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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
必要悪
必要悪の問題を、前々から、論じています。
何故かと言うと、陰徳だの、善業だのを社会で追求していくと、どうしてもこの問題に突き当たるからです。
これは、逆の、悪業でも同様です。
例えば、正当防衛は悪なのか?
悪人を攻撃するのは悪なのか?
特に、自分が攻撃しなければ、自分以外の他者に被害が及ぶような場合に攻撃するのも悪なのか?
悪でなければ、善でカウントしていいのか?
悪でも情状酌量が認められて、減算されるのか?
偉くなればなるほど、全体のことを考えなくてはならなくなり、所属組織のためにする防衛的な軍事警察行動は、悪になるのか?
敵軍の敵兵士を殺すのは悪なのか?
敵方のスパイを拷問するのは悪なのか?
それによって、救われる自国民が多ければ、結果として善になるのか?
また、それによっても戦争に勝てず、負けて自国民が全滅した場合は、善が加算されず、悪になってしまうのか?
善と悪が別帳簿で、加算されて、相殺しないのか?
等々・・・。
ストック
平和な日本で下っ端として、のんびり暮らしていれば、これらは、あまり気にすることはありませんが、平和な時代でも、上に上がれば上がるほど、この問題は、喫緊になってきます。
これらは全て、業(カルマ)のストックや計算方法がブラックボックスになっているためです。
人間の社会は、罪刑法定主義により、法が明確化しています。
しかし、このようなカルマの因果応報の法則は、明文化されていません。
功過格には、何々は何点と、明文化されていますが、所詮は、民代の中国人が、勝手に作った一覧です。
ましてや、個人個人の業のストックは全く見えません。
かろうじて、現実化した現象を持って、ああ、こういうカルマがあったんだなとわかるくらいです。
※例えば、物が盗まれたなら、物を盗んだカルマがあるというような感じの。
そして必要悪
ここらへんの事情のため、陰徳である程度、開運しても、一定以上の地位についたときに、方針がなかなか定まりません。
以前も、ここらへんの問題を論じ、色々なパターンを出しましたが、
まず、逃げる。
→逃げられなかったら、罪を侵さないように知恵を絞る(あらかじめ想定しておく。勉強の必要性)
→出なかったら、諦める。
武官じゃなくて文官に初めから就くとか、予め進路を決めておくとかも有効ですね。
しかし、最後の諦めるパターンまで行くと、ここまで来ると、普通にストレスがかかります。
この場合は、その先のルートが、2つあり、
①罪を犯す覚悟で他者を守る。自分が地獄に落ちても他人が守れれば、それでいいと覚悟を決める。
②もしくは、これも個人個人の、因果応報であると、見捨てて、諦める。悪人は勝手に天が裁いてくれる。
どっちにしろ、ろくでもないルートで、正直、こういう状況になること自体が罰ゲームです。
で、実は、どっちも宗教的には正解であり、理屈はどっちでもつけられます。
真の善人
①は、自己犠牲の精神で、人類の罪を背負って磔に上がったのさらに、進化版です。
磔にあうだけなら、まだ、自分は被害者だと言いはれますが、必要悪をすることで、罪を背負うリスクを負うのです。
そう考えると、イエスなんか、中途半端な輩です。
全人類の罪を背負うとか言っても、所詮は、口先だけです。
本当に罪を背負うなら、その罪を実際にやらなければ、いけません。
他人を、家族を、国を守るために、法を犯し、人を殺し、虐殺し、大量に殺さなければなりません。
で、もちろん、死後は地獄に堕ちる。
3日で復活して、天国に昇ってのうのうと余裕ぶっこいているイエスなどは、所詮は、小物に過ぎません。
本当に善なのは、自分が地獄に堕ちるとわかっていながら、他人のために、必要悪を為して地獄に堕ちる自己犠牲精神を持つウルトラ善人なのです。
鉄面皮
というように、宗教的にも説明出来ますが、②の方も、できます。
理由は、本来のベーシックな悟りの境地だからです。
あまり、一般の印象とはかけ離れているのですが、素直に、悟りの内容を論理的に見てみれば、別に、他人が死のうがどうなろうが、意にも介さない鉄面皮の精神が、悟りの境地です。
一切の喜怒哀楽に惑わされない。
というより、一切の外物に惑わされない。
人間は基本、喜怒哀楽、つまり快と苦の二極がありますが、それは、外物に対して、自分が反応するからです。
例えば、お腹が痛い時に、それは痛いという感覚を与えますが、それを、精神的に苦しいと感じるかどうかは、別物です。
まったく精神的に平気であってもいいですし、逆に大喜びするハッピーな精神でもいいわけです。
そして、こういう肉体の苦しみだけじゃなく、善悪の問題も同様で、凄い大金や宝や美女を見ても、なんとも感じないのと同じで、他人の苦しみを見ても、全然、感じないのも、また悟りの境地なわけです。
要するに、一切の、この世の存在や事象に、一切の執着を持たないということです。
もし、執着を持ってしまえば、それは、まだまだ文字通り解脱していないわけです。
眼の前で、仲間が何人も何万人も死んでいようが、全然、心が動かされないような、超人が悟りの境地です。
で、二パターンを言っていますが、どっちにしろ、常人には出来ない話ですので、まあ、こうなる前に、なんとかしましょうというのが、本来のルートですね。
知恵と知識でなんとかするのが基本なので、勉強をがんばりましょうとか、すぐ逃げられるように、日頃から逃げる準備をしておきましょうということですね。
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