2020年3月21日土曜日

五行と陰徳⑮ 無明→苦パターン










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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。




前回のおさらい





前回から相剋パターン(中の五芒星)に入りました。

通常の相生ルートと違って、一個すっ飛ばしたエラーのパターンです。

対象を傷つけ合う敵対関係です。

前回は、善から無明への相剋でした。
今日は、無明から苦への右下から左上への攻撃パターンです。

無明とはそもそもなんぞや?
という話は今更ですが、要するに真理に無知なことです。
悟ってない人間と言ってもいいでしょう。

通常の相生ルートだと、善をやってその結果、因果応報で楽(幸福)になると、その状態に執着して、この世が絶対不変のものだと、迷妄の無明になります。

要するに、釈迦の諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静の真理をアウトオブ眼中(死語)してしまうということですね。

善→無明ルートだと、間の楽が無いから、無明にならずに済む、善が無明を攻撃するという結果になります。

ちなみに、前回も言いましたが、普通、相生ルートの方が、エラーが無くて、五行が循環しているという、いい状態なのです。

が、仏教と悪魔合体させた五行論では、ご覧の通り、相生ルートの方が悪で、本来、エラーの相剋状態の方が、善になっています。

要するに、仏教のような2500年前以後の世界宗教では、それ以前の自然礼賛宗教のように、生きるということにヘイトしている教義ですので、相剋の方が善い状態になるという結果になっています。

正直、いきあたりばったりで作っている豊河もビックリです。

というのが、前回の話です。

今回も、たぶん、そうなるような気がします。


無明→苦


さて、今回の無明→苦はどうなっているでしょうか?

通常の、無明→悪→苦の相生ルートだと、無明状態になって、真理をガン無視すると、現在の良い状態(過去の善業の結果)に執着し、あまつさえ、それが当たり前だと思ってしまいます。

バカボンボンの貴族などが、平民を虐殺したりするような感じで、自分の身分(才能や容姿など含めた全ての良い状態)を鼻にかけ、弱者を蔑視するようなことに進展します。

現在だったら、新自由主義の弱肉強食社会で、努力して金持ちになったから、貧乏人は自業自得の怠け者とか言ったりするような輩ですね。

そうすると、無明から悪になって、そして、その悪をやった業の結果、因果応報で苦(例えば、地獄に堕ちたり)になってしまいます。

ついでに言えば、さらに相生が進んで、苦の状態から反省して、善業をまた開始して・・・みたいなグルグルとループしているわけです。

で、無明→悪→苦の、悪をすっとばして、無明→苦の相剋状態とは一体、どういう状態でしょうか?

これも、間の悪が無い、という状態を理解すれば簡単ですね。

要するに、悪をしない(すっとばす)ため、因果応報の結果である苦が出ない(相剋される)ということです。

因果応報は、善をやれば楽があり、悪をやれば苦があるので、後者を逆に考えれば、悪をやらなければ苦は無いのです。

しかし、その理屈はなんとなくわかりますが、相剋の主体が
無明というのはわかりにくい。
無明が悪をすっとばして苦を攻撃するというのが理解しにくい。

無明というのは楽が常住不変で執着するような状態を言うのです。
それが、悪をすっとばすというのは、理屈にあいません。

どういうことでしょうか?


無明にあらず





悪をやらければ、因果で苦は来ません。
しかし、その主体が無明というのはわかりにくいのです。
真理に無知な無明がなぜ、悪をやらずに苦を攻撃出来るのか?

簡単です。
すでに、善→無明の段階で、無明が攻撃されて、無明じゃなくなってるからです。

無明はすでに善にボコられてしまっているため、無明から進化したのです。

順風に善→楽の因果を受け取ってしまえば、福徳ポイントが消滅してしまいますが、その分を使わなかったのならば、悟りの方向にポイントを振り分けて、無明の迷妄を打ち破ったのです。

そのため、悪を為すことなく苦を断ずることが出来たと。

無明が断されれば、土行の文字通り岩の如き、無明の我執が壊れます。

自我という執着が崩壊するのです。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

という、仏教の四法印の基本教義の真理が作動して、執着が消え、悪業が割りに合わないと理解し、悪をやらなくなった。

こういうロジックでしょう。


アナザー解釈


ちなみに、それは屁理屈だろう、というツッコミ属性の皆さんのためにもう一つ、解釈があります。
正直、豊河も言っていて苦しいなと思ってます。

それは、無明という存在の別解釈です。

実は、無明というのは、仏教用語なのですが、当然ながらその解釈は仏教の教義(イデオロギー)に沿ったものです。

要するに、無明が悪いものと考えるのは仏教の解釈に過ぎないのです。

もっと言えば、仏教の初期の方の解釈で、後半の一神教に近い大乗仏教では、解釈が違っています。

無明とは、真理に暗いことで、その真理とは、

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

の4つです。

ようするに常住不変なものは無い。
みんな曖昧で信用(これが土行)できるものは一切ない。
というより世界そのものがダメダメなので、とっとと解脱しようという考えです。

インド系の宗教の基本です。

しかし、仏教自体も、小乗(上座部)から大乗になってくるに従って、現世の在家重視のため、教義も変わってきました。

空という、もともと、物事は空っぽ程度のニュアンスが、上記の四法印自体を否定(般若心経など)するものとなって、結局、現世も大切だよという、どっちもどっち論に変化していきました。

そして、どんな人間でも悟れる仏性という絶対的なものがあるんだよという風になってきて、やがては、タントラ密教のように世界全てが大日如来の表れで歓喜しているような教義になってきました。

日本の代表的な宗派の念仏系も、阿弥陀如来という絶対神的な救世主の教義です。

また、日本以外に目を転じても、一神教という常住不変の存在の宗教があることはご存知のとおりです。

要するに、無明という常住不変の存在を信じることは、別に悪ではないという立場が、仏教とは別にあるということですね。

一神教の教義でも普通に戒律はありますので、無明状態(常住不変の存在を信じる宗教)でも、悪を為さないというロジックは可能になるわけです。

もっと言えば、一神教はイエスにしても阿弥陀如来にしても、メシア(救い主)の救世主宗教です。

メシアは要するに人間の苦しみを救ってくれる存在です。

悪をなくして苦を攻撃するのが無明というロジックでも通るというわけです。






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