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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く
三十善に相当する
◯一人の非為人を勧化し行いを改めしむ。
縛りプレイ
愛と憎しみの悲しみの連鎖は、続くよどこまでも。
前回まで、因縁の連鎖は、原因と結果がまた新しい原因と結果となって、
ひたすら連鎖することを説明しました。
さて、その過去から未来に伸びている因果の連鎖は、当然、一本だけではありません。
我々は、日常でも非日常でも、生きている限り、様々な因果を生成しているので、
当然、原因と結果を量産しているわけです。
そのため、因果の鎖は一本だけでなく、何本も、何十本も何億本も、莫大な数の連鎖の因果が、我々を同時並行で縛りつけています。
要するに、みなさんは、耽美系の堕天使みたいな感じなのです。
罪と罰の鎖に拘束されている堕天使ルシファーなのです。
ビジュアル系なのです。
人間は生まれた時から、鎖拘束プレイを強いられるM奴隷なのです。
因果律というモンスターの触手プレイにとらわれるお色気担当ヒロインなのです。
人生はリアル人生ゲームの縛りプレイなのです。
因縁ネットワーク
で、この因縁の鎖、もちろん自分だけの物ではありません。
生きていけば、他人と接触せざるを得ません。
親兄弟、嫁夫や子供、敵に味方に、人間関係の関係性は様々です。
袖振り合うも多生の縁とはこのことです。
他人と因縁をつけまくって生きているのです。
さらに、我々は、人間だけでなく、あらゆる動植物や生物、無生物に至るまで、ガンガン因縁をつけています。
目が合えば因縁をつけてくるチンピラ並みに、因縁をつけています。
この地球上では、目に見えない因縁の鎖が、個人間を、亀甲縛りの如く、網目を張っています。
人類が近年インターネットを構築する前から、すでに因縁ネットワークを世界中に網羅しているのです。
この因縁ネットワークの一つに、この開運ネットワークブログが、インターネットの闇の中の光として、存在しています。
因縁が無ければ辿り着けない場所なのです。
この因縁の網目は先ほども言ったように、全人類が囚われています。
巨大な蜘蛛の巣から逃れている人間は、誰一人として存在していません。
神だろうが、悪魔だろうが逃れられないのです。
【陰隲録】功過格表74 人類総スパイダーマン化 三十善 出家神職帰依させよう⑫
マルコによる福音書で、イエスが、人間を魚に喩えていますが、
そもそも、因縁の網にかかっていない人間など1人もいないのです。
1:16
さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
1:17
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
1:18
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
脱出
華厳経では、この因縁網ネットワークを、各結び目ノードの宝石が光の乱反射をする美しい光景を重々無尽として、表現しています。
しかし、このネットワークは、所詮、因縁という、生命・存在を現世に縛る拘束の鎖です。
あまり良いものではありません。
さらに、この網は、社会上の因縁ネットワークだけではありません。
実は、社会因縁ネットワークは、表面上に過ぎないのです。
本当の我々を縛る因縁の網の縛りは、実は、肉体こそが本命です。
よくよく考えてみれば、わかりますが、肉体が無ければ、
社会上のネットワークに縛られる必要は皆無です。
なぜ、我々は朝から晩まで働く必要があるのか?
→金を得て、衣食住を賄わなければいけないからです。
では、なぜ衣食住を賄う必要があるのか?
→肉体が死んでしまうからです。
だったら、金を得るためだけならば、働かなくても他人を殺して奪えばいいのですが、なぜやらないのか?
→国家権力に捕まって最悪殺されてしまうからです。
なぜ捕まったり殺されることを忌避する必要があるのか?
→肉体が不自由で苦痛だし、殺されることはもっと苦痛であるからです。
要するに、全ては体があることが原因なのです。
生老病死も四苦八苦も、結局、体こそが、諸悪の根源です。
男女の性別は体があることから生じます。
人種も民族も、体が元で区別差別されています。
美醜や能力なども全て体です。
知能や思考感情を生む脳も肉体の一部です。
全ては体があることから、限定され拘束されているのです。
例えば、性別が逆だと言うだけでも相当人生に違いがあります。
※先天八字(四柱推命)でも男女が逆だと陰陽逆になって計算が逆になります。
要するに命運が全く違う人生になるということです。
良く、幽霊が肉体が欲しくて憑依したがるという話がありますが、
幽霊だって希薄なだけで、体があります。
およそ、自我が他と区分される境界がある存在を体があると言っても良いでしょう。
高次の存在ほど、存在の境界は希薄になります。
六道の天道でも、天人の肉体があるのは下位の天界です。
上の方の天界になると、もう体の境界はありません。
高い知性と、愛や慈悲や感謝のエネルギーだけの存在になるのです。
もちろん、仏教ではこの六道の天界をも超えるので、解脱はもはや存在すらなくなる概念です。
道教(仙道)でも目指すべきは仙人ですが、体があるうちはまだ未熟者です。
基本は、不老不死のボディを作る事を目指しますが、
本当の不老不死は、もはや個別の体ではなく、大自然や宇宙と一体化する段階です。
還虚と言って、道(タオ)に一体化する境地です。
陰陽の有無を超えた太極・無極の段階です。
仏教の解脱とどう違うのか微妙なところですが、
共通しているのは、もはや個別の自我ではなく、
因縁のネットワークに囚われない存在となるのというは共通しています。
因縁のネットワークは結局、存在への執着、体への執着が元の原動力です。
貪・瞋・癡の三毒と言いますが、貪欲、怒り、無明の、
要するに、対象への好き嫌いの執着が、因縁を生成し、存在を成立させる元凶です。
我々は、究極的に、この対象への執着によって、因縁ネットワークに拘束されています。
自業自得ならぬ自縄自縛なのです。
自分で生んだ執着で自分を縛っているのです。
因縁の話は次回に続きます。
次あたりで、この因縁の話は一区切りつけたいところです。
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