的ではありません。
陰徳を積むというのは、まだ世間にいる在家レベルの話であって、出家者は、社会と関わらないので、善行は積まないのです。
ひたすら自分のために瞑想します。
※ここらへんが、小乗(上座部)と大乗(大衆部)と分かれた理由の一つでもあります。


そもそも、陰徳のススメである、陰隲録や功過格は、インドではなく、まあ中国の古典ですし。

釈迦も、生存当時は、在家信者への布教は、俺らに布施を出すと来世は天国行けるよ!くらいの扱いです。

積極的に、社会にいいことをしようというのは、基本的には仏教ではありません。

大乗仏教が現れてから、そういうアクティブな思想も出てきましたが、大乗仏教は一神教の影響がある(と豊河は思っています)思想体系です。

大乗仏教の世界観は、一神教的な永遠の進化的な世界観です。

まあ、それでも一応、仏教なので、この東西の思想対立は、大乗仏教は常にこの矛盾に、常に苛まれています。

※完全に、一神教的思考に、振り切ってる宗派もありますが。

一応、仏教の各宗派にも、基本として、因果応報理論はあるので、善を成し悪をやめるという思考はあります。

が、それは一神教ほど熱心ではありません。

社会的な福祉なども、仏教はかなり冷淡で、一神教は熱心にやるのもここらへんが原因です。

消滅系の宗教は、基本、個人主義です。

インドア系の人たちは、今風に言えば、個人の高い技術を誇りにし、企業や国境にこだわらない金融やエンジニアなどのノマドライフを好む人です。




仏教や西洋魔術や仙道もそうですが、世界そのものに対して、どうでもいいと思っているのが本音です。

まあ、世界観というが思想が、世界は苦であるという物です。
このろくでもない世界からの、解脱の対象となっているものですから、価値観の対象としては思いっきり低いのです。

世界は、執着の対象と言ってもいいかも知れません。


ジ・アース


以前にも、論じましたが、この世界そのものは、女性原理に例えられます。

世界は、そのまま存在そのものです。
存在は生命と同義語です。
この美しいジ・アース(地球)は、生命の宝庫です。
地球はそのまま地母神と同義語です。
母なる大地と言われるように、豊穣の女神は、女性原理なのです。

洋の東西を問わず、宗教が女性差別をするのも、根底にこの思考回路があります。

仏教でもキリスト教でも、これは変わりません。
消滅系の無へ至る道でも、進化系の神へと至る道でも、地球は地獄というのは、共通しています。

古代の地球全体が温暖化していた狩猟採集時代の女性原理の宗教は、地球が寒冷化していくとともに、枢軸宗教の台頭と共に、廃れていきました。

仏教やキリスト教などの世界宗教が今の人類のメイン宗教です。

宗教が嫌う、執着の対象となる世界や生命や煩悩は、女性原理です。
もっと言えば、金や女です。
宗教が忌み嫌う筆頭です。

手に入れらないぶどうは酸っぱいという認知不協和の心理が働きます。
豊穣な自然や農作物は宗教にとって敵なのです。

旧約聖書では、絶対神ヤハウェが、ライバル神のバアルの象徴の牛の像を敵視しています。


【聖書】出エジプト記㉜ 汝の隣人を殺せ ~金牛事件と日本中空構造の話~


牛は、上記の農業の象徴です。
豊かさを象徴します。
占星術でも、牡牛座は富の象徴です。
要するに、自然の富や、ひいては地母神などの女性原理が、枢軸宗教の絶対神ヤハウェにとっては、不倶戴天の敵なのです。

女性原理から執着を離れる思考回路の宗教にとっては、女性は悪魔なのです。

キリスト教も仏教も、歴史的に女性差別が相当酷いですが、その根底のシステムはこういう思考です。

世界は、汚らわしいもの、醜いもの、悪魔である。
これらは、仏教の教義の憲法である、四法印の対象です。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

四文字熟語で、一見難しいことを言っていますが、要するに、世界に対してのヘイトスピーチです。
無常だとか無我だとか苦だとか、罵詈雑言なのです。
最後の行は、だから消滅しようぜと言っているのです。

釈迦のオリジナル(に近い)パーリ語仏典では、世界に対して、もっと色々とヘイトスピーチしています。

無常で無我で苦というのは、そのバリエーションの一部に過ぎません。

腫れ物であるとか、汚いとか、色々と罵詈雑言を言っています。

つまり、執着の対象である世界(六道輪廻)は、実相はそういうろくでもないものだから、出離して解脱しなさいというロジックです。

消滅系の白眉たる仏教は、世界に存在する我々人間の最終的なゴールが無であることから、こういう教義を作っているのです。

進化系の一神教との違いは、やはり最終的にこの世界への価値観の有無になります。

一神教も、地上に対しては対して価値の重きを置いていません。
女性原理が嫌いだからです。
が、死後の天の国には価値を置いています。
存在そのものへの最終的な離脱は出来ないのです。

これは、やはり、絶対神という、至高の価値観が教義の核にあるので、それから完全に解脱するという教義にはならないのです。


ちなみに、進化系の宗教も、出家修行はありますが、それはあくまで一時的な修行みたいなものです。
少年漫画で言う、レベルアップの修行期間のようなもので、あくまでレベルアップして現世に奉仕するのが目的です。





好みの問題



で、結局のところ、この二つの思想はどちらが正しいのでしょうか?

このブログでも何度か話題にしてきましたが、どちらが正しいのか、両方とも間違っているのか?

そもそも、何でこんなことを、豊河がグダグダ言っているかというと、それによって、行動方針が変わるからです。

消滅系が正しいとすれば、とっとと出家して瞑想して解脱した方が良いのです。

逆に、進化系の方が正しければ、世界に奉仕したほうが良いのです。

インドア系かアウトドア系かの違いです。

引きこもりになるか、リア充になるかの違いと言ってもいいかもしれません。

まあ、今までの結論としては、消滅系でも進化系でも、少なくとも途中までは同じだからどっちでもいい。という結論でした。
世界に関しては、不可知の領域なので、釈迦も無記で解答したくらいです。

すなわち、デフォルトの凡人状態から、道徳心や因果応報の思考の芽生え、そして陰徳の実施までは、両者とも同じです。

基本、宗教で、道徳とか戒律とか陰徳とかを否定する宗派はまずありません。
※タントラ系とかその流れを組む西洋魔術とかは例外としてありますが。

要するに、宗教の基礎として、戒律や陰徳は基本なのです。

例えば、大乗仏教の六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。の六段階です。

一番初めの布施と持戒が陰徳に該当します。
布施が積善で、戒律が改禍ですね。

要するに、どんな宗教でも、一番の基礎なのです。

ついでに六波羅蜜を、説明しておくと、忍辱と精進は、それをもっと努力しろという項目で、禅定と智慧は、瞑想や学習による情報や認識のレベルアップです。

陰徳や戒律は、あらゆる宗教の基礎なので、これさえやっておけば、基本、六道の悪道には堕ちません。

あと、保険として、パワスポ行ったり、神仏に祈っておけばOKでしょう。

とりあえず、一神教のイエスとヤハウェとアッラー(ヤハウェとアッラーは同じですが)で一神教対策はOK。

仏教だと日本の仏教市場のトップ2を占める、念仏の阿弥陀仏、題目の法華経を唱えておけば、OKです。

あとは、自分の近所の氏神や好きな神仏を拝んでおきましょう。

陰徳と信仰をやっておけば、まずは大丈夫です。

ここまで保険をかけておけば、死んだ後にも、慌てる必要はありません。

あとは、消滅系か進化系の、自分の好きなルートを行けばよいのです。
ぶっちゃけ言えば、好みの問題です。

おおざっぱにわけて、進化系と消滅系がありますが、お好きなルートを選択出来ます。

大学で文系と理系の選択をするようなものです。

RPGで魔法職か剣士職を選択するような物です。

当然、最終的な境地は違いますが、すでにそこまで行けば凡俗とは違います。

人間という不自由な境涯よりはマシです。


で、数回前の記事で、↓

記事の文章量についての考察


記事分量が長いから、少なくするね!と言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに長文を書いている豊河ですが、今のところ、誰もコメントやメールでツッコミが来ていないので、
まあいいや!
といつものようにセーブすることなく、書いています。

まあ、このブログは豊河がテキトウ書いているように思えますでしょうが、豊河を使った神仏(を自称するキツネとかタヌキとかヘビとかの邪霊や低級動物霊)のありがたいお筆先なのです。

話がループしている話題とかも、豊河が若年性アルツハイマーなのではなくて、神仏がそれだけ強調したいことなのです。

というか、長えよ!毎回、俺の記事は!
読み返す気すらおきんわ!

※ちなみに、豊河は自分が書いた記事はめんどいので読み返していません。


4 件のコメント:

  1. このブログはためになります。目から鱗あり、笑いありもっと読みたいと思ってしまいます。短くしないでください。

    返信削除
  2. 長いすっね、文章。私自身は、楽しく読ませて頂いています。妻も陰徳積善ワールドに巻き込みたくてこのブログを教えたのですが、「長い文章のブログは、読む気にならない」拒否されました。妻には縁がないようです。石川梅次郎 陰しつ録も渡したのですが、「こんな難しい本、読めない」やはり縁がなくてどうにもなりません。一人で精進するしかありません(涙)

    返信削除
  3. 匿名様

    管理人の豊河です。
    コメント返信が遅くなり申し訳ございません。

    長短のご意見ありがとうございます。
    この駄ブログが、匿名様のお役に立てれば幸いです。

    今後共よろしくお願いいたします。

    返信削除
  4. 冥府魔道様

    管理人の豊河です。
    コメント返信が遅くなり申し訳ございません。

    いつもご高覧ありがとうございます。
    朱に交われば赤くなるの例えの通り、奥様も陰徳に縁が無くても、夫の冥府魔道様の陰徳があれば、その陰徳による高波動(?)で、開運間違い無しと思われます。

    何より、陰徳は子孫により出ますので、お二方の、ご子孫は、一升枡に胡麻の粒が溢れんばかりの高官聖賢長者が生まれる者と愚行いたします。

    どうぞ、途切れることなく陰徳の道を歩み下さいませ。

    返信削除