2017年10月31日火曜日

【陰隲録】功過格表161 釈迦という、家なき子 同情するなら布施をくれ もしくは道場をくれ  十善 いい人を紹介しよう㊳











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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



出家


一般に、出家というと、それは仏教の出家を意味します。

しかし、別に仏教でなくても、出家という形式はいくらでもあります。

出家が、現世での幸福をガン無視する方向ならば、いくらでも形式はあるからです。

むしろ、現在のように、宗教組織に入る(入社?)という意味ならば、厳密に言えば、出家とはいい難い状態です。

昔の出家は、文字通り、「家」を出ることです。

もっと言えば、ホームレスになることです。

家族という意味での家も同様です。
妻も親も子も、家の構成員です。
拡大解釈すれば、企業や自治体も国も同様です。
それらから抜けるのが出家と言えます。

日本でホームレスなんぞすると、普通に冬に死にますが、インドなどでは、楽勝です。
あとは、ご飯を信者から乞食で貰えば、生きていけます。

と言っても、元々、インド人の出家というのは、修行するためにやっていることです。
修行するのには、色んなしがらみが邪魔だから出家するのです。
逆に言えば、24時間自由に使える衣食住が整っている環境ならば、出家する必要は無いわけです。

早い話が、衣食住が約束されている、現代のニートは出家に最適です。

父親が金を稼いで、母親が衣食住を整備してくれる環境は、出家の理想に近いのです。


反比例

この出家というのは、通常の現世の俗世とは真逆の方向だと思われています。

実際、現世では、女、金、地位の俗世の幸福を放棄します。
美味しい、料理などの五欲の対象にはアクセス出来なくなるのです。

しかし、ある意味、この囚人のような環境が、一般の成功よりも上に見られています。
戒律をしっかり守っている僧侶や、厳しい修行をしている行者などが、尊敬の対象になります。

千日回峰行の達成者などは、生き神様扱いされているのを見てもわかるとおり、通常の因果応報の結果の成功不成功、吉凶禍福とは別の次元の法則に生きているように見えます。

つまり、貧乏などは通常、不徳の証拠ですが、僧侶だと貧乏で無一物がむしろ高徳の対象になるのです。

以前から、言ってるように、通常の因果応報とは反比例する別の法則ではないか?
という話です。

霊性を重視する業界では、通常、逆境の不幸な環境ほど大喜びします。
霊性を鍛える修行だ!
とばかりにです。

宗教組織だと、迫害されればされるほど、大喜びするということもよくあります。
※ブラック企業にも関わる話ですが今はスルーします。

つまり、我々が、陰徳を積んで、開運ハッピー☆という、このブログの主旨と、ずれるわけです。



戦後宗教史


ちょっと話がずれますが、もともと、貧病争の三拍子からの脱出解決は、宗教の基本です。
前々から言っているように、戦後の新興宗教は、主にこの解決がメインでした。

御本尊様の題目パワーで、貧病争から大勝利!
というのが、戦後の新興宗教の基本です。
実際、高度経済成長時代でしたので、別の御本尊様の力でなくても、豊かになってきたので、それらが解決されていきました。

それに応じて、信者数も莫大に増えていきましたが、冷戦が集結するころになると、豊かになってきた国民は、新興宗教に頼る必要性がなくなり、今度は修行やら超能力信仰の新新興宗教にシフトしたのです。

貧病争からの大勝利!
よりも、個人の暇つぶしというか満足感が救済対象となり、超能力やら前世やらの傾向がメインです。

オウムもそうでしたし、スピリチュアル幸とかもそうです。

しかし、今は、経済が悪化し、貧しくなってきました。
戦後のように高度経済成長時代でないので、大勝利も出来なくなり、かつ、超能力やら修行やらやってる暇がなくなってきました。

貧困という意味では、戦後と同じですが、情報化時代になり、大規模な組織が造りにくくなってきています。

例えば、今のネット社会は、人間の過去歴が調べやすいので、世間からのツッコミが教団内部に届いてしまうからです。

例えば、今の時代は、幸福の科学の総裁(エル・カンターレ様)のイタコ芸が、YouTubeで簡単に見られます。

普通の人は、抱腹絶倒のネタ芸人として、楽しめますが、旗から見ると、幸福の科学はイタコ芸宗教にしか見えないわけです。
※実際、イタコ芸宗教なのですが。

しかし、ちょっと前まで、ネットなど無かった時代でしたので、百万単位の大教団を築けたわけです。

創価も統一も、ネット時代でしたならば、これほど勢力を伸ばすことは出来なかったでしょう。

創価はネットがない時代に公明党という政治団体を作れて、与党に食い込めたので、既得権益として今も選挙を通れますが、幸福の科学(オウムも)は選挙に全然勝てません。

公明党だって、ネットがある今に、設立していたら、100%今のように選挙に通れなかったのです。


教義にしても、鎌倉時代の民衆レベルだったら、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を唱えさせて、一大宗教組織を作れたでしょうが、今の高度な教育を受けている国民には通用しないのです。

もっと言えば、新興宗教が百万単位の大組織になれたのは、高度経済成長時代で、神仏の力抜きに、勝手に繁栄していったからです。
それを、ご利益ということにしていたので、今はそれが通用しないということです。

どこの新興宗教も今や、老人ばかりで新規入場者は、二世三世以外、入っていません。

宗教団体は、経済成長しない時代には流行らないのです。



驚きの結果


で、通常の因果応報が霊性アップ法則と、違うのかと言うと、厳密にはややこしいのですが、違うとは言い切れないのです。

なぜなら、霊的な修行の成否として、徳の有無が求められることが多いからです。

わかりやすく言えば、修行をしても、それが達成できるかどうかというのは、やはり徳があるかないかの差ということです。

徳が無いと、修行が達成できないということもよく言われます。

何だかんだ言いながらも、修行や霊性アップということにも、因果応報の法則が適用されているのです。

また、さらに言えば、出家して瞑想している連中もみかけほど不幸では無いというのもあります。

瞑想とか荒行や断食で、神秘体験とかは、宗教の基本で、あらゆる開祖の共通の経験です。

で、現代では、その宗教体験の認識は、脳内麻薬ということでケリが着いています。

要するに、自前の麻薬摂取でハイになっているだけであると。

薬物が精神異常者と紙一重なのと同じように、宗教者も紙一重です。
麻薬を大量摂取していれば、ラリパッパになるのは当然です。

宗教修行者の記録を見ると、現世の快楽よりも遥かに強力な脳内麻薬の快楽の中にいることがわかります。

要するに、インドで大麻吸っているグルと同じです。
阿片窟にいるシナ人と対して変わりはないのです。

仕事をせずに、ニートでヤクにハマっている駄目男と、根は一緒です。

ある意味、因果応報の幸福なカルマの結果と言えます。

社会的な不幸で、地位名誉財産が剥奪されて、出家するというお馴染みの出家パターンも、別に不幸でも何でもなく、リタイアしてヤク漬けの生活で幸福になるのですから、ある意味、幸福なのです。

また、瞑想などをしなくても、宗教者は、基本、神との法悦でいつもラリってますので、これも同様です。

世間の価値観よりも上位だと認識するのも宗教の特質で、ある意味、王様になるよりも、神の預言者になる方が、本人にとって幸福なのです。

幸福という、観点で考えてみると、ある意味、因果応報の法則からは外れていません。

たしかに、善業は幸福へとリンクしています。
その幸福が、外部の物質的に満たされた幸福なのか、脳内の幸福なのかは別として同じことです。

そう考えると、因果応報はやはり、正しいのです。
本人の幸福・不幸という結果について論理的な関係性を定義しているからです。

論理的な関係性は、再現可能性に繋がり、これは、科学法則となります。
因果応報は科学の法則なのです。

つまり、何が言いたいかというと、

因果応報は幸福の科学なのです。










さて、綺麗にオチもついたところで、次回も出家の話を続けます。

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