2018年8月2日木曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論②業の窃盗自由 その⑨











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。






前回のまとめ



因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



の、4つの反論を「無理くり」捻り出す豊河。
※詭弁レベルで無理やりやってます。


2つ目の、

②業の窃盗自由

です。






前回からの続き

・自分の福分を減らすことで、相手から助けられて、相手の福分・陰徳を増やしてやるということでもあり、

・自分の悪業を増加する(相手を攻撃する》ことで、相手の悪業カルマを削減してやることが出来る。



自分の徳が減っても、相手に陰徳を積ませてあげるという、自己犠牲陰徳というのは、
結構、この世界には、考えとしては良くあります。

宗教のプロならば、
因果応報の考えは、宗教・宗派問わず、みんな知っているので、
ちょっと考えれば、さらに、その先の考えに至るからです。

前回まで、インド人が自分が救われちゃうと、業が解消されない!貯めた徳が減るからやめろ!
という、ヘンテコ理論を見てきました。
これは、因果応報の裏面ですが、
さらに一歩進めると、

自分の業が解消されなくてもいい、自分の貯めた徳が減るのもOKだ!
私を助けるがよい。君の徳のために私が犠牲になろう・・・。

という、尊い?自己犠牲精神のロジックの世界があります。




と言っても、単純に良いものではありません。
ここらへんの、自己犠牲陰徳というのは、実はヤバイものなのです。

恐らく、人間に公開してはいけないレベルの可能性が高いのです。
もっと言えば、顕教に対する密教です。

理由は、善を為すために悪を為すという、通常の善悪の道徳を超えている世界だからです。


相手に陰徳を積ませてあげるだの、布施させて上げるだのは、まだマシなのです。

上記の私の徳を犠牲にしよう云々の例は、
良いカルマの話だから問題無いように見えますが、悪いカルマの話だと、途端に危険なロジックになります。

・自分の福分を減らすことで、相手から助けられて、相手の福分・陰徳を増やしてやるということでもあり、

・自分の悪業を増加する(相手を攻撃する》ことで、相手の悪業カルマを削減してやることが出来る。

こっちの後者の方ですね。


オウムの麻原一味がこの前、処刑されました。

が、オウムの教義で危険だったのが、タントラ・ヴァジラヤーナの教えです。
つまりは、密教(かつチベット密教)です。


もう、相手を、死に至らしめるポアが、相手にとって、功徳であるという考えですね。

本来、罪を犯して地獄に落ちるしか無い相手(オウムの敵対者)を、
功徳の高い人間(オウム)が殺すことで、
高い境地に誘導することが出来るという論理です。

この、一見、外道の教えは、実は、因果応報から言えば、実は、かなり正しいのです。

小の虫を殺して大の虫を助けるというのは、
別にオウムの発想ではなくて、ある程度の為政者でしたら、当然の発想です。

戦争一つとってみても、それがわかるでしょう。

戦争に勝つという大義名分は、それ以外の倫理は除外されます。

そもそも、正義のためという名分で、軍隊や警察は、暴力機関として是認されているのです。


つまり、この世界には、悪を行うことで、より大きな正義や善を達成する。
というロジックが、確実に存在しているのです。
しかも、自分が犠牲(手を汚す、悪業を積む)になって。

というより、悪が無いと正義や善は存在出来ないのです。

国から軍隊や警察をなくせば、無法地帯になるのは目に見えています。

警察権力の暴力という必要が無ければ、仕方が無いのです。


それどころか、自己犠牲精神で、このような必要悪を行うこともしばしばです。

例えば、天下が戦国時代だったとします。
天下統一して万民に平和をプレゼントしたい。

しかし、天下統一のためには、どんなに上手くやっても、必ず犠牲が出ます。
(信長、秀吉、家康の例など)

普通に考えれば、天下統一に伴う軍事行動は、戒律に反する悪であるはずです。
死後は、そのまま地獄に落ちるはずです。

しかし、天下統一のために、万民の平和のために、
自分が悪事を為して天下統一して、自分が犠牲になって地獄に堕ちよう。

この論理です。

要するに汚れ役ですね。

ここまで行くと、もう何が正義だか悪だかわからないのです。

ある意味、究極の善だとも言えます。

単純に、私欲のために悪事を為すという段階と、やっていることは同じなのですが、
目的や志が違います。

善のために悪事をやらないというのではなく、善のために悪事をやろうというのです。



宗教に限らず、これは一般社会でも均衡理論です。

要するに、どちらがより大きな善であるかという話になります。

必要悪というのは、人間社会である限り、必ず発生する代物です。

動物のような人間より下の生物には発生しません。
動物は全部、本能だからです。

人間は、本能を抑止して善を行い悪を止めますが、
さらに一歩進むと、善のために悪事を為すという現象が起きるのです。


よくイエスや地蔵菩薩のように、自分自身が他者のための犠牲になるというのは、
宗教でも、よくある話なのですが、他人を全体の善のために犠牲にするのが善というのは、
宗教としては、公的には言いづらい話です。

とは言え、実際にもよくあるし、論理的にも正しい話ですので、ハッキリNO!とは言えないのです。





このブログでも何回か取り上げていますが、この問題は、基本的に答えがありません。

上記のように、通常の宗教ではこの問題は、華麗にスルーする傾向がありますが、
原理主義的な教義を持つところでは、神のためならば殺すのは罪ではないという過激な思想をしたり、
密教のように、何でもかんでも肯定する境地を目指す宗派は、肯定したりします。
(さすがに、カルトでない密教は、行動はしませんが、論理的には肯定します)

なにぶん、比較考量説として、全体をとるか個人の人権をとるかで、現実社会でも難問なのです。



ただし、陰徳の基本としては、あくまで奥義として頭の片隅に入れておくくらいでいいでしょう。
基本は、善を為し悪を為さないということでいいのです。

せいぜい、徳を相手に積ませてやるレベルか、通常の自己犠牲レベルです。
善のために悪を為すレベルの話は、スルーしておいた方が無難でしょう。



で、ダラダラ続いてきた、
【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論②業の窃盗自由
は、これでひとまず終了です。

次回以降は、
【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論③業の空性

に移りましょう。





2 件のコメント:

  1. なるほど。大変勉強になりました。

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    返信
    1. クボカワジュン様

      コメントありがとうございます。管理人の豊河です。

      ここらへんは、あまりツッコみたくない分野ですが、因果応報(カルマ)の話を論理的に突き詰めるとどうしても、ここらへんにぶつかるので・・・。
      一番、合理的なのは、一神教のように輪廻や因果応報理論を放棄するルートですが・・・。

      初期の聖書には輪廻や業の考えがあったと言われていますが、一神教の連中も、ここらへんの考えの危険性を考慮して、教義から削除したのかも知れませんね。

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