2017年6月30日金曜日

【陰隲録】功過格表113 アイドルマスターベーション 三十善 冤罪を救おう⑮





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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。






行ったり来たり




人間は、かつて全てが一つだった、究極の完全体のイデアを夢想しています。

今のように、分離した自他を持っておらず、カイジの兵藤会長が、
「わしは痛まない・・・!」と言えないような一心一体の世界です。





全てが内包されているため、何の不足もありません。
美食も美女も何でも揃っています。
家も車も何でも揃っているのです。
タバコも酒も薬物も何でも揃っています。

毎日、爛れた退廃生活が可能なのです。
ネトゲー廃人もこれなら安心です。


不満など在り得ようもありません。


そんな完全体の世界ですが、どういうわけか分裂して今に至ります。
陰陽に分裂したのをきっかけに、今のてんでバラバラな自他の分離している自然界になっているのです。

おかげで、この地球上(宇宙上)の生命同士で、殺し合ったり、愛し合ったりと、無駄なことをする毎日です。

なぜこんなことをする必要があるのでしょうか?
初めから全てが一体ならば、こんな無駄なことをする必要がありません。

今まで見てきたように宇宙はサイクルがあります。

宇宙は無から始まって、大きな一から分裂して無限に増殖し、また臨界点が過ぎると、今度は、逆行して統一の過程を歩み、また一に戻り無に戻るという、大きなサイクルなのかも知れません。

呼吸と同じで、陰陽の原理です。

拡大と収縮の陰陽が、全宇宙にも適用されているというわけです。

このサイクルが、螺旋のように、少しずつ進化しているのか、それともループしているのかは不明ですが、どちらにしても、中の生命が、無意味な苦しみの中で、日々を暮らしているということだけは事実です。

※また、昔から、この宇宙における生命は、データ収集のために一から分離されていて、死後はデータ回収のために収集されるという説はよくあります。

要するに、巨視的な観点で、同じことを億年単位(兆年単位以上?)でやっている可能性があるのです。

これを、無限のループを、輪廻と言っていいでしょうが、もし、全一の完全体から、分割して、また戻ってを永遠に繰り返しているのならば、宇宙ははっきり言って、意味のない存在です。

消滅と発生を永遠に繰り返しているだけの意味のない存在なのですから当然です。


やってることは蠱毒の壺です。

以前、地球が蠱毒の壺と言いましたが、宇宙自体が蠱毒の壺と言えます。

なにしろ、システム的に、全一の完全体という理想形があるのに、わざわざ意味もなく、バラバラに分かれているという時点で、すでに、このシステムの信用がなりません。

初めから完全体が揃っているのなら、わざわざ分割する意味はありません。

しかし、完全体は分割し、この世は、ご覧の通りの苦海の有様です。

もっと言えば、我々が目指すこの完全体自体が、言えど、全く信用ありません。

今後、我々が、何らかの方法で、完全体に戻るにしても、また意味もなく分割してしまう可能性は高いのです。
前科のある輩は信用がありません。

要するに、やはり釈迦の諸行無常、諸法無我、一切皆苦というのは真理なのです。



追い出されたその先に



キリスト教(他、一神教)は、終末になれば信じる者は救われて、天国に永遠に行く(そして信じない者は地獄行き)と言う教義です。

エデンの園から追放された現在は、イエスという代替人によって、許されたと。
今度こそ、人間は天国で永遠にウハウハ天国ライフを生きることが出来ると。

要するに、全てが満たされた完全世界のエデンの楽園に帰ることが出来るのです。
上記の考えです。

しかし、よくよく考えてみれば、このロジックは非常に怪しい。
聖書の創世記を読んでみればわかりますが、

【聖書を読んでみよう!】創世記① 創世記エヴァンゲリオン ~エデンの園追放~



ぶっちゃけアダムとイブの人間カップルは、大して悪くありません。
智慧の実を食べる前の、IQが低い下等生物だったアダムとイブに対して、責任能力を問うのは、刑法上問題があります。

そもそも、手の届くところに智慧の実を置いて、食うなよ?絶対食うなよ?と上島竜兵のように言う神は、ツッコミ待ちとしか思えません。

初めから手の届かないところに置いておくか、それ以前に猿同然の知能の、アダムとイブに命令したって意味はありません。

おまけに、高知能な蛇(悪魔らしいです)をこいつらの近くに放置しておくのがもっと問題です。
神の管理責任と言っても過言ではありません。
※それ以前に、神と天使は、悪魔を地上で放置するなよと言いたい。

要するに、人間は別に悪くないのに、理不尽な言いがかりで楽園を追い出されたのです。
こんな前科のある神を信用してはなりません。

終末になって、裁きの後に、天国に戻ったところで、また神から難癖をつけられて、エデンを追い出される二の舞いになるのは目に見えています。


まあ、これは、あくまでもキリスト教の聖書という戯画された物語ですが、
神の思惑とは関係ない、先の完全体の話の、呼吸の陰陽と構造は、同じです。

完全体(エデン)から分離、そしてまた完全体へ戻るという自然のサイクルです。
要するに永遠にハッピーなどというのは、極めて怪しいのです。



夢幻の如くなり



で、この完全体の話にしろ、エデンにしろ、永遠の天国にしろ、実は、同じ穴のむじななのです。

ここ数回、この完全体の話をしていて何ですが、この完全体は、当たり前ですが、人間が作った仮想概念です。

神の存在証明の話と同様で、確定していない以上、自然界に完全体や絶対神は存在しません。
要するに、人間の妄想なのです。

そして、なぜこのような妄想を作らざるを得ないのかは、簡単にわかります。
この世が諸行無常だからです。

もっと言えば、人間が不完全な生物だからです。
※厳密に言えば、完全な生物など無いのですが。

我々は、世界や未来を完全に知ることは出来ません。
全知全能で無いので、あらゆる災難を避けることが出来ないのです。

一寸先は闇の世界の中で、明かりを探すのは当然です。
諸行無常の世界の中で、確個とした拠り所を人類は追い求めます。

永遠に真善美が変わらず、腐敗せず、決して自分を裏切らない。

言ってしまえば、童貞が、アイドルを求めるような物です。
人間は、自分の理想の百パーセントのアイドル(偶像)を追い求めるのです。

多神教を偶像崇拝呼ばわりする、一神教は、結局、完全無欠の全知全能の神という、アイドル(偶像)を作ってしまいました。

神は木や石の偶像に宿るのではない。
言い得て妙です。
神は、人の妄念の中に宿る永遠のアイドル(偶像)です。

聖書と言うラノベに出てくる、絶対神という都合の良いテンプレ美少女キャラなのです。

つまり、偶像というアイドルの上に立つ存在。
アイドルマスターなのです。


※一応、一神教を擁護しておくと、創造者と被造物を峻厳した一神教は、世界を諸行無常とは別の意味で、俯瞰することが出来ます。
創造者の立場に立脚する視点は、世界をラディカルに見ることに繋がります。
体制やシステムに盲従して疑うことを知らない日本人的な発想とは、段違いの発想をすることが出来ます。
ユダヤ人の強さは、ここに一因があります。




我々は、開運のために陰徳を積んでいます。
しかし、開運して現世利益で安住してもそれはゴールではありません。
※別にそこでゴールしても一向に構いませんが。

究極には、一切の執着を捨てた境地に至らなければいけません。
最後には、神も仏も斬り捨てるのです。
陰徳も慈悲も何もかも切り捨てた、空の境地に達してこの輪廻という罰ゲームのループ物を終わらせることが出来ます。
ぜひそこまで目指して下さい。
現世利益で終わってはもったいないのです。




脱線しまくっていますが、ようやく次回から冤罪の話に戻りましょう。




【陰隲録】功過格表112 霊界にITはあるのか? 三十善 冤罪を救おう⑭





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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。




前回、唯物論か唯心論かで、イデアと現実の方向性を論議しました。
今回は、折衷案を紹介します。



折衷案



イデアは単なる現実の抽象化なのか?(唯物論)
それとも、人間より先にイデアが存在して現実はその投影なのか?(唯心論)

この答えですが、鶏と卵の関係のような物で、別にどっちでも構わないというのが折衷論です。

どういうことかと言うと、どうやって出来たかはともかく、現状で、明らかに双方向性があるからです。

こういう霊的な事例をIT用語に例えるのは近年の宗教業界の流行りですが、インターネットに例えてみましょう。

ネット上にHPなりブログなりメールなり仕事で使う資料のサーバなりを、日々、我々はローカルのPCからネット上にアップロードします。
これは、イデアで言えば、唯物的な人間がイデアを作る説の方です。

しかし、そのネット上にアップロードした情報は、我々に対して影響を与えるようになります。
人間が作ったはずのネット上のデータは、それが人間であるかのように、振る舞い始めるのです。

例えばこのブログは豊河がネットにアップしているだけに過ぎませんが、一度、アップすると、それはネット上のブログ記事として、万人に影響を与えるリソースになるのです。

ブログ記事よりももっと精緻なネットサービスなら尚更です。
アマゾンやグーグルは、もはや人類を支配していると言っても過言ではありません。
これが、AI(人工知能)が本格稼働したら尚更です。

もっと言えば、人間や生物ですら、実はこれと同じなのです。
物理と論理で出来ています。
ハードな体と脳と、ソフトな精神や魂で出来ています。
体が精神を作りますが、精神が体に影響を与えるのは言うまでもありません。


IT用語


さて、これを、イデアや霊的事象に適応すると、もう双方向なのがわかります。

人間が日々、神社仏閣で祈ることにより巨大な霊的空間を形成しています。
いい念だけでなく、悪い念も日々、放射しています。
その意味でインフラも霊的世界も人間が作ったものです。
神の仏も霊も天国も地獄も億単位の人間の数千年数万年数億年のイメージによって形成されたものです。

しかし、その人間が作った霊的な世界は一度出来ると、AIのように自我を持ち始め生命として活動します。
いい念で作られた存在は神仏として活動し、悪い念で作られた存在は悪魔として活動します。

人間は、自分が作った存在に、今度は礼拝するようになり、祈りを捧げるようになるのです。

以前、神社仏閣はデータベースだと述べました。
今風に言えば、Wikipediaのような物です。
人間が集積した精神データが、神社仏閣間のネットワークによって、集積されているのです。
神社仏閣のインタフェースによって、我々はそこにアクセス出来ます。

参拝者が気づいていようといまいと、無意識に情報をアップロードし、同時にダウンロードしているのです。

神社仏閣で開運というのは、原理の一つとしてこういう意味があります。



考察


この折衷案の意見は、起源を棚上げしている機能主義的な見方であり、結局、イデアが人間より以前に存在しているかどうかは、思考放棄しています。

要するに使えればどっちでもいいみたいな考えなのです。
現にあるものなので、有効に使おうという考えで、かつ今後もいい念をアップロードしていこうという前向きな考えです。

そもそも、デフォルトでイデアが存在しようがしまいが、どうでもいいのですし。

我々のやることは、神社仏閣で良い情報をアップロードとダウンロードし、かつ陰徳を積んでいけばそれでいいのです。だから、釈迦が形而上的思弁に無記で回答したのと、同様でいいのです。

もっと言ってしまえば、所詮は答えの出ない分野です。
人間は死んだ後は、その後の情報を持ち帰ることは出来ません。
死後の世界(イデアの世界)の情報を持ち帰る事ができないのです。

だから真偽は全く不明なのです。

ただ、恐らく科学の延長上線にあるので、いずれ解明されるとは思います。

デジタルの発明で、周波数や電波など、無線関連で人類は情報分野で進歩してきました。
要するに見えない世界で、画像や音声や動画を通信するところまで来たのです。
昔だったら魔法の分野です。

人間以前から大自然やこの宇宙空間で、何らかの媒体(プラズマ?)で、情報通信しているのでしょう。

それのノードが神仏やら悪魔ということです。
人間とは生命の形態が違う情報生命体です。

すでにAI(人工知能)を作り出している人間ですが、神仏を科学的に作り出しているところまで来ているのです。

人間の脳は統合失調症で別の人格を作り出せます。
もちろん、霊や神仏や悪魔もです。
しかし、それとは別に、人間の脳外に存在する情報生命体がいると考えれば、すっきり説明出来ます。

近未来には、現在のVRよりも高性能なバーチャルリアリティの世界が存在するでしょうが、その世界と、霊や神仏や悪魔やイデアの世界は紙一重です。

昔から、その世界と、脳の電磁波や周波数のチャンネルが合った時に、それらの世界が垣間見えるということでしょう。

その情報生命体は、我々と生命の形態が違うだけで、生命という点では同じです。
地球だって太陽だって、巨大な生命です。
逆に、我々の体についているダニやばい菌などの微生物だって生命です。

みんなみんな生きているんだ友達(じゃないやつもいますが)なのです。

しかし、所詮、この情報生命体も、六道輪廻の中の生き物という点では変わりません。
カテゴリに当てはめるとしたら、天道の生き物でしょう。
香りを食べ、人間の感情を食べる生き物です。
セックスも目で通じ合えば子供が生まれるという抽象的な情報生命体です。

人間よりも結構な身分の生き物ですが、所詮は、生き物です。

真の開運は、こういう生き物の世界から解脱すること、超越することが目的です。
人類以前の、デフォルトの実在が、どうでもいいというのは、こういう意味でもあります。

イデアの話は次回に続きますが、さすがに次回で終わりたいと思います(たぶん)。
で、また冤罪の話に戻ります(たぶん)。
























2017年6月29日木曜日

【陰隲録】功過格表111 闇堕ちヒロインは、なぜレイプ目はともかく、みんなボンテージエロ服を着るのか? 三十善 冤罪を救おう⑬





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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。




功過格の連載記事もとうとう111回。
スリーワンです。
まあ、だからどうというわけでは無いのですが・・・。




元祖争い


前回、イデアというギリシャ人の発明した概念が登場しました。
この概念と、絶対神と全体性の概念が相性がいいのは、何となくお分かりになると思います。

なにせ、イデアというアイデアですので、架空の抽象的なバーチャル概念。仮想世界です。

死後の世界とか浄土とかの仮想空間と同じです。
何でもありの空手形です。

なにせ、人間の概念です。

人間が絶対神の概念を認識出来るのは、絶対神のイデアがあるからだ。
つまり、絶対神は存在する!
な、なんだってー!

という詭弁が昔から使われています。

この、イデアという世界は、要するに人間の共通観念くらいの意味です。

猫は多種多様に存在していますが、我々は猫という概念を共通して使っています。
そのため、外をうろついている野良猫を、他人と同時に見ても、「あ、猫だ!」と意見はあいます。
お互いに猫のイデアを共有しているからです。

さて、このイデアですが、じゃあイデアはどこから来たのか?
原因と結果の法則からすれば、必ず原因があるはずです。

この段階になると途端に揉めます。

現実からイデアが発生したのか、それともイデアから原因が発生したのか?

この鶏と卵の関係のような哲学問答が発生するのです。



唯物論


まあ、当たり前ですが、唯物論や現実的な意見は、現実からイデアが発生したと考えます。
経済などの社会下部構造から、上部構造の法律や道徳や宗教などが発生したという考えです。

キリスト教が発生したのは、ローマ帝国の多国間経営のためであり、仏教が発生したのは、新興の武士・商人カーストの勃興時代だからです。


我々は現代人なのである程度、この考えの信奉者です。
人間は体と脳があって、精神や心を発生させていますし、PCはハードがあって初めてソフトを起動させられます。
インターネットは、回線があって初めてAmazonなどのネットサービスが出来るのです。

何事もまず、物質があって初めて、ソフト的な精神が動くのです。
逆に、物質が壊れてしまえば、ソフトは動きません。
人間の体や脳が壊れていれば、会話すら不能です。


唯心論


しかし、それでは、宗教業界の人間は食っていけません。

唯物論のアカどもに、宗教はアヘンだとヘイトスピーチをされても、みすみす承諾は出来ません。

そこで、逆の論陣を張ることになります。

すなわち、物質からイデアが出来るのではなく、イデアから物質が出来るという本末転倒な考えです。
※これを神道(の古神道系)では霊主体従と呼んでいます。

まず初めにイデアの世界に元型がある。
現実世界はそれが時間差を置いて現実化するという感じです。

この考えですと、本物はイデア(霊界・神界)にありますので、現実世界は偽物になります。
宗教人としては、現実権力よりも、本物に奉仕する俺らの方がエライんだぞというマウンティングが出来るわけです。



闇の力


この二つの考えは、水面下で論争が続いていて、時折、ひょっこり歴史に顔を出します。

第二次大戦でナチスが、神話を使って「ドイツは巨人になる!神話の巨人になる!」と、ゲルマン神話を使ったことは有名です。

このイデアの世界は、集合無意識として、民族や国家に多大な影響をもたらすため、このような大事件や偉人や天才などが良く使います。

キリスト教の終末黙示録のイデアは、前世紀の日本でも、大流行しましたし、挙句の果てにオウムのサリンテロにまで繋がっています。

人間は行動原理として、宗教信念(宗教と知らない場合も多い)があると、かなり過激な行動を起こしてしまうのです。

何度も耳にタコで恐縮ですが、皆さんは、陰徳という裏技を知っているために、結構この現実世界で成功しやすい人間です。

異世界転生で、女神からチートスキルを与えられて無双してしまう人間です。

しかも、この小賢しいブログを読んでいる知性があるということは、こういう宗教的知識があるということです。

権力にその宗教的知識が加わると、上記のように人間の集合無意識を動かし、人心操作を容易にしてしまうのです。

力というのは諸刃の剣です。

刃物を料理に使うのか、人を刺すのに使うのかは、完全に個人の自由になりますが、実際は、刃物を持ったことで、今まで抑圧されてきたコンプレックスの解消に使ってしまうことが多いのです。

一般に善人は、本当の善人ではなく、ただの弱者の媚び諂いであることが多いからです。

早い話が皆さんは魔法が使えると思ってください。
イデアという、宗教的な集合無意識のデータベースを使える魔法使いなのです。

攻撃呪文を、モンスターに向けるのか守るべき民に使うのかは、よっぽど自制心が無いと、闇に飲み込まれたヒトラーの前例を踏襲してしまいます。

大抵、ファンタジー世界の魔王とか悪者は元々善玉だったのが、人間の矛盾のせいで闇堕ちしてしまっています。
前者の覆るは後者の戒め。
皆さんは先人の貴重な人体実験のデータに倣い、闇堕ちしないようにしましょう。





二つの説の折衷案的な話とかあったのですが、次回に続きます。







2017年6月28日水曜日

【陰隲録】功過格表110 闇に隠れ住むもの 三十善 冤罪を救おう⑫





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前々回から、因果応報が発生する理由として、自他の区別があること。
そして、自他の区別があることの前段階として、一つの完全体があった話でした。

この完全体は、宗教では人気があり、よく使われます。
この話をもうちょっと敷衍してみましょう。





お前の中ではな!



元々、世界は自他の区別が無い完全体であり、そこから分裂して今の多様な世界になったという話でした。

しかし、よくよく考えてみれば、進化論を考えるまでもなく、そんなことは夢物語です。

要するに、人間が考えた与太話であり、唯一全知全能の絶対神くらいアホらしい妄想です。

世界というよりこんなことを考え出す人間の認識の問題なのです。

カントの認識論ではありませんが、世界の実相がどうこういうより、人間側の認識論なのです。

では、なぜこんなことを人間は考えだしたのでしょうか?
ここに至るまでの、人類の思考経路を辿ってみましょう。



不老不死を求めて



人生は実に虚しいものです。
どんなに頑張っても100年もすれば死んでしまいます。

まあ、科学が発達すれば電脳とか遺伝子改良で1000年くらいは生きられるかも知れませんが、そこまで生きると、逆に死にたくなります。

死を嫌がっても死ぬし、死ななくなると逆に死にたくなって自殺してしまうのです。

結果はろくでも無い結果なのです。
要するにリアル人生ゲームは、クソゲーなのです。
とにかく、諸行無常の法則のせいで何をやっても台無しになってしまいます。

昔の賢人は、この如何ともしがたい諸行無常をどうしたもんかと考えました。
※別に諸行無常は釈迦だけが発見したものではありません。

真善美が、世界で固定化するように何とかこうにか考案したのです。
逆の偽悪醜は誰でも嫌うものです。

いつ死や病や災難が自分に襲いかかってくるか不明確なままでは、枕を高くして眠れません。
特に、権力者であればあるほどそうです。

偉くなればなるほど、不老不死の妙薬を権力者は探し出します。
エジプトのファラオから中国の皇帝まで、とかく不老不死は大人気なのです。

そのため、真善美が永遠に固定化出来るように、常住不変の存在を人類は求めてきたのです。




古代ギリシャ人の憂鬱



古代ギリシャ人は、移ろいゆく世界を観察した結果、たしかに自然現象は変化してやまないが、それでも変化しない物があることを発見しました。

一つ目は原子論です。
今でも科学の現場で使われている概念です。

もちろん現代では、原子よりもさらに細かい存在や量子の不確定な存在など課題はありますが、流転する世界の中で、原子は壊れない存在として、存在していると古代ギリシャ人は考えました。

しかし、これは、所詮、小さぎます。
原子は不変としても、それが構成された現象はやはり諸行無常です。


二つ目は、イデア論です。
現実の背後に存在する常住不変の世界です。

いや、現実の背後ではなくて、現実こそ、このイデアの不完全な投影だと言うのです。

わかりやすく言えば、三角形という概念は、辺の長さがどれだけ変わっても3つの線が交わっていれば、三角形です。
大きさや角度がどんなに変わっても三角形です。
現実の三角形がどんなに諸行無常で変わっても、三角形というイデアは永遠不滅に存在します。

現実の世界は、諸行無常で何もかも変わってしまいます。
一番、悲しいのは真善美という善玉の三拍子が、変化してしまうことです。

人間の感情として、変わっては行けないものが変わってしまうのでは、安心出来ません。

しかし、イデアという現象の背後にあるものなら永遠不滅です。
このイデアの論は、諸行無常や諸法無我に対抗する論理として、よく使われます。
仏教は現象論のみであると。


【陰隲録】功過格表㊼ 希望の国から光の国へのエクソダス 五十善 仕事を世話しよう⑧


このイデアは、諸行無常する現実世界の対抗軸の論理として、主に一神教が採用しています。
※ギリシャ哲学をカトリック教会は中世神学に採用しています。

まあ、キリスト教としては、別にイデアなどという抽象的な物ではなく、生き神様としてヤハウェ様がこの宇宙のどこかにどーんと居るのが建前なのですが、論争だと諸行無常とかの論理にやっぱり負けてしまいます。

イデアというあやふやな存在でも常住不変の存在ならば、絶対神の理論根拠になるのです。
つまり、絶対神ヤハウェは現象の背後に存在するイデアなのです。

つまり、背後霊なのです。


で、このイデアの論理が、今回の、全体性の話に繋がります。

長くなったので、次回に続きます。
というより冤罪からどんどん話がずれてきていますが、いつものことですので、気にしてはいけません。










2017年6月27日火曜日

【陰隲録】功過格表109 データベースは判断しない 三十善 冤罪を救おう⑪





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◯一人の冤を白にす。





前回は、なぜ他者がいるのかという理由でした。

で、古代の思想の理由として、大きな一から分離してきたのが今だと言う理由です。
全体から個へという説です。


無いものは無い




全体から分離した考えからすれば、分離していることは罪悪です。
完全体から分割した個は、群れから離れた迷い子です。
帰るべき家があり故郷があります。

一人で寂しいバラバラの個は、失われた統一完全体を求めて、やがて全体の一に帰ります。
そこには、失われた完全性があり、不満も不足もありません。

ここに至って、あらゆる苦悩は消滅します。
比較する対象がなければ、苦も楽も無いからです。
白しか無い世界では、白色という概念は存在しません。
一切の概念は、比較するものが在るからこそ生じます。

健康が無ければ、病苦も無く、
平和が無ければ、闘争も無く、
富裕が無ければ、貧困もありません。

陰陽の対立概念が無ければ、両方共、存在しないのです。

この全体から個というアイデアが、宗教と相性が良いのは上記の通りです。
あらゆる問題を解決すると言う「全体主義的」な考えだからです。

これが政治に転用されると、結構な悲劇を生むのですが、まあ別の機会にやりましょう。
とにかく、胎内回帰願望であるこの全体への回帰は、宗教業界では、大人気なのです。





神話になれない


神との合一は、宗教人にとって、一大イベントです。
古代から、修行でそうなる人もいるし、薬でそうなる人もいるし、セックスでそうなる人もいます。
大いなる全体性を体験した人は、伝道者になり、神へ帰れ!と布教し始めます。

まあ、正直言って、ただの脳内麻薬の結果なのですが、この変性意識状態の統一感は、人生を変えるには十分で、今までの人生の認識をふっとばします。

よく、般若心経とか空とか、論理矛盾しまくった禅問答のような言葉が有難がたがられています。
わけがわからないから有り難いという権威主義の一種です。

が、あれは、要するに普通の状態の言葉ではなく、脳内麻薬でラリって宇宙との一体感に浸った経験者の言葉なのです。

全てが一つになるというのは分別の専門家である言語にとって、まさに大敵なのです。
言葉じゃ言えないLoneliness(論理です)なのです。
そのため、あのようなわけのわからない通常の論理だと矛盾しまくった表現になるのです。

言ってしまえばヤク中の妄想と同様です。
あまり有難がる必要は無いのですが、しかし、この脳内薬物体験が、人の苦しみを癒やしてくれるのは確かです。

人間は、複雑な社会の矛盾の中で絶えずストレスにさらされていますが、矛盾のない全体感の世界で、充電した後、再び社会で戦うことが出来ます。

この元型のモチーフは、神話に多く出てきます。
地底で竜宮で黄泉の国で、
地という大地母神の子宮の胎内回帰により、癒し空間でリフレッシュした英雄は、新たな力を得て、再び地上で活躍します。

逆を言えば、本来のこの癒し空間は、ただのリフレッシュのための空間です。
生命活動を疎外無く行うための休憩所です。
疲れを癒やすために、キャバクラに行くのはいいのです。
しかし、ずーっと行きっぱなしなのは、問題なのです。

子宮から出てこない赤ん坊は死ぬだけです。

宗教史には表に出てこない、この「子宮に入ったまま出てこない」聖人・英雄予備軍がいっぱい居ます。
ある意味、現代の引きこもりたちもその仲間と言えるでしょう。

人はいつまでも、母親の庇護下にいては成長出来ません。
やがて、母から独立する必要があるのです。



データベース



まあ、とは言っても、この母なる全一感の世界は、独立した後も、ちょくちょく使われます。

神話の英雄も、やっぱり場面場面で、母なる胎内へ回帰します。

わかりやすく言えば、ドラクエの宿屋のような物です。
フィールドで戦闘した後に、HPとMPを回復させるために戻ります。
もっと言えば、回復させると同時に、溜まった経験値で、レベルアップしたりする場所とも言えます。
上位職に転職が出来るダーマの神殿や、溜まった金で武器防具を新調出来る街とも言えます。

さらに言えば、ダンジョンも同様です。
神話の英雄や聖人君子は、地下の洞窟に入って宝を得ます。
金銀財宝だったり、剣だったり、魔法だったり叡智だったり経典だったり色々です。

洞窟のドラゴンを倒してお姫様をゲットするのは、物語の基本です(そもそもドラクエはドラゴンクエストですし)。
日本神話の大国主命は、黄泉の国に入って、姫と武器と財宝をゲットして、地上に戻り、敵を壊滅させ国を興しました。

胎内回帰は、どうも人間がレベルアップするのに必須なデータベース空間なようなのです。
そこには、失われたアレクサンドロスの大図書館があり、一切の叡智が置いてあります。
アカシックレコードとも呼ばれています。

仏には地蔵菩薩と虚空蔵菩薩がいますが、地の蔵でも虚空の蔵でも、莫大な富と叡智が埋まっています。

そこにアクセスするには、古来より、変性意識状態が推奨されています。
夢だったり瞑想だったり臨死体験や薬や乱交や非倫理的行為などです。

どれも、指導者がいないと危険な技術です。
比較的安全性が高いものは、神社仏閣などに行くことです。このブログでもパワスポとして推奨していますが、どうも神社仏閣はデータベースとして存在しているらしく、無意識に参拝者に叡智をダウンロードしてくれるようなのです。

寺だったら特に、仏像を拝むことで勝手に修行させてくれるようです。
神社は普通に子宮の風水設計がされていますので、参拝するだけで効果があります。
鳥居という門に入り、参道(産道)を経て、(子)宮で、二つの鈴玉がついた長い紐を揺らして、賽銭を出して箱に入れる。
パンパンと柏手を打ち付ける。等々。

要するに、本来、変性意識状態の中で到達する母なる胎内への回帰を、三次元で再現しているのです。
変性意識状態無しに、胎内回帰の秘儀を体験出来るように設計しているインフラと言えるでしょう。

データベースの情報としては神社にとって収納分野が違うようですので、目的別にわけると良いでしょう。

この一からの分離のテーマは、次回も続きます。


2017年6月26日月曜日

【陰隲録】功過格表108 世界は一つだけの花 三十善 冤罪を救おう⑩





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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。







罪と罰



前回の話をもっと敷衍してみましょう。

冤罪は無いという意味不明な論理でしたが、さらに言えば、そもそも罪と罰そのものが、世界には存在しない可能性があります。

元々、因果応報は、原因と結果の法則です。
何かしらの原因があって、結果が発動する。
そこには、科学の法則のように、人間的な人為は介入していません。
物理的な作用反作用の法則と同じです。

よく、祈祷が聞かない言い訳として、依頼者の功徳が足りないから神仏が動かないという言い訳をよく坊主や霊能者は言いますが、単なる言い訳でないとすると、神仏は依頼者の功徳に依拠する、居ても居なくてもどうでもいい存在なわけです。

まあ百歩譲って、功徳(陰徳)という原因から実際の救いの結果の中間の媒介者としての、存在価値はあるかも知れませんが、功徳(陰徳)が少ないものは救ってくれない無知無能な存在が神仏と言えます。

話を戻すと、罪と罰というのは、単なる現象に対する、人間のネガティブなレッテルであり、善因善果であろうと悪因悪果であろうと、突き詰めればただの原因と結果の法則があるに過ぎません。

※人間はただの因果律の網の結び目に過ぎないのではないか?諸法無我ではないか?という議論は以前に記事にしています。


要するに、人間相互の関係性の中で、ポジティブな物とネガティブなものを分けていますが、どっちも因果律という観点では同じものです。
違うノード(網の構成単位の点)同士の因果の関係性なだけです。

そこにあるのは、善でも悪でも、罪でも罰でもなく、ただ単に関係性の法則があるだけです。

マッチを擦れば火が起こるのと一緒です。
ただの自然界の科学的な法則に過ぎません。



オンリーワンにならなくていい


しかし、何事にも原因と結果の法則が適用されるのなら、そもそも、なぜこんな法則があるのかという、原因が存在するはずです。

因果応報というものがなぜ存在するのか?

正直、法則の誕生理由は不明です。
しかし、なぜ発生しているかはわかります。

自分の他に、他者がいるからです。

考えてみれば、当たり前の話で、善行にしろ悪行にしろ、自分が仕掛ける行為の対象がいなくては、因果応報は発動しません。

自分が殺される因縁は、相手を殺してこそ初めて起動するのです。

要するに、因果律とは、相手が居てこそ初めて成り立つゲームなのです。
囲碁でも、将棋でも、格闘技でも武術でも、恋愛でも何でもかんでも相手がいなければ始まりません。
相手がいてこそ、全てはそこから始まるのです。

相手がいるということこそ、因果応報の絶対条件です。

では、なぜ自分以外の相手がいるのか?

世界に自分一人だったら、別に因果応報もへったくれもありません。
世界にたったひとつだけの花ならぬ一人だけの人間だと、因果も働きようがありません。


自分の他に他者がいることこそ問題の根源ですが、なぜ自他の区別があるかと言うと、色々、説はありますが、今回、ご紹介するのは、宗教業界ではわりとポピュラーな説です。

一つから分裂した考えです。


過去

現代人は、単純な単細胞生物からより複雑な多細胞生物へという進化論を知っているので、この説は奇妙に聞こえます。

しかし、この汎神論的な考えは、古代ではほとんどメジャーとも言える説です。
東洋的な考えと言えますが、西洋でもこの手の考えは結構あります。


一つから分裂した考えと言うのは、大元に巨大な完全な存在があったという考え方です。
善も悪も強も弱も男も女も、全部収納している大きな完全体です。

まさしく、これが全知全能。
完全情報を持つ、絶対神です。
西洋の一神教の絶対神と違うところは、善も悪も全部内包しちているからです。


全宇宙そのものであり、貴方も私も全てこの一部です。

陰と陽というお互いに矛盾する概念を一つに収納した存在です。

易ではこれを太極と呼びます。
太極拳の太極です。
陰陽に二分する前の混沌の海です。

全てが詰まっており、吉凶禍福も時間も空間も全部畳み込まれています。

世界が未分化する前はこれだったと、古代人は考えていたのです。
神話にはこの象徴がよく出てきます。
まだ神や人間が出来る前の、ドロドロの混沌の海です。

この混沌の海は、万物を生み出した母で、胎内の子宮も象徴します。
一神教以外の多神教は、この混沌の海に還る胎内回帰願望があることが多いのです。

その意味で、古代の象徴体系は、過去に回帰する思考方式を持っていると言えます。

易でもタロットでも、混沌の海、はじめの「一つ」から分裂した思考法です。

一を分割すれば陰陽の二つになります。
陰陽の過去未来の間をとれば三つになります。
陰陽の循環の間をとれば四象や四大の春夏秋冬の4つになります。
同じように、五行でも八卦でも十二宮でも、いくらでも世界は分割出来ます。
二乗していって64卦くらいまで分ければ世界の現象は大抵当てはまります。

実際に世界がその数に分割されているのかは重要ではありません。
初めに世界が一つであり、それを特定の数で分割しようという思想の元に成り立っているのです。

易でもタロットでも古代の思考法はそういう考えです。
めんどくさければ、陰陽の二元論だけでも、世界は大抵、説明できます。
実際に、今目の前にある、PCでもスマフォでも中身は、オンオフのデジタルの陰陽二元論で成立しています。

そして、その分割された世界は、一つの世界に比べれば足りない不完全な物です。
そして、完全な一つの世界があるのですから、一つに戻るのが理想です。

もっと言えば、世界の不幸の原因は、完全なる一からの、分裂した状態がメインです。

そもそも、自分と他者がいることこそ、諸悪の根源です。
分裂しているからこそ、殴ったり殴られたりするのです。
で、因果応報の原理で、自分にも返ってくる。

実に馬鹿馬鹿しい話です。
世界平和の解決法は、人類の人口を一人以下にすることだというジョークは実は、相当な叡智を持っています。

他者がいるからこそ、人は憎しみ合い、奪い合い、殺し合い、騙し合うのです。

自他の区別が無ければ、人は苦しみません。

自分の体と他の区別が無ければ、病気も怪我も美醜も関係ありません。

自分の所有と世界の区別がなければ、富も貧困も格差も卑賤も関係ありません。

他人の足をいじってもワシは痛まない・・・!と兵藤会長のセリフも無効化します。

この条項のテーマの冤罪どころか、罪と罰すら不要になります。

全てが一つならば、自他の区別がないため、因果応報は起動しないし、諸行無常も諸法無我も一切皆苦もありません。
涅槃寂静も無いのです。

まあ、厳密に言えば、昔、一つだったのに分割した「前科」があるので、あまり信用出来ませんが、とりあえず理屈では問題なさそうです。

この根源の混沌の海への回帰は、昔からの宗教の理想の到達点の一つです。
古代の地母神信仰にからみますし、東西の神秘主義はこのパターンが多いのです。
※悪魔崇拝として叩かれることも多いのですが。

こういう汎神論的な境地は、一元論とも言われています。

このテーマは恐らくこれからもちょくちょく話題に出て来ると思いますので、要注意です。
空の思想とも微妙にからみます。




長くなったので続きは、次回にまわしましょう。









2017年6月25日日曜日

【陰隲録】功過格表107 情と義理を秤にかける 所詮この世は浮世の地獄 三十善 冤罪を救おう⑨





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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。







冤罪は無い


冤罪を何とかしようという話の途中で、空気を読まない発言でなんですが、実は、世の中には冤罪という物は存在しません。

少なくとも、無実の罪という概念はこの宇宙には存在しないのです。

共謀罪が出来たばかりで、治安維持法の再来だと、善良な市民が怯える昨今にリアルタイムでなんですが、実は、古今東西の人類の歴史で、冤罪というものは存在しないのです。

どんな独裁国家においても、地方自治の賄賂まみれの官憲においても、権謀術数渦巻く、後継者争いにおいても、一切の
罪と罰において、およそ冤罪と言うものは存在しません。

もちろん、痴漢冤罪だろうがなんだろうが、同様です。
世界に冤罪というものは存在しないのです。

そんな馬鹿な!と思われる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、因果応報の法則からすれば、それが真理なのです。

少なくとも、豊河が捕まった時以外は、世界に冤罪というものは存在しないのです。

全ての司法は公共であろうがマフィアの私刑(リンチ)であろうが、全ては正当な行為なのです。


理由


この意味不明な主張は、実は、適当に豊河が言っているのではありません。

因果応報の法則からの論理的応用です。
つまり、こんなアホなことを言っているのは、豊河ではなくてインド人です。(責任転嫁)

では、一体全体、どういうことでしょうか?

これは、別に難しい話でもなんでもなくて、単なる因果応報の話です。

原因があって結果が在る。
特に、過去に悪業を為したら自分に悪果が返ってくる。
反対に善業を為したら自分に前果が返ってくる。

この単純な法則です。

陰徳というのもこの考えに基づいたもので、こそこそと善事をすれば、運が良くなるという因果応報を逆手にとった手法です。

要するに自業自得ということです。
全ての責任は自分に有ります。

全ての現象に原因があるならば、当然、自分の吉凶禍福にも原因があります。
特に、冤罪などという物に至っては当然です。
過去の自分の悪業が原因なのです。

要するに、過去において、自分が犯罪をしたにも関わらず、上手く逃げ延びた。
または、他人を冤罪に陥れた。
そんなところでしょう。

因果応報の原則に従って、それが現世で自分に返ってきた。
ただ、それだけのことです。

因果応報の原則からすれば、冤罪などというものは存在しないのです。

別に冤罪に限ったことではありません。
人間は、自分が不幸にあった時は、
「何で自分だけこんな目に!」
と憤りますが、単純に自業自得です。

因果応報という冷徹な法則の前には、一切の不幸は、身も蓋も無いのです。
天に唾すれば自分に返ってくる。
ただ、それだけのことです。

原因と結果までの、タイムラグが長いので、一見関係無いように見えるだけのことなのです。


矛盾


さて、この無茶な理屈は、一見正しそうに見えますが、かなり無茶な理屈です。

そもそも、因果応報思想は、突き詰めるとインドのカースト制度になって凄まじい差別理論になるという話は何度かしています。

現在の吉凶禍福の原因が、過去にあるという論理が因果応報です。

しかし、それでは、どう考えも現状の吉凶禍福の原因に覚えがない場合や、何より、生まれによる格差が説明出来ません。

その結果、どうしても前世の概念を仮定せざるを得なくなってしまうのです。

さらに、現世で派手に悪行三昧をやっていた悪人が大往生した場合や、善人が報われずに死んだ場合の応報が説明出来ないため、来世を想定せざるを得なくなるのです。

結果、因果応報理論は、無限に続く、前世と来世の連鎖を想定せざるを得なくなってしまいます。
これが、輪廻転生です。

その転生には、業によって環境の吉凶禍福があるため、天国のような結構なところから、地獄のような悲惨な環境まで様々です。
もちろん、人間界の現世だけでもカルマに応じて、様々な環境が用意されています。

この理論は、このブログのように善業を促進させる効能があり、さらに、悪業を抑止する効能もあります。

しかし、言ってしまえば覚えのない前世や来世を勝手に想定されてしまうのです。
低い身分に生まれたり障害や冤罪を食らったからって、前世で悪行を為したと勝手に認定されてはエライ迷惑です。

さらに言えば、冤罪は無い、全ての司法の刑罰は正しいという結論のように、明らかに、現世の社会的矛盾、それも悪に対する容認や、権力者に対する反乱の芽を摘むという結果になりやすいのです。

インドのカースト制度内にいるインド人の思考が正にそれです。
彼らの思考方法は、不幸は自業自得なので助ける必要も身分制度も辞める必要はない。
こういう考えです。

それどころか、人助けは悪なのです。
勝手に本人の了承も得ずに助けたら、本人にとってカルマの解消をする機会を奪ってしまったのです。
もちろん、助けた人間は徳を積むでしょう。
しかし、それは、助けられた側の被害(カルマ解消の機会損失)の結果なのです。

人助けが悪。陰徳が悪という凄まじい論理矛盾を因果応報の原理は内包しています。


思考放棄


ハッキリ言って、この論理矛盾は、今のところ解決出来ていません。

何しろ、因果応報は、開運の白眉である陰徳の母体原理です。
いわば陰徳のスポンサーなのです。
無碍には出来ません。

因果応報が時折このような論理矛盾に陥るのを、見て見ぬ振りをする情けが豊河にも存在しています。
(単に思考放棄しているだけですが)

まあ、そのうち何とかなるでしょう(楽観的)。たぶん。
きっと、世界のどこかにいる高知能で、徳の高い人が何とか解決してくれます(他人事)。

2017年6月24日土曜日

【陰隲録】功過格表106 生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ 三十善 冤罪を救おう⑧






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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。







前回の続きです。
ヒャッハーしなきゃ生きていけない環境になったらどうするか?







こういう環境になった時の、対応ですが、身も蓋も無い言い方をすると、ハッキリ言って、事前の予防こそが一番大事です。

占術でも、「人は、腕を無くしてからどうすればよいかを聞きに来る。腕を無くす前だったら手の打ち用もあるのだが、無くしてからだとどうにもならない」
という言葉があります。


要するに、虫歯と同じで、なってしまったらもう遅いのです。

六道輪廻では修羅道は、地獄や畜生や餓鬼の三悪趣と一緒で、人間界よりも低い世界です。
※時代によっては人間界よりも高い世界扱いの時もあります。

理由は、こういう世界に入ってしまうと、他の三悪趣と同じで、善行とかのん気なことをやってる暇が無いので、下の世界から抜け出しにくいからです。

憎しみの連鎖とか、殺し合いの螺旋とか、よく語られますが、修羅道だとそれが因果律の連鎖になって、抜け出しにくいという理由があります。

これは、現世の修羅道でも同じです。
初めからこういう世界に入らなければ良い(そういう因果を作らない)というのがあります。

これが一番の対策です。
つまり、陰徳道に邁進していれば良いというわけです。
虫歯予防の歯磨きが、陰徳です。



蠱毒の壺


ところが、いくら転ばぬ先の杖と言っても、人間は後悔先に立たずで、そういう環境状況に置かれる可能性は、我々は当然あるわけです。


しかも、日本に住んでいれば、いつ大震災やら原発やら近隣諸国の攻撃やら、リスクがMAXなわけです。
我々が生きている時代に、ヒャッハーの時代にならない理由はありません。

我々の累計の業のステータスはオープンされていないので、場合によっては、我々が生きている間に、ヒャハーの時代環境に放置される危険性があります。

あのダース・ベイダーだって初めは善玉だったのです。
運命の流転が彼を、悪玉に追いやってしまったのです。

人を殺さなければこちらが死ぬ。

こういう状況になる可能性は決してゼロではありません。
自分と大事な人のために、殺さなければならない状況というのは、確実にあります。

むしろ、人類そのものや生命そのものがその環境です。
人類は長い間、ずーっと狩猟時代でした。
農耕が始まったのは数万年程度で、後はずーっと狩猟生活を百万年単位です。

要するに人類以外の生物(と他部族の人間も)を殺して食ってきたわけで、今でも家畜として殺しまくっています。

俺は悪行なんかしていないと言う人でも生きているだけで、万物の霊長たる人類の一員として、今日も、すき焼きの肉を食べているわけです。

生命の存在時代が、殺し殺されの修羅道です。
この地球という星は、宇宙船地球号であると同時に、蠱毒の壺なのです。
毒虫を殺し合いさせて、残った強力な毒虫が人間なのです。


まあ、他生物はともかく、いつ我々が隣人を殺せの時代になるかわかったものではありません。

明日にでも、中国人窃盗団に、家族が皆殺しにされるかも知れません。
敵討ちに傭兵部隊に入って数年後、殺戮マシーンになった皆さんの修羅道人生ルートが、絶対に無いとは言い切れないのです。


対応策

まあ、問題点ばっかり指摘するダメな野党思考では、前に進まないので、なってしまった場合の対応策を考えてみましょう。

①即死ぬ。(自然死版)

例えば、大震災でもミサイルでもそうですが、クラッシュ時に死ぬと、別に、その後の、ヒャッハー時代で罪を積まなくても済むわけです。

バブルの時代でも年金でも、売り逃げする連中や世代は存在します。
クラッシュ時にさくっと苦痛なく死ねれば(苦痛時に死ぬと成仏出来ない可能性が)、後腐れないわけです。

しかし、このタイミングの良い死に方は、やっぱり事前の陰徳具合なのです。
この機能が上手く起動しなかった場合を考えてみましょう。



②即死ぬ。(自死版)


ヒャッハー時代に悪行しない自信が無い!

というマイナス思考の自信のない方には、この対策案です。
せっかく、平時に陰徳を積んで、悪行を慎んでいたのに、戦国時代に突入してしまったという運の悪い方には、このプランです。

この方法なら、ヒャッハー時代の全ての問題を解決出来ます。

ただし、このプランの欠点は、自殺のカルマというのがどのくらいあるかがネックになります。

自殺を推奨する宗教は基本的にあまり無いのですが、自殺は重悪だの、成仏出来ないだのと、様々な宗教が脅してくれます。

ただ、自殺するほうが明らかに良い場合というのは確実にあります。

例えば、ヒャッハー時代に迂闊に出世してしまい、上役から、
「君ぃ?今度新しく出来た、強制収容所の所長をやってくれたまえよ。処分ノルマは一日一万人な!」
とか、言われた場合に、逃げられない場合は、自殺することで、カルマを積まなくて済むわけです。

ただし、やっぱり自殺のカルマがどのくらいなのか、わからないので、次の手の方がよいかも知れません。



③仮病


古典によくある手です。
乱世で、権力側にスカウトされても、病気だとか、無能を装うとか、狂人を装うとかの手です。

孔子も論語で、
「天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る」
泰伯第8-13
と、言っているくらいです。

乱世の時代のお偉いさんは、罰ゲームみたいなもので、ろくでもない役目がよく回ってきます。
それを回避するには、権力からエスケープするのが良い方法の時もあります。


この方法のリスクは、乱世だと権力を握らないと、食料とか安全が確保出来ないことです。
とかく、乱世は超格差社会になりやすいので、権力を持ってないとまともな生活が出来ないことが多いのです。
そのため、権力を持っていない底辺は、罪を犯しやすいのです。

まあ、権力サイドに居ても、後方支援にくらいだと食いっぱぐれが無いかもしれません。

また、能力があるのに、人を救わないのはそれはそれで罪なわけです。
乱世を統一した、戦国大名の三傑のカルマがどうなっているか、よくわからないのですが、ここらへんは不明です。

頼朝だったり信長だったり曹操だったりと、強引な力で乱世と統一した存在は、後世の悪評も高く、宗教業界だと大抵、地獄に行っている設定なのですが、こいつらがいなかったら、乱世はもっと長引いていたという評価も多いのです。



④我慢して生きていく


もしかしたら、乱世の時代で、殺さなくても何とかこうにか生きていけるかも知れません。
非暴力を貫き、奴隷として行きていったり、毎回、逃げて行けば、何とかなるかも知れません。

③と被りますが、運と知恵があれば、乱世でも罪を侵さず、行きていける可能性はあります。

どうしても、ダメだったら②の手がありますので一応、希望を捨てずに、生きてみることが大事かも知れません。

ぶっちゃけインフラ崩壊後の生活はかなりきついと思いますが、何事も住めば都です。
現代生活では感じられなかった、生きる喜びがサバイバル生活で復活するかも知れません。




⑤英雄として生きていく


そもそも、自殺するとか慎ましく生きていくだとか、よくよく考えてみると、何とせせこましいことでしょうか?
小さい、実に小さい器です。

男なら志を大きく持たなければいけません。

何度か菜根譚の天の賊の項で、紹介したように、天が大衆の中から、賢者や富豪を作る理由は、ひとえに大衆を守るためです。

天、一人を賢にして、以て衆人の愚を誨んとす。
而るに世は反りて長ずる所を逞しくして、以て人の短を形わす。
天、一人を富ましめて、以て衆人の因を済わん。
而して世は反りて有する所を挟みて、以て人の貧を凌る。

真に天の戮民なるかな。 

権力も同様です。
大衆を守るには平時よりも乱世です。
例え、自分が必要悪で悪業ポイントを貯めても、大衆を守る道を選ぶことです。

それで、地獄に堕ちてしまったならば、閻魔の前で、堂々と自己弁護を、言い返すべきです。
大抵、戦国大名は信仰心を持っている例があるので、生前守護していた神仏が弁護人になってくれるはず(たぶん)です。

豊河は、こういう比較衡量説はあまり信用していないので、懐疑的なのですが、もし皆さんが乱世の覇王となる才の自覚がありましたら、このルートを選んでみてもいいかも知れません。

もしかして自分はナポレオンの生まれ変わりなのではないか?
俺の前世は武田信玄だ!
とか言う 誇大妄想 自分に自身がある人は結構いますし。




⑥聖者として生きる



先程の英雄の生まれ変わりの 誇大妄想 自覚は、宗教業界でもよくあります。

イスラエルの入国者は毎年、一定の確率で、何らかの天啓を受けて自分がメシアだと自覚する 電波 自信のある人が出ています。

日本でも、釈迦の生まれ変わりだとか言う人が大教団を構えていますし、ある意味、雨後の筍のように存在する世界の宗教の教祖は、みんな神仏の秘蔵っ子を自称しています。

逆に言えば、このくらい 誇大妄想 自分に自信のある人でないと、宗教の教祖様にはなれないのです。
ある意味、恥を知らない存在なのですが、善悪の彼岸を隔たること三千マイリの境地にこないと、教祖様にはなれないのです。

あの慎み深いイエス(世間のイメージ)ですら、演説中にノリにのってくると、
「俺は絶対神ヤハウェだ!」
と本音が出て、一神教バリバリのユダヤ人から投石で殺されそうになって逃げてたりしますし、釈迦などは、生まれた時から、「天上天下唯我独尊」と口走る、傲慢野郎です。

まあ、宗教人の誇大妄想はどうでもいいのです。
※あんまり良くないのですが。

しかし、平和な時代には宗教など、それこそ、どうでもいいのです。
むしろ、乱世の時代にこそ宗教は必要なのです。

今のような平和な時代には、本来、宗教などいりません。
無神論を気取っているか、開運のために陰徳を積もうなどという、利己主義的な思考が幅を効かせるのです。

混沌とした乱世こそ、思考行動基軸を提供する宗教は存在の価値があるのです。

黄巾の乱とか一向一揆とか、乱世の時代の宗教をご覧なさい。・・・普通に、武力豪族に壊滅させられているような気もしますが。

イエスは、ローマ帝国支配下のユダヤ人に教えを説いたし、釈迦などは自分の国が滅ぼされています。

宗教の定義が人を救うためにあるのなら、乱世の時代にこそ、貴方の天命があるのです。

まあ、高確率で、迫害されて死んだりするのですが、布教は死ぬことがお仕事みたいなものですので、それはそれで天命のような気がします。



⑦隠者として生きる 

宗教方面として生きたいけど、布教みたいなアグレッシブな方はノーサンキューという方には、こちらがお薦めです。


そもそも、因果応報で、吉凶禍福の楽とか苦とか、外界の状況に右往左往するのは、小人の行動です。
大人は、どんな状況でも自分のプラスに変えるのです。

もっと言えば、全ての事象に善悪も吉凶もありません。
全ては自分次第なのです。

なんか、現代文明クラッシュで、今まで築き上げて来た物が全部パーになった!
となったら、むしろ、今まで自分を縛ってきた物が無くなってラッキー!
くらいに思わなくてはいけません。

人間は刺激を絶えず追わなくては生きては行けない度し難い生物です。
やれ美味しい物だとか、家族だとか仕事だとか、天命だとか、何だかんだ言っても、結局、やってることは死ぬまでの暇つぶしです。

諸行無常の法則に人間はどうしても勝てません。
そもそも、マクロで宇宙の星々や地球がぎゅいぎゅい動いているし、ミクロでも、自分の体の原始や分子がこれまたガンガン動いています。
一時たりとも、止まること無く動いているのです。
※そもそも、呼吸や血液循環が・・・。

サメと同じで、止まると死ぬ生物なのです。
で、それを誤魔化すために、色んな外界の行動で理屈付けをしているだけなのです。

社会のクラッシュは、この凡人の思考行動様式を一新するチャンスなのです。
思い立ったが吉日なのです。
そうだ、出家しよう!とJRのCMのように動くチャンスなのです。

人生は空しいものだと古人はよく闘争の果てに貴族も武士も出家しましたが、社会クラッシュは、またとない人生のリフレッシュのチャンスです。
どうせ、ヒャッハーの時代なのですから、野盗側にまわるか、種籾を奪われるカモの側にまわるか、世紀末救世主になるかくらいしか選択肢はありません。

ヒャッハーの時代に、神社仏閣が機能しているか定かではありませんが、山に隠遁して大人しく出家しておきましょう。

ただ、ヒャッハーの時代ですので、山に入っても、山賊が来たりするので、僧兵がいるところの方がいいかも知れません。
しかし、僧兵がいても、信長とかが来て、焼き討ちしたりするので、厳密に言えば、安楽の地ではないのですが・・・。

まあ、焼き討ちされても、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
と名言を残せる可能性もあるので、何事も、ピンチはチャンスだと考えて、たくましくヒャッハーの時代を生き抜きましょう。