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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く
五十善に相当する
◯一人の流離を救免す。
【問題点】
何事にも裏表の陰陽があるのが世界の真理です。
ブラックボックスだけど、人類に役に立ってきた、因果応報という、お役立ち統治OSも、欠点があります。
それは、善業を喚起し、悪事を抑制するどころか、返って助長してしまう結果になるというバグです。
大きくわけて、二つのバグがあります。
一つ目が、傲慢で、
二つ目が、薄情です。
両方ともろくでもないバグですが、因果応報思想は、このエラーがシステム上、発生しやすいのです。
一体全体、何事でしょうか?
今回は、これを考察してみましょう。
特に、陰徳で開運しようという我々にとってこのテーマは避けては通れません。
以前から、たびたびこのテーマは話題にしてきましたが、意外と重要なテーマです。
また、このテーマは、別に指摘してきた、
「開運して偉くなると危険」
という別のテーマに連鎖しているのです。
ここも、やはり我々は知っておくべき話なのです。
※正直言えば、黙っておいたほうが良いのですが、豊河は正直者なのであえてとりあげます。何事も段階が有り、初学者に言うべき話ではない「密教」なのですが。
【論理】
この二つの発生の仕組みそのものは簡単です。
因果応報は、原因と結果の論理です。
原因があって、結果がある。
逆を言えば、結果には必ず原因があるということです。
ここまでは、科学思想が普及している現代人なら当たり前の話です。
物事には必ず発生理由があります。
当然の話です。
Aという現象がBをもたらす。
この法則は、逆に言えば、Bという現象があれば、Aと言う現象が発生している可能性があります。
※厳密に言えば、論理学的に、Bの現象の発生原因が、排他的にAだけとは限らないのですが。
善因が善果をもたらすという法則ならば、つまり逆に考えると、善果が発生している状況では、当然、因果応報的に考えて、過去に善因という現象が発生したという論理になります。
まあ、当たり前の話です。
悪因悪果も同じです。
悪行の原因が悪果をもたらしているとするならば、逆に考えれば、悪果が生じている状態では、過去に遡れば悪果の原因である悪行があるはずなのです。
原因と結果が必ずリンクしていればそうならざるを得ません。
因果応報という言葉を信用するならば、当然、このロジックが成り立ちます。
この論理があって、初めて因果応報が成り立ちますし、また、運命や開運と言う言葉も成り足ります。
善行や悪行をすると、善果や悪果がある。
これを首肯するならば、当然、逆のパターンも首肯しなければいけません。
そして、ここに因果応報理論の問題が内包されています。
傲慢と薄情の生成原因が内包されているのです。
【お前、それアフリカのサバンナでも同じこと言えんの?】
自業自得。
※自業自徳と言ってもいいかも知れません。
この言葉は仏教用語で、日常化した言葉です。
この手の仏教用語が元ネタなのは、結構あります。
断末魔とか奈落の底とか、色々あります。
仏教というより、インド語(サンスクリット語)ですね。
あいうえおの母音とか、結構、インド文明は、我々日本人の文化に入り込んでいます。
我々も、よく悪人が、酷い目に会っているのを見ると、この言葉をよく利用します。
しかし、この言葉は当然、裏を返せば、悪人は必ず裁かれる。そして、裁かれた者は、悪人である。
という、意識が裏に存在します。
人間社会ですら、警察に捕まって前科があれば、それが冤罪であろうとも、人々は忌避します。
ましてや、天網恢恢疎にして漏らさずの冥律ならなおさらです。
要するに、何らかの理由で、不幸な人にとって、この法則論理は、自業自得だと、自己責任に還元してしまう恐れが非常に高いのです。
理不尽な運命や障害や不幸に対して、人間が合理的に考えるとすれば、何か前世で悪いことをしたという論理になります。
これは、科学的な原因が不明な場合、不明じゃなくても解決策がわからない人にとっては、救いになります。
さらに、為政者にとって、対策がとれない社会問題には、個人責任に還元してしまうのは、一時的と言えども責任回避になり、得策です。
今の21世紀ですら、社会状のマクロ政策を歪めている資本家により、若者の自己責任として、搾取を是正している人類です。
このロジックが人類で、使われてきたのは言うまでもありません。
インドのカースト制度を見れば明らかです。
彼らは社会状の身分の差に、宗教的なフィルターをかけています。
高い位のカーストは、聖なる存在で過去の前世に善業を為した存在なのです。
低い位のカーストは、悪なる存在で過去の前世に悪行を為した存在なのです。
だから、今世のカーストの身分は、自業自得なのです。
それを是正するなど、とんでもない。
今のカーストは、あくまで自業自得であり、それに逆らわず、カーストを守ることで業(カルマ)を解消することが、宗教的に正しい哲学であり行動なのです。
このロジックが、現代文明の論理からみて、相当、おかしいのは、現代人の我々から見て一目瞭然です。
しかし、因果応報の論理を受け入れるならば、必然的な論理です。
我々ですら、現世のカーストの差別政策は反対しても、死後の行き先は、自業自得論理で語っています。
善業を為したら天国に行き、悪行を為したら地獄に行くと。
子供でも、この話は知っています。
しかし、
では、現世で生まれの身分や、容姿や才能などの幸運、不運の不公平がある場合、それを前世のせいにするのは、あまり使われません。
本能的にこのロジックに差別問題があると、わかっているからです。
しかし、死後の行く先に因果応報理論を当てはめるならば、前世にも当てはめのは当然です。
論理的に言うならば、我々よりもインド人の方が正しいのです。
悪人が死後、地獄に堕ちるのを我々は、当然のこととして是正します。
そうすると、アフリカの子どもたちが飢餓地獄に陥っているのは、当然、前世の自業自得によるものです。
因果応報理論をつきつめると、このような論理となります。
要するに彼らに同情する必要は無いのです。
逆に、生まれつき、偉大な身分や才能を持った人間は前世の善因によるものです。
現人神として存在するような人間は無条件に崇めなければいけません。
それは、彼らの自業自得によるもので、我々と違って、霊的なステージが高い人なのです。
2000年前にイスラエルに現れた現人神(神の子)の例もあります。
人は平等ではありません。
同じ人間であっても、霊的ステージが違うのです。
いや、そもそも人間ですらありません。
彼らは神であり、現世に舞い降りた神なのです。
女の子や娘に使うようなマイエンジェルなどという、慣用句ではありません。
本物なのです。
逆に、人間以下の存在もこの世に存在しています。
人間と言う、法的扱いを受けていますが、人間以下の存在なのです。
霊的ステージのランクは頑として有るのです。
【自業自得】
ここに、傲慢と薄情を生成する論理があります。
善因善果は、傲慢を産み、悪因悪果は薄情を産みます。
どちらも、共通しているのは自業自得です。
図らずとも、現代社会の新自由主義の自己責任論と、同じロジックなのです。
善果(幸運)が、自分の善因によるものでしたら、他に感謝する必要はありません。
悪果(不幸)が、自分の悪因によるものでしたら、他に慈悲する必要はありません。
全ては自業自得なのです。
天国に昇った善人に嫉妬する理由もありませんし、地獄に落ちた悪党に、情けを掛ける必要はないのです。
ここには、他人を助け、社会悪を是正するロジックが見出されません。
必然的に差別を是正する論理があるだけです。
かろうじて、現世の善因の推奨や悪因の禁止により、来世の幸福や今世の幸運を求めるということであれば、陰徳などの道徳行為の実行を推奨する論理になります。
しかし、よくよく考えてみれば、これは自分の陰徳を積む行為になっていますが、相手にとって余計なお世話です。
先程のカースト制度のインド人は、カースト制度に逆らおうとはしないのと一緒です。
彼らはこう言います。
余計なことをするな!自分たちは前世の悪業を償っているのだ!今の不幸は自業自得なのだ、と。
我々が陰徳を積もうとして、同情し、他人の不幸を助けることは、彼らのカルマを解消しないことを意味します。
それどころか、彼らから見ると、カルマの借金をさらに追加するようなものです。
本来、悪因は悪果によって、解消されるべき業が、さらにカルマの前借りによって善因善果の浪費になっているのです。
上記の因果応報の論理問題は、どのようにすればよいのでしょうか?
次回は、これをさらに探っていきましょう。
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