2017年6月13日火曜日

【陰隲録】功過格表95 孤児院を出てもヤクザか娼婦になるしか無い現実。しかも地上げヤクザになるというループ構造。三十善 無法者を教化しよう⑰





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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の非為人を勧化し行いを改めしむ。








無法者の生存意義の種類の二つ目です。
一寸のゴミ虫の如き無法者にも、五分の魂があります。

虫は大でも小でも殺す、それが俺のジャスティス



二つ目は、比較衡量の問題です。

比較衡量などという意味不明な用語が出てきましたが、法律用語です。
ぶっちゃけ言えば、「大の虫を生かすために小の虫を殺す」という意味です。
権利がぶつかった時に、重要な方を選択します。

わかりやすい例を出せば、

孤児院がありました。
若い(美人の)シスターが、運営に四苦八苦しながら身寄りの無い子供たちを育てていました。
そこに現れる地上げのヤクザ。

「借金を返せないなら出ていかんかい!それとも、アンタが体で稼いだ方が金になるんじゃけんのう?ぐへへへへ」

もう、飽きるほど物語で見たテンプレ光景です。
次のコマで主人公が現れるシーンです。
※ちなみに、地上げヤクザをボコる前に、高確率で、孤児院が炎上したりシスターが殺されたりしますが。

これは、一見、当然、誰がどうみても、孤児院(善玉)VS地上げヤクザ(悪玉)です。



しかし、ここに、この比較衡量の問題、人間存在の矛盾が出てきます。


孤児院とかシスターとか女子供が出てくるので、
弱者は正義という、人類普遍のプロパガンダに騙されがちです。

しかし、これが不法移民のバラックだったら、グッと批判度は下がります。

さらに、地上げ後に、地域に雇用や景気上昇をもたらすインフラ建築の予定だったら尚更です。
地域レベルよりも、さらに上位の国益レベルだったら、もう問題外です。

孤児院を一つ壊滅させても、遥かに公共の利益になり数千万人に恩恵が出るような物だったら、一概に悪とは言えません。
それどころか、下手をすれば善になります。

さらに軍事関係だったら尚更です。
孤児院を潰すことで、恩恵どころか、国民の命が助かる場合。
孤児院を残すことで、国民の命が無くなる場合だったら、最悪、孤児院側が悪になってしまうのです。




人権なんてららーらーららららーらー


この比較衡量の問題は、当然、家や企業や国家などの組織にとっては、都合の良い理論です。

数が多い方が有利なのですから、組織と個人の権利が衝突した時に、組織側が百パーセント勝利します。

しかし、これは突き詰めれば、個人の権利や人権は無くなってしまうことになります。
人体実験だろうが虐殺だろうが、何でもありになってしまうからです。

ここらへんは、国家を抑制する近代憲法でも問題になっており、未だに解決策は出ていません。

※日本国憲法だと第十三条の公共の福祉などが有名です。

第十三条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


基本、この矛盾は、戦争時に噴出します。

平時ならともかく、戦時には、そんなのん気なことを言ってれば負けてしまうからです。
そのため、どうしても全体の論理と競合してしまうのです。

先の大戦で、正義の側である連合軍側ですら、ろくでもない人体実験は普通にやっています。
大抵、戦争時には勢いとノリで各国はやっていますが、戦争終了後に問題になるのですが。

しかし、今後も、この矛盾は無くなることはないでしょう。

人間が存在する限り、絶対に無くならない問題です。



荒海に漂う小舟の如く



で、そんな、比較衡量の社会矛盾ですが、困ったことに、我々個人にも関係があるのです。

陰徳は個人でやってると、当然開運してしまいます。
生きている間もそうですし、次の転生先の栄誉や、子孫には、偉い人間が出現します。

地位や財産や権力です。
ところが、当然、力には社会的責任が付随します。

力に溺れて暴走などは論外ですが、それ以上に避けがたいのは、必要悪の比較衡量です。

上に立つものは背負って立つ責任があります。

家族や仲間や部下や領民を助けるために、戦わなくてはいけません。
守るために戦うと言えば、聞こえはいいですが、要するに暴力です。
実際に、殺人を犯すこともあります。

戦争ならば、何十万人も殺す命令を下す必要すらあります。
下手をすれば、核兵器のミサイルのスイッチを押す状況になるかも知れません。

外道な敵だったら、精神的負担は少ないでしょうし、むしろせいせいするかも知れません。
しかし、無実の人間や民間人を殺すことも十分ありえます。
組織を守るためにスケープゴートをする必要もあります。

人間の理性は、集合無意識の海に飲み込まれると、自我は消滅します。
組織の論理に組み込まれると、責任主体が消滅してしまうのです。
より大きな組織の自我に内包されてしまうのです。

普段、大人しく善人な人間ほどそうなります。
大抵において、善人と言うのは意思が弱い人間だからです。
集団の論理に、個人の意思が弱い人間は太刀打ちできません。

これは、宗教という、究極の集合無意識である神仏に対面するイベントでも同様です。
宗教の基本は自我を捨てよですが、本当は自我は絶対捨ててはいけないのです。
神の前で自分の自我を保てない人間はただの操り人形(マリオネット)になるしかありません。



で、また長くなったので次回に続きます。

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