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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
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今日も、脳筋宗教論です。
顕教と密教
言葉じゃいえない論理です
神仏を愛しているからNO!NO!NO!
このブログは、陰徳により開運しようというロジックを使っているので、基本、理屈で書いています。
しかし、戒(戒律)・定(瞑想)・慧(智慧)と言う、宗教的な段階だと、一番初歩の戒のレベルです。
※智慧は、定(瞑想)で悟るレベルなので、理屈とは別です。
どちらかといえば、このブログは密教ではなく、顕教に当たります。
本格的な修行を始める前の、当然の教養と言っていいレベルの話です。
一流の宗教人になるには、政治的な能力やカリスマも必要ですが、修行と学業の、行学を同時に納めなければなりません。
密教の前には顕教がいるのです。
まあ、小難しい理屈は本来不必要でも、瞑想の前に必要なものとしては、戒律などの倫理的抑制はどうしても必要です。
どうしても、潜在意識の奥に入るには、道徳的な防具が必要だからです。
無意識の欲望が、瞑想でダダ漏れになると、最悪、サリンを撒く羽目になります。
また、仏教ならば、三法印や空の思想などで、欲望を相対化させる論理が必要です。
キリスト教ならば、神への信仰心でしょう。
顕教や戒律という縛りはどうしても必要なのです。
これをやらずに、いきなり瞑想に行ってしまうと、自殺行為です。
このブログは、開運という目的なので、宗教的な顕教の知識と、陰徳(戒律や布施)やパワスポ(神仏との縁結び)を勧めています。
これは、宗教では、初歩の段階であり、同時に絶対に必要なものです。
まあ、宗教の奥深いレベルに行かなくても、開運して死後はハッピーな場所に行ければ、それだけでも大成功です。
開運でハッピーな段階でも、普通はそれで大成功でしょう。
脳筋業界
これが、脳筋の話と何の関係があるのか?
実は、顕教とは違って、定(瞑想、密教)は脳筋の世界だからです。
そこには、理屈はあまりありません。
顕教だと、まだ教義の論争などが行われていますが、その先の世界になると、もう論争とかはなくなります。
言葉で言えない世界ですし、個人レベルの体験談になりますので、科学的な客観性や再現性がないからです。
もっと言えば、論争どころか、言葉の世界ですらありません。
言葉と言うのは、人間が使うツールです。
要するに有限の存在の道具なのです。
要するに、人間が想定する宗教存在は、全知全能やら解脱やらと言った超越的存在です。
人間の言語では語られない存在が対象なのですから、本来の原義だと、言葉で語ることが出来ないというのが、実際正しいのかもしれません。
考えるな!感じるんだ・・・
とか、いうブルース・リーの言葉は、脳筋の有名な言葉ですが、宗教も実は、こうした世界なのです。
宗教の世界は、基本、体育会系です。
まあ、大抵の職業は体育会系なので、別に宗教に限ったわけではありませんが、議論を許さない分野というのでは、これは必然的なわけです。
師匠に絶対服従というのは、一見、非合理的ですが、瞑想段階まで行くと、これは必要なことなのです。
個人の無意識に潜っていく瞑想は、ナビ役の師匠の存在が不可欠です。
禅宗でも、こうした無意識の領域に潜ることを目的としています。
警策でバシバシ叩かれるイメージはここらへんに理由があります。
まあ、禅宗は、瞑想で出てきた物を全部魔境として、切って捨ててますので、まだ危険性は少ないのですが、それでも、たまに発狂者が出てきます。
瞑想はそれだけ危険なのです。
禅宗よりもイメージや無意識の欲望や解放などを積極的に使う密教などは、もっと危険です。
インド系の宗教は、基本、グル(師匠)がいないと出来ないようになっていますが、その中でもタントラ系は特にマズイのです。
チベット密教がこの系譜ですが、チベット密教がラマ(師匠)教というのは、このためです。
禅宗よりも遥かにヤバイ手法を使うので、危険性が段違いなのです。
チベット密教などの後期タントラ密教を入れたオウムが、サリンを撒いたのも、実はここに関係があります。
世界中でカルトが、集団自殺などを行ったりするのは、ここらへんが原因です。
行ってしまえば、瞑想は薬物と同じです。
脳内麻薬物質を外部から取り入れるか、内部で発生させるかの違いがありますが、実質同じものです。
キチガイのジャンキーと、聖者は同じものなのです。
困ったことに、後者は信者がつきやすく、権力を把握しやすいのです。
まあ、そうは言っても、所詮は、宗教なので、軍事力を伴う権力よりはマシです。
大抵は、国家権力に壊滅させられます。
しかし、たまたま、政治業界で、聖者が出現すると災厄の規模が広がります。
全盛期のドイツでも、電波なキチガイが国を掌握して、凄まじい被害を引き起こしました。
その意味で政教分離というのは、人類が作ったリスク回避なのです。
人類が本能的に、宗教と政治をからめるとヤバイということを本能的に悟った結果だと言えます。
脳筋言語
では、その脳内の脳筋ワールドとはどういう世界なのでしょうか?
答えは簡単です。
言葉が通用しない世界です。
脳筋とは言葉が通じない輩のことですが、まさに、瞑想による世界は、脳筋ワールドなのです。
冷暖自知という言葉の通り、体験は言葉ではそのまま百%の情報を記述できません。
五感と言語は、イコールでは無いのです。
さらに、五感以上の体験や概念はさらに、言語化が難しいのです。
例えば、一神教の全知全能の神は、我々の言語では、論理矛盾をきたす存在です。
「では神よ。貴方が飛び越えられない高さの壁を作ってください」
という、試み(神を試してはならない)には、絶対神は論理的に回答できません。
どうしても、論理矛盾をきたしてしまうからです。
仏教でも同じです。
解脱の境地は、現実世界のこの世界を完全に、離れた世界です。
つまり、この世界の言語体系や概念は存在しません。
それを、瞑想で体験しても、それをこの世の言語で、記述出来ないのです。
大乗仏教の眼目である「空」の概念も同じです。
般若心経でお馴染みの空の概念ですが、現代人の論理構造から見ると、さっぱり理解出来ません。
論理的になっていないのです。
これは、単にお経を書いたやつが馬鹿というわけではなくて、はじめから「そういうもの」なのです。
要するに、瞑想下で、言語を絶した体験を無理やり、言語記述するとこういう矛盾した書き方になるというだけのことです。
禅が「馬鹿になれ」「大愚になれ」と言うのは、これです。
初めから、現世の論理や言葉が、通用しない世界なのです。
ここが、宗教が脳筋であることの理由です。
ちなみに、脳筋の武士と禅宗がくっついたのは、偶然ではありません。
旧日本軍の様式は禅宗からシステムが移譲されてきますが、あの旧日本軍や武士道の非合理なシステムは、禅宗から来ていたりします。
こうした裏の歴史では、宗教が意外な影響力を及ぼしていますが、宗教は思想や哲学の元なので、意外どころではなく、世の中の大半の問題にからんでいます。
まあ、ここらへんは、また別途やりましょう。
では、具体的に、瞑想下では、どのように脳筋なのか、次回に詳しく見てみましょう。
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