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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く
三十善に相当する
◯一人の受戒弟子を度す。
【後継者問題】
若者は革新的なのが人類の歴史の基本です。
エネルギーも有り余っており、扶養家族がいないため、失う物が少ないからです。
田舎よりも都会に出るのが基本です。
そのため、将来性の無い地味な仕事には着きたがりません。
ましてや、将来性の無い家業の継承などは論外です。
金持ちの家系ならば、その優位性から家業を引き継ぎますが、大抵の家業は子供は継ぐのを嫌がります。
昭和の時代に、子供がみんなサラリーマンになったのはこの思考が根底にあります。
地元の地味な発展性の無い職業につきたくはなかったからです。
その結果、後継者が途絶えてきます。
家系で伝達されてきた職業技術やノウハウが当然ながら消滅します。
職人技術と言うのは、一般に家系で伝える物が多いのです。
インドのカースト制度なども身分が固定されているため、技術が伝承されるというメリットがあります。
カースト制度における司祭階級はバラモン階級です。
要するに、宗教的権威が身分によって固定化されています。
つまり、坊主や神主の家に生まれれば、坊主や神主になるしかないのです。
当然、身分制度という枠が無ければ、若者が逃げ出す職業です。
現在のように、職業選択の自由の時代には、とてもなり手がいない職業です。
しかし、何だかんだ言っても、坊主も神職も無くなりません。
檀家制度の崩壊により確実に先細りすると言われていますが、新興宗教の乱立は後をたたないところを見ると、要するに、それだけ宗教に対する需要というのものがあると言えます。
そのため、家系の後継者がいなくなっても、中途参入で宗教業界に新人が入ってきます。
しかし、そもそも、なぜ宗教などという迷信が、21世紀になってもこの世から根絶しないのでしょうか?
【特攻天使イカロスさん】
およそ、宗教が無くならない理由は、簡単で、不満によるものです。
要するに、人間は、生きている限り、満たされないのです。
およそ生物は全てこの「満たされない」という宿命を背負っています。
そもそも、人間は生成途上の進化の過程にある生物ですが、まだまだ劣等な種です。
戦争はするわ、地球は汚すわでおよそこの地球から出していい種族ではないことは言うまでもありません。
とてもではないが、進化した宇宙の種族からすれば、未開の土人レベルの存在です。
さて、ではなぜ人間は満たされないのか?
その理由は、生命の存在そのものの仕様です。
もっと言えば存在そのものの仕様と言っても良いでしょう。
この宇宙空間に我々の住む星の地球はぽつんと存在しています。
厳密に言えば、銀河系の片隅の太陽系の第三惑星です。
ここに、地球は存在しており、猛スピードで動いています。
【陰隲録】功過格表62 廻る廻るメリーゴーランド 五十善 仕事を世話しよう㉓
その地球の日本国に我々は忽然として存在しているのですが、もうこの時点で実はアウトなのです。
例えば、地球がまかり間違って、太陽に特攻してしまったらどうするのでしょうか?
昔、ギリシャのイカロスは勇気一つを友にして蝋で固めた鳥の羽を装備して太陽に突っ込みました。
結果はもちろん、神風特攻隊の如く惨敗ですが、地球さんが間違ってイカロスの二の舞いにならないと誰が言えるでしょうか?
要するに、我々は地球にいるだけで、危険地帯にいるわけです。
もしも太陽が無かったら地球はたちまち凍りつきます。
花は枯れ、鳥は空を捨て、人は喜びをなくしてしまいます。
これもまた、地球の地政学的リスクなのです。
※地政学なのか?
さて、上記のようなこうした下らない戯言は実は、生命の根幹に関わる問題です。
要するに、我々が堅牢に見える大地ですら、一瞬先は闇だと言うことです。
常に、破壊と滅亡の境地に立たされる可能性を内包しているということなのです。
これは、地球からさらにレイヤを下げた地球に有る人間だとわかりやすいです。
【渡る世間は落とし穴ばかり】
現代技術でも魔法でもなんでもいいのですが、ものすごく堅い防御力を誇る人間がいたとします。
銃弾だろうがウォーターカッターだろうが、ハンマーだろうが傷一つつかない防御力です。
※それはもはや人間なのか?という素朴なツッコミ。
こんなメタルスライム並の防御力を誇る人間であっても、例えば、溶鉱炉とか火山に堕ちたら死ぬ可能性があります。
あるいは単に毒とかでも死ぬでしょう。
だから一体それがどうした?いい加減にしろというツッコミのお声が聞こえてきますが(幻聴)、要するに存在というものが有る限り、時空間に存在しているのです。
そしてそれは常に危険性を孕んでいるのです。
※時空間以上の次元の可能性は一応、考慮の除外にします。
空間の場所、時間の特異点を我々は常に移動しています。
そこには自由があります。
しかし、その自由は危険と表裏一体の同義語なのです。
場所を移動出来るということは落とし穴にハマる可能性ということです。
どんなに、強健な人間でも罠にハマれば死んでしまうのです。
天下をとった織田信長が本能寺であっさり死んだり、明智光秀が農民の槍であっさり死んだことを思えば、それがわかります。
存在という、この宇宙空間にぽつんと存在している物体である我々は常に、危険にさらされているのです。
【やわらかしっとりわがままボディ】
さらに、移動する以前にこの物体(身体)自体がやはり危険を孕みまくりの存在です。
肉体(精神)がなぜ危険かと言うと簡単です。
柔らかいからです。
皮膚にしろ肉にしろ骨にしろ、顔の色々なパーツにしろ内臓にしろ脳にしろ、非常に柔らかい存在です。
どんなに鍛えても硬気功を施そうが変わりません。
柔らかいということは、傷害が発生しやすいということでもあります。
鈍器や刃物や火傷などに耐えられないのです。
何でこんなに危険な構造なのか?と言えば答えは簡単で生物(なまもの)、動物(うごくもの)だからです。
この漢字の意味は、そのまま真理を表しています。
人間はなまものでありうごくものなのです。
これが、そのまま人体が柔らかいという危険性を表しています。
当たり前ですが、人体が動くためには、かちんこちんの身体だと動きません。
移動するためには二足歩行だろうが多足歩行だろうが、足の関節が必要です。
足がない生物は、ヘビのようにグネグネ動きますが、これも胴体の関節を使っています。
関節は骨と骨の継ぎ目であり、柔らかい部分です。
この柔らかい部分があるからこそ、人体は動いているのです。
しかし、この柔らかい部分があるということはすでに致命的な危険性です。
※関節技を見よ!
要するに人体や生物や動物は、動くという機能が必要なためすでにそこに危険性を内包せざるを得ないのです。
さらに、人体の危険性の内包は続きます。
人体は動くだけではありません。
その動くためのエネルギーが必要になります。
エネルギー源の捕食(手の稼働)、摂取(口や食道)、消化・吸収(胃や腸)、分解(肝臓)等々・・・。
生きるという一事を達成するためには、様々な機能が必要になります。
当然、この機能は動かざるを得ません。
動くというのは柔らかいことが必要になります。
内臓を含めて柔らかいのです。
さらに、複雑な思考を要する脳に至っては豆腐の如しです。
CPUもそうですが複雑な物は壊れやすいのです。
壊れやすいと言うのは、機能停止する可能性が高いということです。
これだけ複雑高度な医療が学問レベルになるということが人体のバカバカしさを示しています。
こんな弱い頼りにならない人体という代物に我々は全面依拠しているのです。
さらに痛みに至ってはもう論外です。
痛みが発生するのは、危険性に対する人体のアラームです。
このアラームがあるからこそ、我々は人体の安全性を確保出来るのです。
しかし、よくよく考えてみればこれほど無意味な存在もありません。
そもそも、危険性のアラームもなにも、痛みが発生するような段階はすでに手遅れです。
事故にしても、野生動物にしても人間の敵にしても毒物や病気にしても、痛みが最大限に発生している段階は、当然、危険性のイベントの真っ最中です。
むしろ、イベントの回避や解決に邪魔です。
敵に捕まって拷問されている時に、人体が痛みアラームを出して生存の危機を訴えても何の意味もありません。
本人が解決出来ない危機イベントだからこそ問題なのですから。
【ルート選択】
これらの、存在や人体の危険性の内包は、デフォルトとして内蔵しているものであり解決は困難です。
老荘思想では人間が悩み苦しみのは身体があるからだと言い、仏教でも五蘊盛苦と言います。
もっと言えば、身体というより、諸行無常や諸法無我に属する性質です。
移動、動きには危険性が伴います。
変化せざるを得ない性質は、安楽から苦難へ変化する可能性があるのです。
絶対無双の、存在はこの世にはありません。
これが、人間が満足出来ない理由です。
完全な物が無く、危険や苦しみが内包している以上、最終的な安楽地点は存在しないのです。
そのため、解決できない苦しみのために人間は宗教を必要としている理由です。
まとめて言えば、人間は不完全な存在だからという言葉になりますが、理論的な背景は、諸行無常という変化するシステムのせいです。
時間、空間の中で変化するからこそ、苦しみが生じる可能性があります。
もし人間を作った絶対神がいたとしたら、よほど不出来な無能のクリエイターです。
あらかじめ人間が苦しむ機能をオプションで付託しているのですから。
そしてこの危険性を認識することこそ、ただの俗人から一歩上に至るトリガーです。
古代中国の仙人も、釈迦もイエスもギリシャの哲学者もこの有限の危険な生命という認識を持つことから彼らの探求が始まりました。
現世の諸行無常というスタート地点はみんな一緒です。
しかし、その先は、輪廻をエスケープするか、永遠の本質(哲学の現象に対する)を求めるか、人体を不老不死化するかでルートは変わります。
彼らが所属している文化的な差異によるものでしょう。
あらゆる宗教や哲学はここに端を発します。
逆に言えば、この認識に至っていない人間は、スタート地点にすら立っていないということです。
愚民に受けの良い教義は、基本、永遠の本質を仮想構築している教義です。
世界のほとんどを支配する一神教や、日本の仏教市場を支配する阿弥陀信仰がその証左です。
まあ、皆さんが、どの教義ルートに行くかはそれぞれの人生ですので、自由に選択して下さい。
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