2017年10月16日月曜日

【陰隲録】功過格表156 言の葉さらさらオーバーキル 十善 いい人を紹介しよう㉝












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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



因果応報


陰徳というか因果応報を考えていくと、どうしても不可解な事象に遭遇します。

それは、陰徳と応報の関係です。

もっと言えば、陰徳を積んでいるのに、徳の高い存在が、報われていないという問題です。

正義は勝つというスローガンは、プロパガンダですが、実際に、陰徳があるのなら、正義は勝っても良さそうなものです。

しかし、実際には、憎まれっ子世にはばかるのが、世界の実相です。

元々、因果応報や宗教全般は、信賞必罰を正当化、合理化するために生まれた概念です。

人類と言う種が考え出した、この発明品は、現世の不合理を説明するために生まれたのです。

だから、公正なる天や神は、善には福を持って対し、悪には災を持って対するというイデオロギーでもあります。

これによれば、因果応報はキッチリ、やったことと報いがそのまま帰ってくる物理的な代物です。

天に唾すれば自分に返ってきます。

地球は丸いので外部に投げた事や念は、地球を一周して自分に帰ってくるのです。

しかし、実例を見ると、どうもこれがキッチリ行われていません。

例えば、「因果応報」でググると、特に掲示板の家庭や女性同士の地獄のような発言が多くヒットします。

大体、昔、ブイブイ言わせていて、弱者を見下していた人間が10年単位で、没落しているという例です。

例えば、その中で例として、
出っ歯を馬鹿にしていた女性が、自分や子供が因果応報を受けたりとかの例の話があります。

因果応報見下し系の例ですが、まあ、横暴な権力者の失墜を喜ぶのは庶民のサガですので、創作である可能性もありますが、一応、サンプルとして例にとります。

この例は、単純に、
他人の口腔を馬鹿にしていた(因)
→自分と子供が口腔に関する被害や障害にあった(果)
という例です。

他にも、美人や金持ちであることを鼻にかけ、他人を見下していた女性が、大人になって失墜した例などもよく上げられます。

これも、上記の因果のパターンと同じです。

しかし、冷静に考えてみると、因果応報とは言え、これは変な話です。




不都合な真実




人を見下していた悪の因果は、当然、人に見下されることです。

今は繁栄していても、いつか没落した時に、人から見下される因果が発生しているのです。

しかし、上記のような例の時は、因果応報として、他人を見下したから、見下されるような状況になったという、因果応報の印象になりがちです。

しかし、これはやはり変な話なのです。

あくまで、人を見下していた因果は、人に見下されることなのです。

見下されるような地位の没落は、関係の無い話です。
別の因果の話です。

因果応報の等価交換の原則に合いません。

物理学と同じで、ある一定の力の作用を与えたら等分の力の反作用が無ければいけません。

人を見下したから、人に見下される立場に失脚するのは、明らかにオーバーキルです。

没落することと、見下されることは別物です。

当然、因果として、見下したこととは別に、他人を没落させたという別の因果が必要です。

具的的に言えば、人様にハゲと罵った悪業をAとしましょう。
そして、人様を禿げさせた悪業(どうやって?)をBとしましょう。

当たり前ですが、この因果は別物です。


ある人、Xさんが、人様にハゲと罵る悪業Aをやったとします。

ここで重要なのは、Xさんは別に、悪業はAしかやっていないことです。
人様を禿げさせた悪業Bはやっていません。

そうして、10年後に、なぜかXさんがハゲになって、ハゲと罵られるはめになったとします。

上記の因果応報系でよくある話です。




しかし、ここで?となるのは、あくまでXさんは、人を罵る悪業Aしかやっていません。

しかし、ハゲになる悪業Bの因果の結果をも受けています。

これは、一体どういうことでしょうか?




不等価交換論


Xさんは、ハゲを罵る悪業Aしかやっていないに関わらず、なぜ、Aだけでなく、禿になる悪業応報のBを受けたのか?

他にも、貧乏人を馬鹿にした人が今生で貧困になっていたり、庶民を馬鹿にしていた知識人や僧侶が、今生で学歴コンプレックスになったりと、色々と、見下し系の因果応報には、等価交換の原則から外れた例が多いのです。


この変な事象を解析するに、幾つかの推測が成り立ちます。


①ただの偶然

経験主義者ヒュームの弁を待つまでもなく、我々人間は、複数の別個の事象を、勝手にリンクする思考回路があります。

要するに、そもそも因果論などは、人間が勝手に考えた虚妄なのです。

しかし、こうすると、陰徳という開運が効果が無いという悲しい現実が待っています。

とりあえず、因果論は正しいという仮定の上で、論を進めていきます。



②因果応報は、利子性がある


陰徳による果報でも、逆の悪業による禍でも、そのまま作用反作用の等価交換では無いという、考えです。

つまり、貧乏人を見下して、高笑いする悪業は、来世で(今生中でも)、時間軸の進みと共に、利子が加算されるということです。

本来なら、貧乏になった時に高笑いされる程度だったカルマが、時間の関係で利子が溜まり、やがて貧乏になるような強大なカルマになってしまったということです。

今まで陰徳で見てきた限りでは、命運レベルの改善は10年単位でかかります。

表面的な問題の解決は数年以内の陰徳で十分なのですが、それは表面を押さえているだけで、根本的な生まれついての命運改善は、やはりそのくらいかかるのです。

これは、逆を言えば、10年単位の利子は、見下し笑いするくらいのカルマでも、十分、強力なカルマになるということでもあります。

大抵の、見下し因果応報の体験談では、若い頃の学生時代とか20代とかの見下し系が、大人になると、逆の立場になるという話が多いのです。

この因果応報利子説も、結構可能性があります。
例えば、人の命を助けたりすると、その子孫が鼠算的に、増えて行って、膨大な人数を助けたことになります。

以前も、三蔵法師は別に大して凄くなくても(何様だ?)、彼の膨大な漢訳経典を輸入翻訳した功徳は半端ないよね?
という、話をしました。

↓その話

【陰徳社会論】日本人はなぜ寄付しないのか?③



要するに、憎しみの連鎖と一緒で、逆の良いカルマも連鎖して膨れ上がるのでしょう。
人間は、さっきも言ったようにネズミ算的に増えるので、尚更です。

これは、陰徳を志す我々にとっても、重要な示唆です。
軽い陰徳やその逆の悪行でも、放置しておけば膨れ上がるのです。

人間は何も意識しないと、まず下に向かう生き物ですので、気をつけないと業の負債で、下に転がり落ちます。




③教育指導説


まあ、単純に考えて、見下し高笑いするような人は陰徳とかに興味ないでしょうから、マイナスの禍ポイントを積んでく一方なのでしょう。

で、10年位して命運が改悪されて、失脚すると。

要するに、見下し笑いの悪業が、別に利子がつかなくても説明は可能です。
別の因果が無いとはいい切れないからです。

見下し笑い以外の失脚する業も前世にあって、それが今世で出てきたのかもしれないのです。

人間は業のパラメータデータを見ることは出来ません。
どのくらい業があるのか?
陰徳や悪業がどのくらい溜まっているかは、現世の自分の実行した記録(これが功過格です)でしか見れないのです。

もっと言えば、どんな業があるかは、実際に受けてみないとわかりません。
因果応報として、現世にイベントとして起きないとわからないのです。

起きたイベントから逆算するしか無いのです。

例えば、人から盗まれたのなら、過去世で盗んだのだろうという推測です。

※これが、悪や悪政を容認してしまうイデオロギーになりかねない危険性なのは、いつもの通りです。

しかし、この帳尻があうという話もまた微妙なところです。

なぜなら、タイミングが良すぎるからです。

若い頃、ハゲを馬鹿にしていた人が、大人になってハゲになって馬鹿にされる。

これは、今世でハゲを馬鹿にしたというカルマと、過去世で、相手をハゲにしたという悪行のカルマという別々のカルマが、タイミングよく今世でまるで連鎖した因果応報のように、起きているからです。

まるで、何らかの人為的な存在が、因果応報という道徳訓を人間に教えるかのように、タイミングよく発生しています。



そして、前回に繋がる


この手の、因果の等価交換を無視した事象は、かなり多く、何らかの悪行を諫止するために、明らかにオーバーキルでかつ因果的な不幸が起こり、結果として、その悪行や心根が直るという話はよくあります。

一般に、この手の話は、宗教とからむことが多いのです。

あまりにわかりやすいタイミングなために、神仏のありがたいお指図だと、論理的な説明がつけられます。

つまり、ただのやったことが返ってくる、作用・反作用ではなく、人為的な意図的な吉凶禍福の因果応報のシステムがあるということです。

ここで、ようやく前回の話とリンクするのですが、
これが、世界のシステムにおける教育指導説です。

人間社会が、参加メンバーを、社会人になるために矯正するのと同じで、何らかの目的に沿ったシステムがあるのではないか?

個人レベルのみならず、世界観に、目的論の視点を持ち込むと、そのような説になります。

要するに、世界には何らかの目的の方向がある。
神の意思でも宇宙の意思でもいいですが、ある一定のレベル段階の意識があり、人間は進化していると。

まあ、これらの目的の方向は、言っている人は、大抵、宗教系なので、基準は道徳レベルで、愛の強さだとか、自我を捨てろだとか、全てを受け入れろだとか、学びなさいだとか、耳障りのいいことが大半です。

基本、西洋人は一神教なので、一直線の進化する時間軸を持っています。

ユダヤ人のルサンチマンから発生した認識でしょうが、いつか悪(自分たち以外)は滅び、善(自分たち)は大勝利するという発想です。

ヘーゲルの歴史的弁証法だとか、進化論だとか、マルクスの共産主義史観とかも、全部同じです。

時間軸の未来に向かって、どんどん良くなっていくという進歩主義です。

この世界観の違いは洋の東西があり、例えば仏教なら六道輪回は、下の地獄から、上の天界まで一見、進歩主義に見えますが、結局、天界もゴールではなくて、業が尽きたらまた下に戻ってしまいます。

ラットレースの例えを豊河はよく使いますが、ぐるぐる回って進歩なんかしないという世界観が、この仏教的世界観です。

春夏秋冬がぐるぐる巡っているように、別に同じことの繰り返しだと見るのです。

それでも、螺旋状に進化はしているというのが、進歩主義の世界観なのですが、とにかく、何らかの上昇方向へ、世界は進歩しているという世界観が存在します。

あまり我々、日本人は意識することは無いですが、輪廻転生などが、インド経由で欧米から逆輸入してきたスピリチュアリズムの業界では、この手の話は常識レベルです。

個人の運命や輪廻転生も、この世界観に合わせて、何かしらの意味があって、目的論的にシステムがあるという主張なのです。

で、長々とダラダラと、回りくどい話をしてきましたが、要するに、人生の障害について、何でこんな障害が起きているかとか、どうすれば解決出来るのかということについて、この目的論的な世界観を応用してみようということです。

では、次回は、具体的にそこらへんを考えてみましょう。



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