このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
記事下のコメント欄や、メッセージやメールで、お気軽にどうぞ。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く
三十善に相当する
◯一人の非為人を勧化し行いを改めしむ。
進撃の無法者
前回のような人類の理想のゴール(文明の終わり)に対して、
支配された家畜は嫌だという、空気を読まない、わがままな無法者は当然、存在します。
こういう人たちはいつの時代も一定の割合で存在し、
せっかく、戦乱の時代が終わって、泰平の時代になっても、
「去勢された平和ボケの豚どもが・・・!」
と、苛立つ、迷惑千万な輩たちです。
こういう輩のことを、無法者と呼びます。
このような反動分子の軍国主義者(左翼用語)は、いつの時代でも、存在します。
で、実際に戦国時代になると、彼らは大喜びしますが、大衆としては迷惑以外の何者でもありません。
とはいえ、煽っていた軍国主義者も、敗戦になると、やらなきゃよかったと反省します。
戦争万歳だった人が、手のひら返しで、平和主義者になった例は、先の大戦で日本全国で見られたことです。
ところが、戦争でひどい目にあった世代が死ぬと、また同じことが繰り返されます。
人類の歴史は基本、そんな感じのリピートなのです。
いつの時代も、無法者は、
平和主義者を、嗤う豚と呼び、
平和な泰平を、家畜の安寧!、虚偽の繁栄!と罵り、
死せる餓狼の自由を取り戻せと絶叫します。
とは言え、戦争の評価は、勝ったか負けたかで大きく左右されます。
勝てば官軍という言葉は、千古不易の金言です。
敵国の獲物を屠る狩人も、ぼろ負けすると、それ見たことかと、
平和主義者に逆に反撃の嚆矢を受ける羽目になります。
迸る衝動に、その身を灼きながら開戦しても、戦は水物ですので、勝敗は常にたゆたっています。
勝つときもあれば、当然、負けるときもあるのです。
日清日露で勝利してきた日本も大東亜戦争でボロ負けしました。
黄昏に緋を穿つ紅蓮の弓矢が、敵ではなく自分に刺さる可能性は、高確率で存在するのです。
豚
さて、そんな家畜という用語ですが、
普通は、定義として、食用や労役で人間に飼われている動物のことです。
野にいる野生生物は家畜とは言いません。
転じて、自分の意思が無い奴隷的盲目的な人間のことを揶揄した表現です。
他人の意思の隷下にある人間をそう表現するのです。
「社畜」とか「組織の犬」とか「資本主義の豚」とかの言い回しも良く使われます。
こうした比喩表現とは別に、実は、
我々、人間は、知らない内に、様々な条件に依拠しています。
もっと言えば、この地球上の誰しもが、何らかの条件の奴隷として隷下しているのです。
家系に国家に民族に、性別に職業に人類に地球に、
一人ひとりが、複雑に多重する属性に縛られています。
これは、いつの時代も、どこの国であっても同じです。
要するに、人間は全員、生まれついての、家畜奴隷なのです。
これがあまり自覚されないのは、
本人にとって、奴隷かそうでないかは、快か不快かで、評価が分かれるからです。
奴隷のように、あからさまに自由意志を阻害する条件は、否定的な評価をするのが容易です。
自分で奴隷だと認識することが出来ます。
しかし、才能や金のように、本人に利得を与える条件は、否定的な評価はありません。
一般に、何らかの、不幸な環境に縛られている時だけ、家畜、奴隷として否定的に評価されるのです。
後者の上等な縛りプレイだと、「ギフテッド」だの、「義務」だの「ノブレス・オブリージュ」だの言い換えられます。
しかし、縛られているのは、一緒なのです。
まあ、さすがに王族レベルまで行けば、大衆の生贄だの奴隷だの言われます。
完全に個人の意思というよりも国のために神格化されてしまうからです。
天皇陛下の激務の仕事スケジュールなども、この話の流れでよく指摘されてます。
特化
この条件による縛りは、「特化」という目的からの見方がされることがあります。
世界は色々な職業があるために、家単位で分業することで、
効率の良い社会システムを運用維持できるからです。
狩猟時代は、およそ仕事による身分制度はありませんでした。
狩をするものや、道具を作成するもの、酒を造るものなどの得意分野で分業したり、
あるいは1人で全種類の仕事をやっていました。
各仕事はそれほど高度な仕事でなく、1人でまかなえるからです。
それが、農業などの発明で、資本の大量生産が可能な時代になり、資本の蓄積が可能になると、上下の身分の区別が出来てきます。
いわゆる身分制度です。
こうなると、本物の奴隷が社会制度として出てきます。
自他共に認める、家畜の登場です。
奴隷もそうですが、様々な職業の分化は、それぞれが縛りであると共に、特化した存在です。
料理人は、スポーツ選手よりもスポーツは出来ないし、営業マンよりも営業は出来ません。
しかし、料理に関しては、他の職業人よりも特化しているのです。
これは、縛りがあるからこそ、特化してその職業の内容にリソースを費やして、より高度に進化させることが出来るようになったのです。
さらに、代々、それを続けることで、スキルも特化に磨きがかかりました。
マンモスの肉を焼いて食べるだけの食文化から、今の汗牛充棟の料理法が出てきたのは、職業が分化して、料理に特化したプロの料理人がいたからです。
ボクシングは拳の攻撃しか出来ない特化した格闘技ですが、
その結果、パンチの攻防技術は群を抜いて特化しました。
これは、社会全体を一つの生物と見ると、理解できます。
人体は、各器官によって、構成されています。
目は視覚の機能を持ち、肝臓は化学工場の機能を持ちます。
それぞれの機能に特化しているのです。
人間も、社会という大きな生物の一部として機能しています。
それは、特化であり、縛りです。
社会に存在する以上、何らかの機能を与えられ、そして家畜奴隷になっているのです。
家畜の話は、次回に続きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿