2017年2月21日火曜日

【陰隲録】功過格表② ゾンビ開運法 百善 一人の命を救うこと。後編 




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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)


なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。


【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら




功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

百善に相当する

○一人を救い、死から免れしめること。 




前編の続きです。



【死人】


前回、自殺対策として、どうせ死ぬなら、自己犠牲で華々しくというパターンを紹介しました。
ちなみに、もう一つの、自殺対策パターンは、
「どうせ死ぬのなら、死ぬ気で頑張れば何とか成る(可能性がある)」
です。


どういうことかと言うと、世の中、いくら働いても報われないブラック労働の職場がありますが、実は、手段(この場合は倫理ではなくプライド)を選ばなければ、それなりのリターンは得られるようになっています。


どうせ死ぬのだからと、恥も外聞も捨てて、行動することで、常人には出来ない殻を敗れます。
先達者に土下座し、宴会では裸踊りをやったり、文字通り靴を舐めたりと、せっせと賄賂や贈り物をキーマンに捧げる。

プライドも捨てて、見栄えもすてて、死ぬ気で努力奮闘することで、いつのまにか道が開けることは多々あります。

なぜこんなことが通用するのか?

答えは簡単です。
世間の人は、そこまで追い込まれていないからです。

今の時代は、何だかんだ言いながら、相当に豊かな社会です。
住民の何割も餓死するような社会ではありません。
手段を選ばないのなら、汚れ仕事(手を汚す仕事)をやればもっと儲かりますが、陰徳を根幹にしているこのブログでは推奨しません。

ここでいう手段を選ばないというのはプライドを意味します。
長時間労働と、土下座と賄賂(ヨイショ)と道化は、出世の最短距離ですが、これを全部出来る人はほとんどいません。

ある意味、これは卑怯な方法です。
羊の群れに狼が飛び込むような物です。
カルテルを形成している馴れ合いの市場に、価格破壊の外資が来るような物です。

こんなことは常人ではやれませんが、どうせ死ぬ死人(しびと)ならばやれます。

あるいは、どうせ死ぬのだからと、権力者やヤクザに飛び込み営業をやったり、下僕として使えたり、逆に堂々と対等に振舞ったりと、命を無視して、行動することも含まれます。
要するに、命が惜しい、凡人には出来ないことをやるのです。

確実に一目置かれます。
もちろんリスクはありますが、どうせ死人にリスクなどどうでもいい話です。


葉隠れなどの武士道用語で、死人(しびと)と呼びますが、本来なら、戦争経験者や、座禅を極めた高僧のような、境地に達することが出来るのです。
自分の命とは要するに自我と同じです。
命を捨てるということは、自我を捨てるのと一緒です。

オウムの信者は自我を捨てて、サリンを撒きましたが、逆に言えば、同じように自我を捨てれば、社会的にそのくらいの影響を与えることが出来るのです。

方向性を正しくすれば、川でおぼれた子供を助けて死ぬとか、立てこもりの強盗犯を命がけで止めて人質を助けたりだとかも出来るわけです。

これを一番やっているのが、軍隊でしょう。
何しろ、殺し合いをするのですから。
上述の武士道の死人のように、死のトレーニングやシミュレーションをして、イザと言う時に対応出来るように
するのは、古今東西の軍の基本です。

もちろん、これは、簡単に死ねるようにするためのトレーニングです。
自分だけでなく敵である他者も簡単に殺せるようになるというトレーニングです。

そういう、ろくでもないトレーニングですが、何事も陰陽で、裏表があります。
刃物がナイフで人を殺すか料理に使うかのように、死人になるのは、陰陽二つです。

仏教でも死随観という瞑想法があります。
ひたすら死のイメージングをして、執着を断ち切る物です。

坊主は出家しているため、世間的にはどうでもいい存在ですので、文字通りどうでもよいのですが、在家で社会上で生きている人間にとっては、この死のトレーニングは、上記のような効果があります。
※この死のトレーニングもいずれ改めてやりましょう。

要するに、自殺するくらいなら、自己犠牲したり一度死んだと思って、頑張ったりと色々とやりようなあるのです。

※社会や敵への復讐という道もありますが、推奨しません。


【ダブル因果応報理論】


これらの、「命を捨てて努力する」というのは、当たり前ですが、普通の人間には出来ません。
言葉だけだったら、普通に日常生活中にいくらでも言えます。
しかし、人間は、理由も無いのにそんなことはしません。

出来るのは、よっぽど才能に恵まれて努力出来る人(前にも言いましたが体の脳内麻薬が旺盛に出る人です)、後天的なら、軍隊などの環境で強制的に努力させられる人などです。
そうでも無い環境では命を捨てて行動することは出来ません。
※旧日本軍のようにヒロポンを利用して特攻したりとかの手もありますが。

しかし、運命によって、自殺に追い込まれる人というのは、ある意味、これが出来るわけです。
前にも言いましたが、どうも、通常の因果応報理論と、別の道義的倫理的霊性的な因果応報理論の二つがあります。
それぞれ、別の動きか、もしくは連動して動いています。

と言っても、何のことからよくわからんちんでしょうから、ご説明しますが、通常の因果応報は理屈は簡単です。
善因善果、悪因悪果、すなわち、良い事を他人にやれば良い結果が自分に帰ってくる。
悪い事を他人にやれば、悪いことが自分に帰ってくる。

これが基本です。
しかし、この善とか悪とかの定義が問題です。
果たして、良いこと悪いことというのは一体、何でしょうか?

言ってしまえば良いことというのは、快で、悪いことというのは、苦です。

これを、人に与えると、自分にも返ってくる。
ただ、それだけの話しです。
吉凶も同じことです。

で、困ったことに、倫理的な向上、宗教的な精神性、霊性の向上というのは、一般の吉凶禍福とは別物です。

しかし、霊性の向上と言う時、一般の吉凶禍福とは別物の枠の時が多いのです。
例えば、以前も論じた苦行などがそのものズバリでしょう。
バラモン時代の苦行はともかく、日本の修行でも苦行というものが極めて、多い。
戒律だって自分の欲望を抑えるという苦しみです。

一般に、困難は人を鍛えたり強くしたりします。
運動そのものが細胞を壊す苦行(超回復)ですが、運動しないで強くなれたりスポーツで向上したりはしません。
逆に、まったく苦労したことの無い人は、人間として未熟なままでしょう。
苦労知らずのボンボンという言い回しは、これを表しています。

無論、苦労しすぎて性格が捻じ曲がり、世の中を憎悪して悪人になる人もいるでしょう。
しかし、ある程度の苦しみは確実に霊性を向上させます。

わかりやすいのが罰です。
罰は、教育によって禁止されますが、(冤罪でなければ)本当はかなり必要です。
痛みを知らなければ人は学ばないのです。
あの時、怒られて良かったという馬鹿な子供の頃を、なつかしむ大人は多いでしょう。
犯罪で罰を与えられて、二度としないという心境になれば明らかに効果はあったわけです。

人の気持ちもわからない傲慢な人間が、不幸になることで、人の気持ちがわかるようになった、自分がやってきた犯罪が自分がやられることで、初めて罪悪を知った等々、不幸が人格を向上させることは枚挙に暇がありません。

もちろん、さっきも書いたように悪人になったり、潰れたりすることも多いので全部ではありません。
明らかにそういう場合もあるということです。

これらが何を意味しているかと言うと、要するに、一般の因果応報の理論とは別のサイクルで、霊性因果応報理論が動いているといことです。
単純に、過去の悪行で不幸になったという通常因果応報理論とは、別な法則が、動いているということです。

上記は、悪因悪果だけの例ですが、善因善果もそうです。
生まれも育ちも運勢もよく、良いこと尽くしで育って、弱者の心がわからない、大悪人になることもあるでしょう。
仏教的に言えば、苦からの脱出(悟りを求める菩提心)が育たないということでもあります。

まあ、釈迦はボンボンでしたが、逆にボンボン過ぎて、快楽に飽きて出家したケースもあります。
しかし、どちらにせよ、釈迦は、快楽尽くしの善因善果のループから、離れたわけです。
善因善果ループにいたら、修行できなかったということですね。
やはり、通常因果律の別枠として、霊性因果律は存在しています。


【一切皆苦】


このことは、一般に宗教で言われます。

神仏の愛の鞭理論(今、勝手に命名)です。
試練とかオタメシとか修行とか浄化とか、この手の話はいっぱいあります。
霊性を上げるのに、苦しみが必要というのが、この手の話の趣旨です。
要するに一般社会で不幸だと言われている苦が、霊性アップには必要ということです。

これらの、話は、苦行のテーマにつながるので、以前も記事にしましたし、また困ったことに、カルトの無償労働ワークにも通じます。
インドのカースト制度などの、差別構造にも繋がります。
合理性を拒否する、人間を苦しめるシステムにも繋がるでしょう。

そのため、あまり、システムとしては、語りにくい理論でもあるのですが、困ったことに、「苦労が人格を練る(こともある)」というのは、やはりあるのです。

まあ、正確には、さっきも言ったとおり、霊性因果律は、一般の因果律とは別枠で動いています。
ただし、完全に連動していれば、善因善果は、霊性を下げて、悪因悪果は霊性を上げるという、通常因果律と、裏表の法則になりますが、明らかにそうではなく、一部連動しているだけのようです。
苦しみがイコール霊性を上げるのではなく、快楽がイコール霊性を下げるというのでは無いのです。

ここを注意しないと、苦行こそが正しいとなってしまいます。

東洋以外で、西洋にも、似たような考えで、西洋の密教のカバラで、魔法結社の入門時には次のような注意があるそうです。

大沼忠弘氏の著作から 抜粋

私がカバラ(西洋魔術・密教)に入門する時に、導師から次の注意を受けた。
「この道に入ると、確実に何かが汝の人生から失われるが良いか?」
私が「一体何が失われるのですか?」と聞いた。
「修行に邪魔になるもの一切である。富が邪魔な段階に入れば富が失われる。家族が邪魔な段階に入れば家族が失われる」
私は、老子の「道を為せば日に日に損す」という言葉を思い出し、「イエス」と答えて入って行った。



老子の第四十八章ですね。

学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す。
これを損して又た損し、以って無為に至る。
無為にして為さざるは無し。
天下を取るは、常に無事を以ってす。
その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。



どちらにしても、今まで記事にしてきたように、宗教は元々、この世の幸福を捨てる考えで成り立っています。
このことは、どうしても現世の因果律では、完全対応出来ないことを示しています。


例えば、処刑されたイエスは、現世的には失敗でしたし、出家して王族の暮らしを捨てた釈迦も、現世的には失敗です。
しかし、彼らは現世的には敗残者でも霊性的には、人類のトップクラスだと言うことを疑う人間はいません。


※まあ、完全に現世の因果律から外れていたかと言うと、そうではないかも知れませんが。
彼らの教えが世界中に広まったことで少なくとも名誉や影響力という、現世的な幸福はありましたし、釈迦などは長生きして死んでいます。

要するに、善因善果、悪因悪果という法則に関係なく、別の論理で動いている霊性因果律があるということです。。
これと現世因果律がバッティングする時や、あるいは利用できる時は連動するという仕組みしょう。

厳密に言葉の定義をすれば、現世の因果律は、「善因楽果、悪因苦果」です。
良いことをやったら帰ってくるのは自分が快や楽になることで、悪い事をやったら苦しみが帰ってくるということです。

霊性因果律の方が、そのまま、「善因善果、悪因悪果」の文字の定義に近いでしょう。
帰ってくるのは、自分が霊性的に、上がるか下がるか、善か悪になるかですので。
これは、現世的な楽か苦かには関係がありません。
※何度も言っているように、あくまで関係無いということであって、苦→善、楽→悪の単純な一致はしない。


どっちみち、現世因果律の方も、ループにはまると苦しみの連鎖ですし、霊性因果律の方も、霊性を上げるには苦しみが(大抵は)必要ということです。

これが、一切皆苦の裏の意味でもあります。
本当に、生きるということは苦しみばかりの穢土ですね。


【全然まとまってないまとめ】



さて、結局、命を救うという結構なプラスポイントはどうするのか?
ということの話をしましょう(脱線しすぎだろ)。

まあ、こういっては何ですが、正直、中々難しいでしょう。
特殊な職業で無い限り、人一人の命を救うことは、出来る代物ではありません。

しかも、死のうとしている人や、殺されようとしている人というのは、当たり前ですが、普通の状況ではありません。
下手をしたら、巻き込まれたりします。
人の命を助けようとしてこちらの命が無くなったり、逆に助けられたりする喜劇は枚挙に暇がありません。

毎年のように、川や海で溺れている他人を助けようとして、溺死する人間のニュースが後を立ちません。
人の命や苦境を助けるというのはそういうリスクがあるということを考えて下さい。

運が悪いと、罪や負債を押し付けられます。
世の中にはマジでこういう理不尽なことがあり、助けてくれた人間を、落としいれようとする外道がたくさんいます。
恩を仇で返す輩は、意外と存在するのです。

しかし、彼らも別に悪気があるわけではなく、他人を陥れることで自分が助かろうとしているのです。
こういう悪人は、その精神性や、そういう方法しか知らないという正法を知らない哀れな存在なのです。
逆に言えば、そのような悪人の輩だからこそ、今、ピンチになっているわけですが。

この問題は、実は、陰徳における重大な障害の一つです。
そもそも、陰徳を続けるというのが一番の難点ですが、障害パターンの一つとして、このように恩知らずの徒で被害に会い、それがトラウマになったり、寄生されたりして、陰徳を続けられなくなるというパターンがあります。

こういう時は、三十六計逃げるに如かずという選択肢もありますし、最悪、仏モードを止めて、叩き潰すかしないとダメな時もあるでしょう。
まあ、ひたすら耐えて、カルマを浄化するという生き方もそれはそれで聖人君子の生き方ですので、止めはしません。
あるいは、教育のために、上記の叩き潰したりするのも功徳になるという考えもありますが・・・。

どちらにせよ、人の命を助けるというのは、このようなリスクがあります。
単純に同情心や陰徳のためにやろうという心だけでは、被害が大き過ぎる場合があります。

しかし、仮に助けた相手がクズだったりして、被害にあったとしても、確実に陰徳ポイントは増えているのです。
天の神仏はちゃんとカウントしています。
人の命を救うのは、善行の中でも最高位の功徳ポイントなのです。

仮に被害にあっても、それは過去世の悪行の結果と考え、懲りずにぜひ陰徳を続けて欲しいのです。
もちろん、あまりにもひどい目にあって、トラウマを作って挫折してしまう場合もあるでしょう。
しかし、必ず、その後、最悪でも死後には、必ず報われます。

死人の精神になって、敢然として勇猛心を持って、実行してください。
例え、世界中の人間が敵に回ったとしても、豊河は貴方を祝福します。

日ごろから信仰心があり、現世利益とは別の霊性の向上という観点を持っていれば、精神的な被害はある程度、免れます。

この世の価値観だけだと、世間の人間や親しい人間に冤罪を受けて疎外されると、ギブアップしてしまうでしょう。

まあ、こういう時は、実は環境を変えるチャンスでもあります。
以前、毒出しの時にも話ましたが、運気がアップすると、周りと合わなくなります。
要するに、皆さんが人の命を助けたということは、相当な陰徳ポイントで、運気が変わって別人になってしまったのです。

その結果、冤罪を喰らって追い出されたり、逃げてしまっても、それは貴方の功徳の高さに周りの人間が合わなくなったということです。
類は友を呼びます。
社会や人間関係は、同レベルの者たちで成立しているのです。

そもそも、貴方のことを疑って信用しないような輩は所詮、その程度の関係だったということです。
その程度の連中だったとも言えます。
こちらから、とっとと縁を切りましょう。

陰徳を積むのを止めなければ、つまりグレてなければ、新しい良い関係がすぐに生まれます。

単純に、良いことをしたから報われるという考えでは短期的な結果が出ないと、挫折してしまいますので、このような考えを頭に入れて下さい。。
少なくとも、豊河以外の存在として、見えない神仏や守護者は、貴方のことを認めるでしょう。
その事を、誇りに思ってください。
塵芥の人間如きに、貴方の価値観を評価させてはいけません。

イエスだって釈迦だって石を投げられたのです。

話を戻して、人一人の命を救うには、具体的に、どうすれば良いかということですが、以前にも言った「献血が人一人分の血量になった」話などが参考になります。
要するに、他のポイントが少ない陰徳でも、量が溜まれば、人一人分の命を救うポイント数になったりします。

後は、寄付をする場合なども、コスト的な問題で、国内よりも途上国の方が効果が高いという意見もあります。
よく、「途上国には寄付するけど国内の貧困は無視する偽善者」というテーマが昔からあります。
正直、愛国者の、私もそう思います。

だが、別に国内を無視するというわけでなく、単純に費用対効果で見ると、途上国の方が、陰徳度は高いという可能性は否定できません。
わかりやすく言えば、国内の日本人を1000万円かけて1人救うのと、同じ額で1000人救うのでは、費用対効果が段違いです。

陰徳に効率性を求めるのは、間違ってるという説(心が大事)もありますが、冷徹に考えると、どうしてもその可能性は除外できないのです。

ただし、国外だとチェックが出来なくなり、本当に援助が渡っているのか?ということが確認できないデメリットもあります。
その点、国内なら確認は容易です。
まあ、ここらへんは、寄付先が本当に大丈夫かどうかの問題は、やっぱり運としか言いようが無いので、それまでなのですが・・・・。

いずれにせよ、この国内外の物価格差を利用するというのは、手法の一つです。
こういうのもありますよというのは覚えておいた方がよいでしょう。
まあ、自己責任で選択して下さい。





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