2017年4月21日金曜日

【陰隲録】功過格表54 地球というブラックボックス 五十善 仕事を世話しよう⑮





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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)

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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

五十善に相当する

一人の流離を救免す。




【底辺営業市場】


前回まで見たように、仕事が無いというのは、極めてマクロ政策的な原因の面があります。

要するに、個人本人の責任ではありません。

新自由主義の資本家様とその信奉者は、仕事自体は選ばなければいくらでもあると豪語しますが、当然、その仕事は彼らの収入に遠く及ばないブラック労働の仕事です。

ましてや、ホームレスまで行くと、そこからの復帰は、個人努力の範疇を超えています。

部屋を借りる保証人や、日払い仕事から月給払いの仕事へのシフトも資金が無いと不可能です。

要するに、他人からの支援が必要がどうしても必要なわけです。

まあ、逆を言えば、そこに我々のような陰徳を積むために虎視眈々と人の不幸を狙っているハイエナのチャンスが生じるわけです。

人の不幸を陰徳の種にする、悪逆非道の輩が、我々、陰徳行者(勝手に造語)の修羅道です。

前にも言いましたが、基本、宗教というのはこういうものです。

キリスト教だろうが、仏教だろうが、新興宗教だろうが、人の不幸につけこんで布教してきた歴史があります。

表の政治やメジャー宗教が放置する底辺を救済するのが宗教の役目の一つです。
やってることは、イエスの時代のキリスト教だろうが、新興宗教だろうが変わりません。

ただし、これは当然、評価として裏表の陰陽があります。
弱者を騙して搾取する邪教なのか、弱者を救済するためなのか、真贋は別です。

しかし、相互扶助コミュニティと信仰を付与するのは両者共に共通しています。

最悪、邪教でも、本人の認識が、死ぬまで幸せなら別に問題無いわけです。
ホストに入れあげる寂しい女性がいたとしても、ホストが悪人なわけではありません。
サービス業というのは、得てしてそういうものです。

さて、そうした自己責任論ですが、通常、このブログでは、他人を助けないクズの思想として、批判しています。

しかし、困ったことに、この自己責任論。
陰徳の基本理論である、因果応報の理論から見ると、困ったことに、この資本家様の御用理論である自己責任論が擁護されてしまうという悲しい現実があるのです。





【統治OS】


因果応報理論は、仏教やインド宗教哲学の、基本理論です。
彼らは輪廻転生を、仮想的に想定しているので、その流れに乗る個人主体の自我の原動力として、因果応報理論を採用しています。

そもそもの因果応報って何?

という説明は不用と思いますが(このブログに来ているような方々には特に)、要するに、
良い事をしたら良いことがあり、悪いことをしたら悪いことがある。
ということです。

この単純な因果応報理論により、生前の栄誉禍福のみならず死後の行き先の選定にも、適用されます。
要するに、いいことしたら天国に行くし悪い子としたら地獄に行くというやつです。

一般に、この理論は、日本で広く普及しています。
大部分の日本人で、
因果応報が無い!
と断言する人は、あまり多くありません。

あえて言う人というのは、悪ぶってる人か、トラウマを持っている人か、後述するようなイデオロギーを持っている人くらいです。

また、あえて賛成していなくても、この因果応報の理論は、色々と人間の感性に合致するため、言葉にしなくても何となく信じている人が多いのです。




この理由(因果応報が普及している理由)は、いくつかあります。

まず、人間は社会的動物なので、内部規則で違反者を処罰してきた歴史があり、その遺伝子が残っているため、悪いこと(違反)したらその対象を処罰するというのは、人間の遺伝子にとってお馴染みの現象なのです。

百万年単位で狩猟採集時代を生き抜いてきた人間にとって、馴染みの深い話なのです。

さらに、人間の心理に有る、不公平感の是正です。
もっと言えば、自我のプライドの均衡と言っても良いかも知れません。

努力した人が報われずに、悪人がのうのうとのさばっていたら、人は不快感を出します。

その不平不満に、対応出来ない社会は、全体のストレスにより長持ちしません。
見せかけだけでも公正さを出さなければならないのです。

ましてや、文明が進んで身分の抑圧が進むと、権力の抑圧によりルサンチマンが民衆に溜まります。

悲しいことに、基本、悪党は一生のうのうと暮らし、弱者は一生、虐げられるのが常です。

そうすると、今世で、どこからどう見ても、悪人と善人の報いが無い状態になります。

そのため、ここに、「死後の世界」の需要が発生します。
因果応報で、善人は天国に、悪人は地獄に行くことで、民衆のルサンチマンは解消されるのです。

要するに、因果応報を信じることは、人間の精神の平衡を保つために必要なアヘンなのです。
それが無かったら痛みで死んでしまうのです。
アヘンは鎮痛剤として古代から用いられてきた歴史があるのです。


このため、因果応報は広く信じられています。

これは、洋の東西は関係ありません。

一神教ですら、神の裁きという概念で、因果応報理論が浸透しています。
※一神教でもインドでも、決定論者は出ましたが普及していません。

さらに、この、因果応報理論は、人間の道徳教化に非常に役に立つ概念です。

およそ世の中において、権力によるペナルティが無い社会統治など、最低の統治システムです。
論外と言っていいでしょう。

国家に軍隊があるのは、外敵と戦うだけではありません。
内部のお上に逆らう不届き者を成敗するために、存在しているのです。

軍隊だけでなく警察も同様です。
社会学では、軍や警察を暴力機関と読んでいますが、これはマフィアのことではなく表の権力なのです。

人類の、多年に渡る長い闘争において、人間は性悪説で、必ず悪事を働くことがわかっているのです。

ゲーム理論では、ここらへんの理屈をマトリクスで理論立てています。
が、わざわざゲーム理論を考えるまでもなく、罰則が無ければ、個人の利益の最適化のためにみんな動くのは当然です。
私だってそうします。


人類の歴史は、万人の万人による万人のための闘争の歴史です。
外敵よりもはるかに人間同士で殺しあってきました。

単純に悪事のためというよりは、正義を巡って殺しあってきたのですから始末に負えません。

結局、人間の敵は人間なのです。

個人の脳内まで徹底した管理が出来るディストピアは、まだ来ていません。

そうでない以上、管理の目が届かない場所で、悪事をする人間は、当分消滅しないでしょう。

因果応報のドグマは、そういう状況での人間の悪事を抑制する、ストッパーになりうる洗脳の楔です。

当然、逆の、つまり、人の見ていないところで、自分に利益があるわけでも無いのに善事をするという、つまりは陰徳もこの範疇です。

上記から、因果応報理論は、人間社会にとって有益な統治OSであったわけです。




【ブラックボックス】



因果応報思想は、一見、科学的です。
原因と結果の論理は、古代にしては相当科学的な思考です。

が、そのロジックは、途中でかなり非科学的な立証不可能の論理になります。
それは、因果応報思想の、善因善果、悪因悪果のところです。

厳密に言えば、原因と結果の因果応報はともかく、道徳律の因果応報が、非論理的なのです。

このブログでも、基本、陰徳による開運を推奨しています。

善事の陰徳を積めば、結果として因果応報による善因善果により、良い事がありますよと。
逆もまた然りで、悪事をやめましょうと言ってきたわけです。

当たり前の話ですが、この法則は、本来、立証不可能です。

百歩譲って、陰徳ではなく陽徳なら理解できます。

他人の目に見える範囲での陽徳ならば、好印象を与えられ、結果として、人間社会で上手く立ち回ることが出来ます。
逆にネガティブキャンペーンを張られれば極めて不利になります。


しかし、因果応報や陰徳はこうした他人の目に触れないところでの行動が、結果として、自分に帰ってくるという非科学的なロジックなのです

証拠も証明も何もありません。

今まで豊河が読んだ、逸品の論理としては、
「地球は丸いのだから、自分の放った念は地球を一周して自分に返ってくるのだ・・・」
というロジックです。

愚人の代表である豊河は、
「お、おう・・・そ、そうだな!地球は丸いからな!」
と頷くことしか出来ませんでした。
天才はいつの時代にもいるのです。

もちろん、因果応報の、多くの実体験データが人類の歴史にあるのでしょうが、上記したように、普通に、憎まれっ子世にはばかった例や、善人が不遇のまま死んだ例も多いでしょう。
というか、そちらの方が遥かに多いのです。


一応、無理やり理屈つけると、プラシーボ効果です。

潜在意識に自分は幸福になる権利があるという強い暗示効果を植えつけるため、その後の人生が、無意識の誘導により上手くいったり、既存の人生に不利な情報が無くなるという開運効果です。

しかし、潜在意識という概念を使ってる時点で、あまり科学的な論理では無いのは、見てもわかるとおりです。

かなり如何わしい論理といえます。


まあ、こんな怪しい理論ですが、今まで人類に対して運用してきた実績があります。
理論的にブラックボックスでも、使えるなら別にいいじゃんというのは、良くある話です。

我々は、家電の中の仕組みとか知りませんし、お金だって正体が良く分からんのに問題なく使用しています。

そもそも、一番よくわからないで使っているのはこの人間という体でしょう。

医学の最先端でもまだまだよく分かっていないこの肉体や脳という代物を、特に気にせず使っているのです。

今も崖っぷち運用で、日本国内で使っている原発だって、戦後の敗戦国の制限のため、アメリカ製の中身がブラックボックスの原発を、綱渡りで使ってきたわけです。

ブラックボックスと言えども、問題がなければ、中身がブラックボックスでも全く問題ないのです。
(原発は大問題になりましたが)


で、また話が脱線しましたが、また長くなってるので、因果応報理論の何が問題かと言うのは、次回に述べましょう。


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