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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
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陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く
五十善に相当する
◯一人の流離を救免す。
【渡る世界は地獄ばかり】
一般に、無職やリストラというのは、個人レベルの問題か、せいぜい企業レベルの問題であることがほとんどです。
大規模レベルであっても、せいぜい景気不況によるもので、それが世界規模のレベルであっても、実際に会社が潰れたり、リストラするのは全体の少数です。
(それでも万単位の数なのですが)
しかし、そのようなレベルを遥かに超えて、リストラどころか、住居すら消失するレベルの問題は歴史上、多々あります。
それが、難民です。
難民は、通常の状態では発生しません。
天変地異や戦乱など、歴史に残るレベルの事象で発生するものです。
つい最近の日本ですら、3.11と言うクライシスにより大量の難民が発生しています。
福島という「人口密度の低い田舎」ですらこの有様です。
いずれ来る、東海・関東大震災では、想像を絶する難民が発生します。
政府自体がすでに、国家予算が吹っ飛ぶと自白しているくらいですので、統治機構も壊滅するので、阿鼻叫喚の地獄が現出されるのが予測されます。
初撃の大震災だけで100万単位の死者数。
その後の、津波や火災旋風でさらに100万単位の死者数が追加。
インフラ壊滅後の難民がやはり100万単位で現出。
さらに経済の連鎖で企業倒産やリストラによる被害者は数千万にも及びます。
世界第三位の日本国のクラッシュは世界大恐慌を引き起こし、億単位の人間の被害を連鎖します。
経済の大恐慌だけで済めば御の字ですが、経済と戦争は裏表なのは、前回も指摘した通りです。
そのまま、第三次世界大戦へと展開する可能性すらあります。
要するに、今まで、我々が対岸の火事だと思っていた難民は、すでに身近な物となっています。
アフリカや北朝鮮の餓死者や難民は、いつ日本に現出してもおかしくないのです。
そのような、薄氷の上に、綱渡りの上に立っているのが、今の我々です。
世界は薄皮一枚隔てたところに地獄が存在します。
これは、世界の構造そのもの、システムそのものがこうなっているのです。
釈迦が喝破したように、世界は、絶対安全な常住不変の保険は無いのです。
一切が、諸行無常で、諸法無我で、一切皆苦なのです。
原因と結果で構成されている、不安定な危ない代物なのです。
どんな安全に見える物も、地獄を薄皮一枚下に内包しています。
肉体や世界そのもの、人間関係含めて、全ては、生老病死の法則から逃れられません。
一般に生老病死と言うと単に人間の身体だけと思ってしまいます。
しかし、それは間違いです。
もう全てが、生老病死の対象なのです。
例えば、地球には四季があります。
春夏秋冬の四季です。
毎年、飽きること無く地球は四季を人間に提供してくれます。
さらに、一日ですら、朝昼夕夜の四季のミニチュア版を、地球は提供してくれているのです。
人間がどうしようもない、大自然のサイクルが存在するのです。
人間がいくら執着しても泣き叫んでも、一切の万物は生まれて育って衰えて消滅するのです。
それは、自然や人体のような物質だけではありません。
家族や企業や国家と言った抽象的な代物にも、適応されるのです。
【有るのか無いのかそれが問題だ】
※以下、細かい哲学話になります。
※めんどくさい人はスルーして下さい。
よく上記のような仏教への反論に、仏教は現象主義だと言う反論があります。
例えば、一切は流転すると言っても、関係性の式(関数)は流転しないので常住不変だという反論です。
わかりやすく言うと、例えば、関数で、
y=2X+a
という中学生レベル(小学生か?)の関数があるとします。
この y や x や a というのは、変数です。
要するに何を入れてもいいということです。
この部分が、要するに一般の現象で言う諸行無常です。
1が入るかもしれないし、2が入るかもしれない。
やがて死の消滅の0になるかも知れない。
諸行無常です。
ここまでは仏教の話に間違いはありません。
しかし、この変数に何が入ろうとも、この関数そのもには何ら変化はありません。
変数がどうなろうと、関数は変わらないのです。
x や a の数字が変化することで、y の数字も変わります。
しかし、関係式の関数そのものは、何の変化も無いのです。
人間を含めたあらゆる存在も同じです。
人間の構成要素(この例だと変数の部分)は、変化します。
しかし、大事なのは関係性の関数です。
人間の構成要素がいかに変わろうと、人間全体を構成するシステム(関数)そのものは変わりません。
これは仏教が否定する自我も同じです。
自我の構成要素の記憶や感情と言った情報(変数)がいくら変化しようとも、自我を構成する関数は変化しません。
だからこそ、我々は同一の自分という自我を保っていられるのです。
仏教が現象主義だと批判されるのは、目に見えるこのような変数の変化だけしか、見ないため、その奥にある法則(関数)の常住不変性を無視しているということにあります。
これは、プラトンのイデアの時代から、キリスト教の絶対神の証明を求めて、常住不変を追い求めてきた西洋哲学の立場からの有神論からの批判でもあります。
【再反論という名の屁理屈】
上記の西洋哲学からの反論は、昔から仏教の批判として、よく言われている反論です。
ここまで論理付けていなくても、もっと俗的な言い方も、昔から下記のようなのがあります。
「諸行無常と言うが、諸行無常という法則自体は常住不変なのか?だったら、諸行無常という法則は成り立たないな」
という、屁理屈です。
この屁理屈は、一見、ただの屁理屈ですが、実際は前項の反論と同じく、屁理屈どころか、極めて重要な哲学的な反論なのです。
実質、東洋哲学と西洋哲学の相克と言ってもいいでしょう。
無(ゼロ)と有(絶対神)の戦いです。
この反論に対する再反論は、二つあります。
一つ目は、
・諸行無常の行は、別に全てという意味ではない。(えっ?)
・色受想行識の行である。
・だから、世界の動的な執着のエネルギーの流れが無常というだけである。
・法則とか関係式(関数)などが無常という意味ではない。
・法則とか関係式(関数)とかは、『法』に定義されるものである。
・それは諸行無常ではなく諸法無我のカテゴリである。
・関数や法則だって式記号や変数で構成されている非自律的な存在(無我)である。
・要するに法は無常とは言っていない。(えええっ?)
です。
要するに諸行無常、諸法無我は、「行」と「法」と区別しているからセーフ。
という反論ですね。
ちなみに、仏教はインド人が作った宗教なのでこういう屁理屈が大好きです。
鎌倉仏教とかのメジャーになった、大衆が知っている仏教の裏にはこういう、哲学的論理がゴタゴタと頭痛がするような長さで存在しています。
さらに仏教内部や外部の他宗教とグダグダ論じているので、豊河さんは非常にお疲れです。
↓の記事参照
般若心経コンテンツの準備 パトラッシュ、僕はもう疲れたよ・・・もう・・・ゴールしてもいいよね
二つ目は、
・法(関係式・関数)が常住不変だから一体それがどうしたというのか?
・人間としての認識は結局、一切皆苦である。
・法が常住不変と言っても、構成要素の変数が諸行無常な以上、認識上ではやはり諸行無常である。
※変数がゼロだったら関数そのものもゼロになるため。
です。
解説すると、ただの例え話にマジになるなよ?
くらいの認識ですね。
当たり前ですが、人間は生老病死という法則があります。
が、この生老病死という法則自体が常住不変だとして、何か意味があるのでしょうか?
執着している肉体や人生が、生老病死で無くなることには一切代わりはありません。
執着している世界の一切の物は生老病死で消滅するのです。
法則自体は常住不変でも、構成要素の変数は消滅してしまうのです。
つまり、何の意味もありません。
それが人間の苦しみであることには、変わりは無いのです。
愛する肉体も精神も、愛する家族も、愛する国家も全ては流転します。
たとえ法則は不変でも全ての存在は、諸行無常なのです。
どんな美しい物でも、醜くなり、どんな正義な物でも悪になり、どんな善人でも卑しい犯罪者になるのです。
楽園でも天国でも極楽でも、地獄になります。
人間は、自分の業を見ることが出来ません。
いつカルマの清算で災難が訪れるか分かったものではありません。
こんな世界で何をどう安心して生きていろというのでしょうか?
どんな安全でも安心でも、光の速さで不安や危険になるのです。
そこにあるのは、もう信用など一ミリたりとも出来ない、諸行無常の一切皆苦の世界です。
だから、上記の反論には、結局、何の意味も無いのです。
何をどうしようが、この極悪な法則を止められないのです。
もっと言えば、諸行無常や諸法無我や一切皆苦は、ただの世界へのネガティブキャンペーンの一表現に過ぎません。
釈迦がこの世を呪った、ヘイトスピーチの一つに過ぎないのです。
仏典には、世界が諸行無常・諸法無我・一切皆苦と言った表現の他にも、やれ病だの腫れ物だの汚物だの、世界への罵詈雑言が並んでいます。
その中で、哲学的っぽくて人聞きが良さそうなのが、代表として公的になったのが、諸行無常その他なのです。
要するに、一番大事なのは、世界への悪口なのです。
悪口なので、実は、内容が正しいかどうかはどうでも良いのです。
釈迦の有名な説法に「毒矢の喩え」があります。
毒矢を受けた者はとりあえず毒矢を抜いて処置をするべきであって、矢の分析や犯人の分析より優先されるべきであると。
輪廻の生存という毒矢を受けた我々生命は、世界の成り立ちなどどうでもよいのです。
宇宙の成り立ちや死後の世界などは、釈迦は無記解答しました。
理由は、上記の毒矢の喩えと同じです。
苦しみの生存から脱出するのが先であって、分析はどうでも良いのだと言うロジックです。
枢軸宗教の仏教は他と同じく、世界を呪っています。
世界から解脱して輪廻を消滅させるのが目的なのですから、実際に世界が無常だろうが無我だろうがどうでも良いのです。
世界への執着が苦しみの元だからとっととエスケープしようぜというのが大前提なので、それに至るロジックは何でもいいというのが、仏教の本音ですね。
【出日本記】
世界なんてどうでもいいという仏教に対して、本当は、豊河は、このろくでもない世界と法則を、何とかしたいのです。
永遠に、真善美の、常住不変の世界に、皆さんを招待したいのです。
※最悪、自分だけでも(台無し)
ところが、そんな世界は今のところ発見出来ません。
しゃーないので、次善策として、悟りを開いて解脱(エクソダス)しようぜ!と言っているのです。
無論、豊河如きの認識の範囲の現状の結論です。
(のが多いな)
もしかして、この世界のどこかに、真善美の常住不変の世界へのアクセス方法があるかも知れません。
希望を捨ててはいけません。
この腐敗した世界に堕とされたままではいけません。
(堕天使か?)
この支配からの卒業なのです。
エクソダスなのです。
まあ、エクソダス(脱出、出国)の本来の意味だと、日本国からの脱出の方が実は先決です。
理由は、この記事に書きました。
震災と原発と近隣諸国がヤバイからです。
しかし、どうせ今逃げようが、人は必ず死ぬのです。
ぶっちゃけ同じことです。
エクソダス(脱出、出国)は国からではなく、この諸行無常の世界からしましょう。
真善美の常住不変の光の国へ行くのです。
ウルトラマンは光の国から僕らのために来てくれましたが、逆にこちらから行けない道理はありません。
そこは愛の国ガンダーラであり、黄金の国エルドラドなのです。
※何となく、大日本帝国の南米と満州への棄民政策のスローガンに似ていますが気の所為でしょう。
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