2017年7月18日火曜日

陰徳と結果の矛盾②










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僕は悪くない






陰徳で、特に寄付先において、善意などの過程を重視するのか、結果を重視するのかの話の続きです。

まあ、前回の通り、豊河の考えは、現代人と同じく、ざっと結果重視な考えです。

しかし、この広い世界では、一応、違う考え方もあります。

動機が良ければOK(逆に動機が悪ければ、陰徳の効果なし)という考えも存在するのです。


もしかしたら、豊河の考えがおかしいだけで、こっちの方が正しいのかも知れませんので、紹介しておきます。



「寄付先が、どう寄付金を使うのかは、向こうの責任であってこちらには非はない」


こんな感じです。

そもそも、例え寄付先がダメダメでも、こちらはそんなことは、認識していません。

こちらは、百パーセント善意です。
(陰徳として見返りを求めるのは、純粋な善意と言っていいのかどうかはともかく)


善意で、寄付したり陰徳したりしたのですから、その時点ですでに、善行が発生しています。

それを受け取った時点で、責任は向こうにあります。
その後の、寄付の資金をどう使うのかは、こちらの知ったことではありません。

もちろん、こちらが、それを認識していれば別ですが、寄付時点で知らなければ、善行の無効にはなりません。
たとえ、後から実相を知ったとしても同様です。

少なくともその時は、善意で行ったのですから問題は無いのです。


ちなみに、功果格のマイナスポイントの、悪業一覧の場合は、故意(わざと)ではなく過失(うっかり)だった場合、
つまり、自分の認識がわざとやったのでなければ、悪業として計算しない仕様になっています。



民法では、パクられた手形が、一度振り出されてしまうと、
購入者の「善意の第三者」には抗弁出来ません。
パクられたことを知らない、「善意(法律用語では事情を知らなかったという意味)の第三者」には、その手形が無効だというのは通らないのです。

※逆を言えば、騙されたからと言って、悪事に寄付金が使われた場合、善意の第三者の被害者から見たら、寄付した罪はあるという論理も成り立つのですが・・・。





暗示



と、まあ、このような考え方も、世の中には、あります。


そもそも、陰徳にしたって、純粋な善意でやらないと効果は無い。
見返りを求める陰徳(開運を求める陰隲録のやり方)はダメという人は、以外に、結構います。

動機主義者は、世界に多いのです。
特に、宗教は、心の純真さを重視します。
いくら大金を寄付しようが、心が伴っていなければダメという論者は多いのです。

貧者の一灯という、考えもこれと同じです。
金持ちが、一億円寄付しようが、貧者のなけなしの千円には陰徳は及ばないという考えです。




たしかに、善意で行った行為には、善意のエネルギーや自己暗示が発生するため、
結果に関係なく、効果が発生するというのは、あながち間違いではありません。
結果が悪でも、個人の認識内においては悪業をやっていないという動機重視の考えです。


実は、陰徳を構成する因果応報の原理は、自己暗示に過ぎないのではないか?
という意見は、豊河も可能性の一つとして、保留している結構、有力な考えです。

つまり、ぶっちゃけて言えば、陰徳の開運効果は、プラシーボということです。

プラシーボ効果の効力は相当なもので、足なえを立たせ、盲人の目を開かせます。
火事場の馬鹿力はオリンピック選手の記録を塗り替えてしまいます。
およそ、常識では起こり得ないことが、プラシーボによって、容易に引き起こせてしまうのです。

プラシーボ効果は、個人の、開運など容易に実現させてしまいます。
あらゆる自己啓発や宗教の奥義は、ここにあると言っても過言ではありません。
陰徳によるプラシーボが、なぜ大きな効果が発揮できるのかと言うと、
因果応報の観念は、まっとうに日本人の教育を受けてきた人ならば、
常識以前として、潜在意識にデフォルトで搭載されているためです。

民度の高い、我々、日本人は、信賞必罰の観念、道徳的な観念があまりにも強力なため、自己暗示のプラシーボ効果を発動させやすいのです。


つまり、実質的に陰徳を積んだかどうかに関係なく、
本人がいいことをしたと認識していれば、
自己暗示効果が、発動するのです。


自己暗示と言うと、たいしたことがないと思われますが、さきほどのプラシーボ効果のことです。

一般のイメージに反して、暗示や催眠で人は殺せます。
洗脳と言えば、わかりやすいかも知れません。
これに関しては、オウムの事件で、我々はこの力を目の当たりにしたばかりです。

さきほども言ったとおり、プラシーボ効果は、極めれば、
肉体のリミッターを外して超人的な力を発揮したり、
脳の機能を全開にして天才的な能力を発揮したり、
いにしえの聖人君主の如く、カリスマを発揮したりすることすら可能です。
神との遭遇や、悟りを開くことすら可能です。
※脳内麻薬の力です。
この自己暗示、プラシーボ効果をいかに、発揮するかが古代からの宗教や神秘学の眼目です。



しかし、この自己暗示、いざ自分がやろうとすると上手くいきません。
才能があるか、集中的な環境か、薬物か臨死体験かしないと、自己暗示は、出来ないのです。

有り体にいえば、金と暇と師匠がいないと出来ないのです。


陰徳は、この自己暗示のプラシーボ効果を、他の方法よりも、比較的、発揮しやすいシステムなのです。

だからこそ、万人向きの方法なのです。

その他の宗教的な行法や密教は、人を選びますが、陰徳は人を選びません。




結論



と、上記でこの説(結果ではなく動機重視論)を敷衍したものの、
やはり、結果が悪である場合、詐欺師や犯罪者を実質的に支援してしまったという現実は、どうしても、存在します。


因果応報が、人間の自己暗示の内部だけでなく、外部にも存在する可能性を考慮すると、
正直、動機だけが善でも、やはり実質的な結果が伴わないと、ダメなのではないか?
と、豊河は愚考します。



ただ、ぶっちゃけ、実際の因果応報のシステムがどう働くかは不明です。
外部ではなくて、内部の自己暗示なだけの可能性もあります。

もしかして、豊河が間違っている可能性も大ですので、お好きな意見を採用して下さい。



ただ、一応、保険として、実質的な効果がある方が、リスク回避としては安心です。
動機も結果も、両方が善なら、全く問題ないでしょう。

結果として、豊河案としては、

「動機だけでなく、実質的な効果が出て、初めて陰徳としての条件は成立する」

といたします。
功果格表のポイントとしては、実質的効果が無ければカウントしないと言う事です。
また、功果格の条件通りに、逆に実質的効果が悪になってしまったら、故意(わざと)で無い限りは、ノーカウントともします。


まあ、とは言っても、そもそも陰徳の寄付先が、本当に実質的効果があるかというのは完全には判断は、不可能です。

神でない限りは、有限の人間の身として、完全に、調べようが無いからです。

しかし、これは調査しないということを、是認するのではなく、やはり、可能な限り事前調査することが肝要です。

人事を尽くさないで、天命を待ってはいけません。
※お金があれば、調査機関に依頼してでも、裏づけを取りましょう。



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