2017年7月19日水曜日

諸法無我とは?①











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今日は、諸法無我という訳のわからない物を考察してみましょう。





諸法無我


以前、般若心経コンテンツを構築するにあたっての、現状の豊河が調べた空の解釈をまとめた進捗記事を、書きました。

般若心経コンテンツの準備 パトラッシュ、僕はもう疲れたよ・・・もう・・・ゴールしてもいいよね


ダラダラとやたらたくさんあり、閉口しましたが、空だけでなく、諸法無我も実は同じです。

やっぱりダラダラとダラダラと、いっぱいあります。




一般に、釈迦が発明した真理は、三法印(四法印)です。
縁起の法則と並んで、仏教の基本教義です。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

この四つです。


仏教国の日本人なら、普通に聞いたことのある教義です。
そのため、この四文字熟語についても、何となくのイメージはつきます。



諸行無常→平家物語ですね。祇園精舎の鐘の声。わかります。
諸法無我→自我が無い?は?
一切皆苦→生きるのって苦しいよね。
涅槃寂静→そうだ。彼岸に行こう。



諸行無常は、まだわかります。

時間軸のシフトによって、どんどん環境は変化していきます。
権力者だろうが、国家だろうが、必ず滅びます。

猛者はついには滅びる。
※弱き者もやっぱり普通に滅びますが。
祇園精舎の鐘の声は学校で習ったので、何となく理解できるのです。



一切皆苦や涅槃寂静もまだわかります。

人生は苦しみばかりだとか涅槃にGO!と言う心情は、日本人的になじみの深い概念です。

※たぶん、涅槃と浄土がごっちゃになっていると思いますが。



しかし、諸法無我となると、途端に理解のハードルが高くなります。

自我が無いとは一体どういうことでしょうか?





一般的な解釈



諸法無我については、空と同じく、色々ダラダラと、解釈があります。

なにせ、自我が無いという無茶な理屈です。
詭弁でも使わないと、論証出来ません。



一般には、
時間軸の諸行無常に比較して、空間軸の諸法無我という考えが一般的です。

何言ってるんだ?
と思われるでしょうが、
どちらも、世界は、移ろいゆく、儚い物ということです。

要するに、諸行無常は、時間の流れで、物事が変化していきます。
それに対して空間の三次元の中で、色々、自分以外に関わり合っています。

自分という存在が、変化したり、依存していたりしているということです。

世界の構成物は、全部、一切合切が、
時間軸や空間軸を通して見たら、安定した絶対的な物は無い、と言うことがわかります。


人体一つ取ってみても、色んなパーツで出来ています。
外部からの食事やその他諸々の要素の恩恵で、ようやく生きています。


他の存在との、ネットワークの中心にいる自我は、それ単独では存在できません。
あらゆる外界の物とのネットワークで構成され、生きています。



大体、上記が一般的な諸法無我の解釈です。

自我や万物に各個とした自我は無く、ただ唯名論的に、自我や万物の個々の名前が、仮にあるだけと言った解釈です。


他にも、自分の思い通りにならないから自我ではない(非我)という解釈もあります。
肉体も精神も社会的地位も、なにもかも思い通りになりません。
勝手に、諸行無常でコロコロ変わり、滅んで行きます。

もっと言えば、思い通りという自我すらも、因縁によって勝手に生成されているのです。
自分の思想や思考や行動すらも、自分の決めたものではなく過去からの因縁によって、
自動的に生成されたものなのです。





大乗



さらに、時代が下って、大乗仏教の時代になると、
主題は、空の教義になってきます。

そのため、空の相対論的な解釈で諸法無我が、語られるようになってくるのです。





例えば、親子という関係性があります。
親と子の二者で構成されます。

この時、重要なのは、親はあくまでも子供がいる前提で親と呼ばれます。
逆に子がいなければ親と呼ばれないわけです。


だから、親は子供の存在との関係性があって、初めて親と呼ばれる。
全ての存在は、相対的な関係性の中でしか存在しない。

~であるということは、すでに言語化している時点で分別智であり、すでに本質の実相から離れている。
言語化された一切の存在は空であり、諸法無我である。


と言う、言葉遊びのようなロジックが言われるようになります。
たぶん、ここらへんの話は、日本人なら、一度や二度は聞いたことがあると思います。



まあ、先ほどの解釈と共通しているのは、他の存在とのネットワークの中にあるから無我ということです。

仏教は、教義的に、存在否定論なので、この世の一切の存在や自我という、固定的で常住普遍な存在を認めないのです。

当然、これは、宇宙を創造した絶対神の存在も認めないということです。

有る(我は在る)ということを前提にした西の一神教と、
無い(諸法無我)ということを前提にした東の仏教の、
東西の文明の衝突です。



諸法無我の話は、長いので、次回もいたします。






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