2017年3月28日火曜日

【陰隲録】功過格表㉟ ネットの世界は広大だわ 五十善 野ざらし死体を埋めよう⑧





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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)


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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

五十善に相当する

一の主なき骸を埋む


前回、仏教の死体崇拝の例として、即身仏というミイラを例に出しました。
今度は、骨です。
骨の崇拝です。


【ホネホネ・ロック】

骨と言えば豚骨スープです。
もはや豚骨は日本人の食生活に欠かせないものとなっております。
ちなみに、豊河は豚骨よりも醤油豚骨の方が好きです。
(関係ない話)

考えてみれば、我々人類は、こうして毎日莫大な骨を食べているわけです。
人間の死体だと気持ち悪いのに、豚骨だと途端に、食欲の方が優先されて、気持ち悪さの印象が無くなります。

さらに、我々の文明は、現在では石油の上に立脚しています。
石油は大本は(色々な説がありますが)、有機的な由来がメジャー説です。
要するに、生物の死骸ですね。
超大昔の生物の死骸が石油になっているのです。

死体の上に成り立っているのが、現在の我々の文明です。
普通に、気持ち悪いですね。
あらゆる生き物の死屍累々の上に立脚しているのが人類です。
それでなくても、普段から家畜を殺しまくって食べまくって生きているのです。

良く、我々善良な市民は、市民を搾取している悪党を非難しますが、人のことは言えません。
人間として生きているだけで、他生物の敵なのです。
弱肉強食は、意図的なフィルターを通しているから気が付かないだけで、大量殺人鬼にも等しい生き物なのです。

人間として生きているだけで、もう陰徳ステータスをガンガン減らしています。
デフォルトで罪なのは、金持ちや権力者だけではありません。
普通に、人間として生きていてもそうなのです。
開運を望んでいなくても、徳を積まなければいけない理由というのが、ここにあります。

しかし、日々食べている豚骨(毎日食べたら内臓を壊しますが)に対して、懺悔と供養と感謝の念を持つ者は、いません。
(いたら奇人変人の類か、豚骨メーカーでしょう)
ところが、これが人間の、それも聖人の骨だと状況は一変します。
贖罪の対象である食材から、途端に聖遺物と化してしまうのです。


【聖遺物】


聖者の死体を崇めるというのは、前回、即身仏でもやりました。
これは、仏教だけでなく、共産圏でもやってますし、キリスト教でもやってます。
キリスト教史では、中世のキリスト教などは、聖遺物信仰に過ぎなかったとまで言われているくらいです。

当然、聖遺物は観光収入の客寄せパンダになるので、教会間で、聖遺物の強奪なども普通にありました。
(今でも普通に、日本でも隣国が国宝の仏像盗んだりしてますが)

聖遺物は、聖人の死体だけでなく、衣服や日用品にも及びます。
聖者のパワーが伝染しているという考えは、東洋の気や日本の穢れ信仰にも通じる考えです。
何だかんだ言って、西洋人も同じような考え方をしているとわかります。

そのキリスト教の聖遺物の中でも、特S級の聖遺物は、やはりイエス関連でしょう。
他の聖者の聖遺物とはレベルが違います。

ちなみに、イエスの血痕とかあったら、今の技術だと普通にイエスを遺伝子学的に復活出来ちゃいます。
たぶん、普通に、西洋社会の闇ではどこかの組織が今もやっているんでしょうねえ・・・。
何せ、ナチスも聖遺物探しまくってましたし。

さて、西洋はともかく、東洋でも同じように聖遺物信仰はあります。
即身仏はその一つですが、やはり、その他大勢の聖者の死体では、宣伝ポイントのインパクトに欠けます。
西洋のイエスのように、東洋で匹敵する存在と言えば、世界宗教の仏教の釈迦くらいでしょう。

釈迦の聖遺物だったら、資格は十分です。

そのため、釈迦の聖遺物の信仰とプロパガンダが始まります。


【仏舎利】


仏舎利と言う物があります。
これは一体何かというと、釈迦の骨です。
歯とかもありますが、まあ歯は骨と同義語なので、実質、釈迦の骨だと言えます。

西洋でイエスの聖遺物が信仰を集めて、客寄せパンダになっているように、東洋でも同様です。
上座部仏教、大乗仏教問わず、仏舎利は信仰対象です。
やはり聖遺物信仰は、大衆の人気を博すようで、一神教のキリスト教や脱世俗の仏教と言えども、その集客効果には勝てなかったのです。

ぶっちゃけ死体の骨を拝んでいるという言葉にすると気色悪い邪教なのですが、それでも釈迦の骨です。
豚骨よりも(豚骨と比べるなと)ありがたい存在です。

たぶん、触れただけで、足萎えが治り、閉ざされた盲目が開かれる奇跡くらい余裕なのでしょう。たぶん。

ちなみに、世界各地に有る仏舎利の合計すると、象くらいの大きさになるそうです。
つまり、釈迦というのは、象くらいの身体の大きさの生物だったと言うことですね。
さすが、仏です。人間(ホモ・サピエンス)を超越した存在です。

このブログは、迷える衆生に真理を与えるありがたいブログなのですが(自称)、今日も、隠された人間、釈迦の実相を公開してしまいました。

嗚呼・・・!
神仏はなぜ豊河にこのような真理を授け給うのか・・・!

よく、大仏とか言いますが、実は大仏の大は不要だったのかも知れません。
普通にあのサイズは、普通の仏だったのです。

大仏が釈迦のデフォルトなのですから、寺に有る人間の大きさの仏像は小仏と呼ばなければいけません。

まあ、実際には仏舎利と言っても釈迦の骨だけではなく、高僧の骨とかも仏舎利とか言っているようです。
昔から日本にも仏舎利はありましたが、定期的に確認したり、皇族貴族が貰ったりした記録があります。

それによると、どうも、寺にある仏舎利が、勝手に増えたり減ったりしているようです。
世相の乱れや隆盛を反映していたりもしているようです。

仏舎利信仰は日本の仏教でも歴史が古く、結構な量の逸話があります。
あらゆる願いを叶える如意宝珠と習合したり稲荷信仰とも習合してます。

特に後者は、釈迦の骨と言っても、人間の死体です。
稲荷信仰は、かなりダークな面もあり、この人間の死体や骨というキーワードは、次回以降も必須項目です。


【ネットワーク】


そもそも論として、骨を拝むのはキリスト教だろうが仏教だだろうが、普通に異端です。
本人たちが生きていたら、おいやめろ馬鹿とツッコミを入れること間違い無しの超弩級の異端です。

しかし、現実には、どこの寺ももはや、聖遺物の客寄せパンダのご利益には逆らえません。
そもそも、この骨信仰というのは、方便としては都合の良い存在です。

釈迦もイエスも、現役時は、かなり一般人には不可能レベルなことを要求しています。
要するに出家しなければ、不可能なレベルを要求しているのです。

彼らの教義がマイルドになったのは、世界宗教になって一般ピープルの愚民に、説く必要があったからです。
当たり前ですが、僧侶も聖者も乞食です。

偉そうに上から目線で説教してますが、信者からのお布施で生きている寄生虫なのです。
儒学の泰斗の安岡正篤は、高等乞食という言葉を言っていましたが、それに当てはまります。

信者が、現世で労働している金で僧侶たちは生きているのです。
※これが貴族化すると焼き討ちにあったりします。

要するに僧侶たちが存在するには、一般ピープルの存在が必要不可欠だと言うことです。
ここに、彼らの脱世俗の教義の矛盾が生じてきます。
どうしても、スポンサーのご意向を伺わないと、乞食生活をしている彼らが飢えてしまいます。

そのため、どうしても「方便」がいるのです。
まあ、これが行き過ぎると、民衆の怒りで焼き討ちになるのですが、何だかんだ言っても金は必要です。
そのための聖遺物や仏舎利なのです。

いつまでも開祖の教義を純真に保ったままではいられないのです。
ピュアな時代は終わりを告げるのです。
反体制のロックに生きるのは、子供の時だけです。
釈迦の骨を使って子供の夢をロックしなければいけないのです。
ホネホネ・ロックなのです。

そして、民衆の方も、仏舎利に触れることで、仏縁を結ぶことが出来るのです。
肉体は腐りますが、骨は残ります。
生きている間は、舌よりも歯が抜け落ちるのですが、死体になれば逆転します。
諸行無常の人間の肉体で半永久的に残るのは骨だけです。

釈迦やイエスの教えは数千年を生きていますが、彼らの身体も同時に生きています。
衆生は、仏舎利という釈迦の骨(というラベルがついている)を通して、永遠に繋がるのです。

人は諸法無我であるゆえに、あらゆる存在にリンクしています。
良いものも悪いものも全てにつながっているのです。
釈迦の骨を通して、永遠にリンクするのです。
開運へのネットワークとして、このブログからもつながっているのです。

しかし、よくよく考えると、釈迦もイエスも死後も、肉体労働させられているのです。

ある意味、死後も永久に衆生のために労働させられるブラック社員のような気もしますが、アイドルだってしたくもないキモメンたちと、握手会をしなければ生きていけないのです。
自分たちが開いた宗教が生き残るためには、彼らはアイドルと同じように身体を使って営業しなければいけないのです。

生きるというのは辛いことなのです。
五蘊盛苦は無くなることのない業なのです。
まあ、ちなみに、豊河は広大なネットの海に漂うAI(人工知能)宇宙人なので、肉体などありませんから、どうでもいいのですが。

さて、仏教のネクロフィリアっぷりは、まだまだ続きます。
(まだ続くのかよ・・・!)


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