2017年10月9日月曜日

【陰隲録】功過格表155 世界的ですもんね乗るしか無いこの世界観のビッグウェーブに 十善 いい人を紹介しよう㉜











このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)



なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中です。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
記事下のコメント欄や、メッセージやメールで、お気軽にどうぞ。

その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら



功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



教育的指導


人生の障害に対して、今まで色々対応パターンを見てきました。

しかし、結局、陰徳が大元であることには変わりません。
ここらへんは、前回まで見てきた通りです。

対応一覧を復習して見ると、

①神仏
②術数
③陰徳 
④諦める
⑤乗ってみる
⑥正面突破

こんな感じです。

しかし、
実は、もう一つ重要な項目があります。

①と③がからむサブカテゴリのテーマとして、教育的指導による障害という意味不明の項目があるのです。

これは、①と③で収納出来るので、本来、別に分ける必要は無いのですが、サブカテゴリとしては意識しておく必要があります。
本当は分けたほうがよいと思われるほど、重要項目です。


で、それは何かというと、要するに、この世界の障害や困難、不幸などが、全部、教育的指導であるという認識です。

もっと言えば、人生そのものが何らかの目的性を持って存在しているということです。

そもそも、人生の障害というテーマに留まらず、もっと上位の人生そのものや運命や輪廻や因果と言った、巨視的なテーマに関わるのです。

哲学で言うところの、目的論のテーマです。

なぜ、この障害が起きているのか?
という、解明と解決にはこの項目を可能性の一つとして入れる必要があります。



世界観


そもそも、世界がなぜ存在するのかという、根本的な問いかけは、昔から存在していました。

人間自体が、なぜ存在するのか?
どこから来てどこから存在するのか?
という、哲学的なテーマは、人間の抜本的なテーマです。

他の動物はそんなことは考えません。
自分がなぜ存在するのか?
世界がなぜ存在するのかを考えるのは人間だけです。

まあ、もしかしたら、我々が知らないだけで、近所の野良猫が実はのんきな顔をして、哲学的なことを考えている可能性もありますが、基本はまず人間だけです。

こんなことは、日常生きている時には問題になりませんが、暇を潰している知的階級にとっては問題になります。

暇な知的階級、哲学者に限らず、この問題に最も関係しているのが宗教者です。

昔は、知的階級は宗教と同一でしたから、尚更でした。

なにせ、宗教者は信者のツッコミに答える義務があります。
やれ金が無いだの、嫁が欲しいだの、信者の現世利益に答えなければいけません。

無視していると、ご利益の無い神様だということで、他の企業(宗教)に行ってしまいます。

そのため、信者が納得出来る解答を与えないといけないのです。

何で自分に障害、不幸があるのか?
解決してくれという信者のツッコミです。

つまり、このブログでやっているような話をしなければいけません。

さらに、信者からだけでなく、他宗教の異端・邪教との問答、情報戦にも、この解答は、必要です。

個々の人間の問題だけでなく、世界そのものに不幸がある理由や、世界はなぜ生まれたのか?存在しているのか?
という、存在意義を定義しなければ行けなかったからです。

世界観の定義は、その宗派のイデオロギーに直結します。

宗教のみならず、地政学や軍事学でも、世界観(世界は何であるか)のレイヤが、戦術や戦略よりも上位に来ているくらいです。

世界観が違えば、その下の国家戦略も大戦略も軍事戦略も何もかもが違ってしまいます。

例えば、冷戦時代の頃は、米ソという資本主義と共産主義に分割されていました。

資本主義と共産主義は経済政策の違いですが、もっと言えば、その奥にある哲学体系の違いでした。

突き詰めていけばこの2つの陣営の違いは、世界観が唯物論か否かという違いでした。

ユダヤ教・キリスト教が背景にある資本主義は、市場経済が「神の見えざる手」によって自動的に上手くいくという、信仰のシステムです。

対して唯物論の共産主義は、そのようなものを認めず、科学的な唯物論によりあくまで人間の手で計画経済を実施していました。

これらの世界観は結局、世界自体が何なのか?何の目的があって存在しているのか?
どこから来てどこへ行くのか?

世界に関するこうした世界の定義は、そのまま個人の人生へ連鎖します。

要するに、個々の人生の吉凶禍福は一体全体、何の意味があるのか?
という、個人の悩みや開運の問題に繋がるのです。


目的論


このブログでは、開運の方法として陰徳を推奨しています。

理論背景は、インド哲学から仏教を経て東アジアに輸入した因果応報理論です。

と言っても、別に難しい話ではなく、良いことをやれば応報で良いことがあり、悪いことをすれば罰で悪いことがある。

この単純なロジックです。

過去や前世においての業が現世の運命の良し悪しに反映されているならば、それを善業で相殺しようという論理です。

元々、仏教は、釈迦自身が、世界全てに原因と結果の因果のシステムがあると説いていました。

その応用といえば応用です。

しかし、ここでもうちょっとマクロな視点で見て見ると、時間軸が十年二十年ではなく、また現世だけでなく、連鎖する前世や来世まで見た時に、一体全体、この生の連鎖は何だ?という疑問が湧きます。

また、そもそも、前世や来世を当たり前のように想定していますが、それが人間の幻想である可能性も当然、存在するのです。

仮に存在したとしたら、一体なぜ、この人間や生物の生命の連鎖や輪廻が存在するのか?

この「目的性」を求める存在論のテーマが浮かび上がってきます。

唯物論的には、当然、そのような目的性はありません。
全くの無目的か、あえて言うなら、進化論的には、生命を次世代に繋げるための遺伝子リレーです。

ここが古来より問題になってきました。
世界がある。
何かシステムがある。
そして、それらは何で存在しているのか?
この目的論まで当然、古代からの宗教や哲学は思考が及びます。

ここに個人の開運の問題もからんでくるのです。
具体的には何か不幸や障害がある場合、ひょっとして問題の根源はこの世界の目的に関係しているのでは?という問題です。

その目的に沿った形であれば問題は解決するのでは無いか?
という期待が想定されるからです。

自然の法則に逆らっても意味がないというのは老荘思想の教えです。
世界が合目的的に動いているのであれば、それに乗るのが一番手っ取り早いのです。

これは、
⑤乗ってみる
にも通用する話です。

さて、この問題をもう少し突っ込んでみましょう。





































0 件のコメント:

コメントを投稿