2017年10月23日月曜日

【陰隲録】功過格表158 刑務所に入るのがステータスという武勇伝 十善 いい人を紹介しよう㉟











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功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す



三獄死


人生の障害や妨害に対して、どう対応するかの話で、色々なパターンを見てきました。

まあ、パターンとは言っても、基本は陰徳で何とかなります。

しかし、そうは言っても、陰徳は時間軸の後の方で聞くので、今、現実的にある危機には対応出来ません。

そこで様々な対応策を見てきたわけです。

その中でも、見過ごせないのは、教育的指導説、つまり、トラブルや困難や不幸は、霊的成長のためにわざと高次の存在が仕掛けているのでは?という視点です。

この説は、宗教業界ではほぼ基本の説で、洋の東西を問わず、言われています。

逆に、厳しい現実を合理化するには、そういうしか無かったという現実的な観点もあります。

いくら祈っても、現世のろくでもない状況は変わらないからです。

そこで、これは神(仏)の試練であるという話になるわけです。

※権力と結びついた宗教は、為政者の悪政をこのロジックで合理化します。

ちなみに、ここで、試練と言っても教育と言っても同じことです。

人間世界に通過儀礼や試験、訓練期間があるのと同じで、霊的世界でも同様のシステムがあるというのは、人間的には類推しやすい話です。

基本、なぜ世界に悪があるのか?
という、おなじみの神義論も、同様です。

全ては霊的な成長のためと言えば、一応、合理化されます。

そして、以前の記事でも言ったように、ここには、劣ったステージの存在から、優れたステージの存在へと進む、進化論的な観点があります。

これが、実社会に投影されると、インドのカースト制度のような階級社会になるのは、火を見るまでも明らかですが、宗教業界では神を弁護する神義論としては、非常に使い勝手がいいので、未だに使われています。

具体的にどういうものかは、実際に見てみた方が早いので例をいくつかあげると・・・。

例1
神の子(自称)が、絶対神の教えを愚民どもに布教
→なぜか、国家権力の不当な弾圧で極刑に
→全人類の罪を贖うためだった。自分を犠牲にした究極の愛として世界宗教へ。

例2
釈迦に並ぶ聖者(自称)が、最高の経典を愚民どもに布教
→なぜか、国家権力の不当な弾圧で極刑に(なりそうになった)
→経典に予言されていた法難である。

例3
人類屈指の聖人(自称)が、古の礼儀を復興させ、愚民どもに布教
→なぜか、国家権力の不当な弾圧で、結局、失脚。一生不遇。
→弟子たちを育成して後の時代に国教へ。世界宗教レベルに。


ここにあげた例は、非常にレベルが高い(?)、レアな例ですが、大体の教育的指導パターンとしては合っています。

要するに、本来、神仏の預言者(手下)として、非常に徳の高い連中にしては随分と、不徳な目(不幸)にあっているのです。

基本的に因果応報の原則は、善人は報われる、悪人は裁かれるです。
不幸な目に合うのは、ようするに 不徳なのです。

ところが、こうした聖人たちは、大抵、人生ろくな目にあっていません。
それどころか短命で刑死している不徳の極みのような連中も多いのです。

イエスも、韓非子も、マニ(マニ教の開祖)も、吉田松陰も、みんなそうです。
彼らの後の影響力の割には、その一生は、不徳の因果応報の結果としか見えないのです。


せいぜい、最後までリア充だったのは、イスラームの開祖マホメットくらいです。

なぜか、みんな揃って異常に不幸な目にあっています。
彼らは、そんなに不徳な連中だったのでしょうか?

ここに、因果応報のシステムのもう一つの顔があります。

で、次回に続きます。

































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